規格外のデバフ(出張手当)と、ワンパンの空間打撃
「……嘘だろ。片手で、あのバケモノの一撃を……?」
吹雪が吹き荒れる札幌の市街地。
S級第2位の【剣聖】天羽蓮は、目の前の光景に己の目を疑っていた。
人類の限界であるS級(レベル999)の絶対防御を、いとも容易く紙屑のように粉砕した、レベル2200・突然変異体の『絶氷の魔獣』。
その数トンにも及ぶ質量と致死の魔力が込められた前足の踏みつけを、突如として空間の穴から現れた『ただのスーツ姿の男』が、左手一本で涼しい顔をして受け止めていたのだ。
「あの……朝倉さん? 早く退かしてもらえませんか? 北海道、寒すぎて凍えそうなんですけど」
「悪い悪い。俺もヒートテック着てくればよかったよ。よし、やれ、エース」
朝倉と呼ばれた男が左手を軽く払うと、巨大な魔獣の体勢がグラリと崩れた。
その隙を見逃さず、背後にいた丸眼鏡の少女――雨宮しずくが、身の丈ほどある杖を構えて叫ぶ。
「はいっ! 行きますよ、消防車、全開っ!!」
「『エンチャント・ブースト』!!」
しずくの杖の先端から、極太の黄金の魔力が撃ち出され、魔獣の巨体を包み込んだ。
「バカな!? なぜ敵に支援魔法をかける!」
天羽の部下である『天刃』の探索者が悲鳴を上げる。ただでさえ勝てないレベル2200のバケモノを強化するなど、自殺行為以外の何物でもないからだ。
だが、黄金の魔力を浴びた魔獣に起きたのは、「強化」ではなく「崩壊」だった。
『ギ……? ガ、ガガガァァァァァァァッ!!?』
魔獣の全身を覆っていた強固な黒氷の装甲が、内側から膨張し、バキバキとひび割れ始めた。
六つの赤い眼球が痙攣し、口からは大量の紫色の魔力が蒸気のように噴き出している。
「なっ……!?」
天羽が息を呑む。
水風船がどれだけ巨大(レベル2200)であろうと、限界容量を完全に無視して高圧ホースの水を叩き込まれれば、必ず破裂する。
しずくの放った異常な密度の魔力は、魔獣の体内の魔力回路を強制的にショートさせ、致命的な内部破壊を引き起こしていたのだ。
『ギシャァァァァッ!!』
魔獣が狂ったように暴れようとするが、自身の膨大な魔力が暴走し、四つん這いの巨体がその場にベチャッと潰れて動けなくなる。天羽の『次元断』を瞬時に再生した異常な回復力も、システムそのものがバグを起こしている今の状態では全く機能していない。
「よし、完璧なアシストだ。じゃあ、サクッと片付けて仕事(サーバー回収)の続きをするか」
健人はネクタイを少し緩め、軽く息を吐いた。
そして、右手でビジネスバッグをしっかりと抱え直し、『見えない空間のグローブ』を纏った左拳を軽く握り込む。
「出張先での残業は、なるべく手短にな」
トンッ、と。
健人は雪を蹴り、動けなくなっている魔獣の懐へと一瞬で潜り込んだ。
あまりの速さに、天羽の目すらも健人の動きを捉えきれなかった。
「そらよっ」
健人が、無造作に左の拳を振り抜く。
それは、格闘技の洗練された一撃でも、魔力を込めた必殺技のモーションでもない。ただの「素人のストレート」だった。
だが、その拳の表面には、神話級の魔法『絶対空間圧縮』が数ミリの厚さで纏りついている。
――ドゴォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
拳が魔獣の強固な頭部に触れた瞬間。
「殴った」という物理的な打撃音ではなく、空間そのものが大きく抉り取られるような、鼓膜を破る重低音が響き渡った。
「え……?」
天羽の口から、呆然とした声が漏れる。
健人の拳は、魔獣の巨体を『貫通』したわけではない。
拳の軌道上にあった魔獣の頭部から胴体にかけての空間が、文字通り「存在ごと消滅」したのだ。
圧縮された空間の壁が、レベル2200のステータスも、分厚い装甲も、全てを無視して削り取った。
『…………』
断末魔を上げる口すらも消し飛んだ魔獣の残骸が、パラパラと光の粒子となって北の大地の吹雪の中へ溶けていく。
日本のS級が命を賭しても倒せなかった災厄級の突然変異体は、ただの一撃で、完全にこの世から消し去られた。
「ふぅ。やっぱりこの『見えない手袋』は最高だな。バケモノの返り血も体液も空間バリアが弾いてくれるから、スーツにシミ一つ付かない」
健人は、全く汚れていない自分の左袖を見て、満足げに頷いた。
「あ、朝倉さん! レベルが……私のレベルが、一気に300まで上がっちゃいました……!」
背後で、魔獣の莫大な経験値を吸い込んだしずくが、自分のステータス画面を見てワタワタとパニックを起こしている。クロは相変わらず、落ちた巨大な魔石をヒョイパクと影に回収していた。
「……お前」
静まり返った戦場に、天羽の震える声が響いた。
S級第2位の天才剣士は、刀を構えることすら忘れ、目の前のサラリーマンをバケモノを見るような目で見つめていた。
「昨日、新宿の地下で空間を軋ませていたのは……やはりお前か。そのデタラメな空間制御、間違いない。……お前、一体何者だ?」
天羽の問いかけに、健人は「ああ、そういえば」と思い出したようにスーツの内ポケットを探った。
そして、少しシワになった一枚の名刺を取り出し、天羽に向かってスッと差し出す。
「ご挨拶が遅れました。私、東京の商社で第2営業部の主任をしております、朝倉と申します。先程は東京でどうも」
「は……?」
天羽は、渡された名刺と健人の顔を交互に見比べた。
数万のバケモノがひしめく地獄の最前線で、人類未踏のレベル2200をワンパンで消し飛ばした男が、名刺交換を求めてきているのだ。脳の処理が完全に追いついていない。
「それで、天羽さんにお伺いしたいんですが」
健人は、吹雪の向こうにそびえ立つ、巨大な氷柱に貫かれたビル群を見上げた。
そこは元々、健人の会社の札幌支社があった場所だが、今は完全にダンジョンの一部と化して禍々しいオーラを放っている。
「うちの会社の『札幌支社の地下サーバー室』を探してるんですけど、この辺りの道案内、お願いできませんかね? 早めに回収して東京に帰らないと、有給申請が取り消されちゃうんで」
極寒の地獄のど真ん中で。
最強のS級探索者たちを前に、ただのサラリーマンの最高に場違いな『出張ミッション』が幕を開けた。




