幻影書庫と、不法侵入
「……見てくれよ、雨宮さん。これ」
探索者ギルドに併設されたオープンテラスのカフェ。
アイスコーヒーのストローを咥えていたしずくの前で、俺はスーツの右腕を差し出した。
ジャケットの袖口がボロボロにほつれ、中の白いシャツも少し破けてしまっている。
「うわぁ……見事に裂けてますね。昨日の訓練用ダミーを殴った時のですか?」
「ああ。あの後、家に帰って鏡を見たらこのザマさ。洋服の青山で買ったお気に入りのツーパンツスーツだったのに」
俺は深いため息をつき、乱れたネクタイを締め直した。
「俺の異常な筋力で本気で殴ると、筋肉の膨張とすさまじい風圧のせいで、ただの布地じゃ耐えきれずに破けちまうんだ。これじゃあ、ダンジョンに潜るたびにクリーニング代とスーツ代で赤字になる」
「探索者なんですから、普通に専用の防具や戦闘服を着ればいいのでは……?」
「ダメだ。俺にとってスーツは、社会人としての『世を忍ぶ仮の姿』を保つための必須アイテムだからな。それに、仕事終わりにわざわざ着替えるのはタイムロスだ。残業後の時間は1分1秒でも惜しい」
俺が力説すると、しずくは「次元が違うのか変なだけなのか分からなくなってきた……」と頭を抱えた。
俺の足元の影からは、妖狐のクロがピョコッと顔を出し、同情するように俺の革靴に頬を擦り寄せている。
「それに、もう一つ懸念がある」
俺は声を潜めた。
「今はゴブリンやオークみたいな『物理で殴れる敵』だからいい。だが、もし今後、高難度ダンジョンで『物理攻撃が一切通用しない霊体』や『打撃を吸収するスライム』が出たらどうする? 俺の素手じゃ、触れることすらできずにスーツだけが汚れる最悪の事態になる」
「あー……確かに。朝倉さん、異常な魔力は持ってますけど、魔法の使い方は知らないんですよね」
しずくの言う通りだ。俺のスキルはあくまでパッシブ(常時発動)の身体強化や概念破壊であり、火の玉を飛ばしたりするような器用な魔法は使えない。
「だから、俺の素手に代わる、あるいは素手をコーティングできるような『超強力な魔法』が欲しい。なんか心当たりないか?」
俺が尋ねると、しずくは少し考え込み、やがて周囲をキョロキョロと見渡してから小声で話し始めた。
「……探索者専用の裏掲示板で、最近よく囁かれている都市伝説があるんです」
「都市伝説?」
「はい。東京の地下をランダムに漂っていて、入るための条件が一切不明の隠しダンジョン……『幻影書庫』の噂です」
しずくによれば、そこは神話の時代から蓄積された『古代の叡智(魔法)』が眠る巨大な図書館だという。
極稀に、地下鉄の奥深くや下水道に数分だけゲートが現れては消えるらしく、偶然迷い込んだ探索者が「見たこともない魔導書が山のようにあった」と書き込んだことで噂になったそうだ。
「古代の魔法が選び放題の図書館、ねえ。それはぜひとも図書カードを作りたいところだな。……クロ、いけるか?」
『キュウ!』
俺が足元に問いかけると、クロは影の中から「任せて!」とばかりに元気よく鳴いた。
「え? いけるかって……ゲートの出現場所も時間もランダムなんですよ? どうやって探すんですか」
「探す必要はないよ。俺たちから『押し入る』から」
「……はい?」
◇ ◇ ◇
俺たちがやってきたのは、新宿駅の地下深く、立ち入り禁止区域になっている旧地下鉄の廃路線だった。
暗く湿った空間で、俺はクロに指示を出した。
「クロ、お前の『影渡り(空間跳躍)』で、この東京の地下空間に漂っている『幻影書庫』の座標を探れるか?」
『キュキュッ!』
クロは目を閉じ、全身の星屑のような毛並みを淡く光らせた。
クロのスキルは、空間と空間を繋ぐゲートを作り出す能力だ。ダンジョンの正規システムを通さずとも、空間の裏側(影)から目的地の気配を嗅ぎつけることができる。
数秒後、クロが何もない空中の「ある一点」に向かって鼻先を向けた。
『キュゥウ!』
「よし、見つけたな。そこが『幻影書庫』と現実世界の境界線か」
俺はワイシャツの袖をまくり上げ、クロが示した何もない空間へと右腕を突き入れた。
「あ、朝倉さん!? 何もない空間に腕が……めり込んでますよ!?」
しずくが悲鳴のような声を上げる。
俺の腕は、まるで水面に手を入れたかのように、空間の歪みの中にズブズブと沈み込んでいた。
指先に、分厚くて硬い『見えない壁』の感触が伝わってくる。ダンジョンシステムが構築している、外部からの侵入を阻む絶対のファイアウォールだ。
「……なるほど。確かにこりゃ、正規のゲートキーがないと絶対に入れない頑丈な扉だ」
だが、俺にとっては「物理的に触れられる」時点で、ただの障害物でしかない。
「――開けゴマ」
俺は、【EX:概念破壊】のスキルを乗せた右腕にギュッと力を込め、見えない壁を強引に『握り潰した』。
パァァァァァァァァァンッ!!!
凄まじいガラスの破砕音と共に、俺の目の前の空間に亀裂が走り、バリバリと音を立てて空間そのものが砕け散った。
砕けた空間の奥から、古びた紙と埃の匂い、そして膨大な魔力の気配が溢れ出してくる。
『――警告。エラー。エラー。未承認のアクセスを検知』
『防壁が物理的に破壊されました。隠しエリア【幻影書庫】へと接続します』
無機質なシステムアナウンスが脳内に響く。
「よし、ハッキング完了だ。行くぞ、二人とも」
「……私、とんでもない犯罪行為に加担してる気がしてならないんですけど……」
顔を引きつらせるしずくの背中を押し、俺はクロと共に、砕け散った空間の穴へと足を踏み入れた。
穴を抜けた先に広がっていたのは、息を呑むような光景だった。
見渡す限りの巨大な本棚。天井すら見えないほど高くそびえ立つ書架には、無数の古書がビッシリと詰め込まれ、宙には淡く発光する魔力球がフワフワと浮遊している。
まさに、神代の叡智が眠る巨大な大図書館。
「すごい……! 本当に、実在したなんて……!」
しずくが目を輝かせて周囲を見渡す。
「さて、と」
俺はネクタイを少し緩め、首をポキポキと鳴らした。
「俺のスーツを守ってくれる最高の魔法、じっくり探させてもらおうか。……どうやら、ここの『司書』さんたちは、立ち読みを許してくれそうにないけどな」
俺の視線の先。
巨大な書架の影から、ズシン、ズシンと重い足音を立てて現れたのは、全身を古代のルーン文字で覆われた、見上げるほど巨大な大理石の魔像の群れだった。




