スーツ姿の初心者(レベル812)と、深層からの迷い人
東京・新宿区。高層ビル群の影にひっそりと口を開ける
『第8ゲート』。
ここは主にゴブリンやスライムしか出現しない、初心者用のF級ダンジョンだ。
「ええと、ライセンスの確認ですね」
入り口のゲート管理所。迷彩服を着た自衛隊員の警備員に、俺はホコリまみれのカードを提示した。
警備員はカードをスキャナーに通す。画面には【等級:F(※測定エラー履歴あり)】と表示された。
「……お兄さん、スーツのまま潜るのか? 最近は低階層でも変異種が出るって噂だ。死にたくなきゃ、せめて革鎧くらい買ってきた方がいいぞ」
「あ、大丈夫です。ちょっと運動不足の解消なんで」
同情するような警備員の声に愛想笑いで返し、俺はビジネスバッグを提げたままダンジョンへと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
薄暗い洞窟の中を、革靴の足音だけがカツカツと響く。
すれ違う初心者パーティたちは、ネクタイを締めた俺の姿を見て「なんだあのサラリーマン」「自殺志願者かよ」とヒソヒソ笑っていたが、気にするだけ無駄だ。
『ギギャッ!』
曲がり角から、緑色の醜悪な小鬼――ゴブリンが飛び出してきた。
手には錆びたナタ。初心者探索者が初めて恐怖を覚える、定番のモンスターだ。
「……遅いな」
俺の目には、ゴブリンの動きがコマ送りのように見えた。
あくびが出るほどの速度。俺は避けることすらせず、迫るナタに向かって、デコピンの要領で中指を弾いた。
パァンッ!!
「……あ」
破裂音。
ゴブリンの顔面はおろか、上半身がトマトのように弾け飛び、光の粒子となって消滅した。
【経験値を吸収しました】
【レベルが上がりました:812 → 813】
「デコピン一発でこれかよ……」
【EX:概念破壊】による防御無視ダメージが乗っているとはいえ、あまりにもあっけない。
自分のデタラメなステータスに呆れつつも、俺の口角は自然と上がっていた。
残業してエクセルのセルを埋めるより、ダンジョンでモンスターを吹っ飛ばしている方が、何百倍も血が騒ぐ。
「もっとだ。この程度じゃ、100点には程遠い」
俺はネクタイをさらに緩め、足早に下層へと続く階段を下りていった。
◇ ◇ ◇
F級ダンジョン・地下5階。
本来なら初心者が数ヶ月かけて到達するエリアだが、俺は数分で踏破していた。道中のモンスターは全て、すれ違いざまのデコピンや張り手で爆散している。
「キャァァァァァァッ!!」
その時、前方の開けた空間から悲鳴が響いた。
歩みを進めると、そこには血の気を引かせた3人の若手パーティが、巨大なバケモノに壁際まで追い詰められていた。
「嘘だろ!? なんでこんな浅い階層に『オーク・ミュータント』が!?」
「ひぃぃっ! 嫌だ、死にたくないっ!」
体長3メートル。全身が赤黒い筋肉で覆われた豚頭の魔人。
どう見ても初心者が挑むF級のモンスターではない。C級、いやB級に匹敵する変異種だ。
若手パーティの少し後ろでは、そこそこ良い装備に身を包んだ中堅パーティの男たちが、ニヤニヤと笑いながら事態を傍観していた。
「おいおい、新人共! ちゃんと俺たちが『トレイン(なすりつけ)』してきた囮の役目を果たせよ!」
「俺たちが逃げるまでの時間稼ぎくらいしろっての! ギャハハハ!」
どうやら、あの中堅パーティが深層で手に負えない変異種を引き当て、逃げる途中でたまたま居合わせた若手たちになすりつけたらしい。ダンジョンでは時折起きる、最悪の悪質行為(PK)だ。
「……胸糞悪いな」
俺はため息をつきながら、ビジネスバッグをドサリと床に置いた。
『ブゴォォォォッ!!』
オーク・ミュータントが丸太のような剛腕を振り上げ、若手の少女探索者に叩きつけようとした、その瞬間。
――シュンッ。
俺は一歩だけ踏み込み、少女の目の前に割り込んだ。
「え……?」
尻餅をついた少女が、目を丸くする。
直後、オークの剛腕が俺の頭上に振り下ろされる。俺はそれを、左手一本であっさりと受け止めた。
ドゴォォォンッ!!
すさまじい衝撃波が広がり、洞窟の壁にヒビが入る。
だが、俺の革靴は1ミリも後退していない。スーツに少しシワが寄った程度だ。
『ブギィッ!?』
オークが驚愕に目を剥く。
「なんだあのサラリーマン!?」
「バカな、オークの全力攻撃を片手で……!?」
傍観していた中堅パーティも、腰を抜かしたように叫び声を上げた。
「あーあ、青山で買ったスーツなのに。土埃がついちゃったじゃないか」
俺はぼやきながら、受け止めたオークの腕を軽く握り潰した。
『ギャァァァッ!?』
バキィッと骨が砕ける音。悲鳴を上げて後ずさる巨大な豚に向かって、俺は無造作に右拳を引き絞る。
「残業のストレス発散、付き合ってもらうぞ」
――ドグォォォォォォォンッ!!
ただのストレートパンチ。
それがオークの腹にめり込んだ瞬間、分厚い筋肉も、強靭な骨格も、概念ごと貫通した衝撃波が背中側へと突き抜けた。
オークの巨体はくの字に折れ曲がり、洞窟の奥深くまで弾き飛ばされ、壁に激突して跡形もなく消滅した。
【固有スキル『暴食の覇竜』が発動しました】
【対象の経験値と、スキル『剛力』を吸収します】
【レベルが上がりました:813 → 850】
ティロリンッ♪という軽快なレベルアップ音が脳内で響く。
やっぱり変異種ともなると、上がり幅が段違いだ。
「ふぅ……ちょっとは運動になったか」
俺が拳の埃を払って振り返ると、助けられた若手パーティも、囮に使った中堅パーティも、全員が幽霊でも見るような顔で俺の顔を凝視していた。
「あ、あんた……いったい、何者……?」
中堅パーティのリーダーが、ガチガチと歯を鳴らしながら後ずさる。
「俺? ただの通りすがりの、60点のサラリーマンだよ」
俺は床に置いたビジネスバッグを拾い上げると、呆然とする彼らを置き去りにして、さらなる深層へと歩き出した。
まだ、俺の『100点』の熱狂を満たすには、この程度のバケモノじゃ足りない。




