未曾有の絶望(レベル2200)
北海道、札幌市。
かつては数百万人が暮らしていた雪と氷の美しい都市は、今や見渡す限りの地獄と化していた。
A級指定ダンジョン【白銀の霊峰】から溢れ出した数万のモンスター群。
吹雪に混じって濃密な紫色の魔力(瘴気)が吹き荒れ、市街地のビル群は巨大な氷柱に貫かれて次々と崩壊していく。
「退がるな! 俺の背中より後ろには、十万の市民が避難しているんだぞ!!」
札幌防衛ラインの最前線。
猛吹雪の中で部隊を鼓舞していたのは、日本S級第5位、【不動】の異名を持つ歴戦の老探索者・東郷だった。
彼の固有スキル『金剛城壁』によって生み出された巨大な光のタワーシールドが、A級モンスターであるアイス・ドレイクの突進を真正面から受け止める。
「フンッ!!」
東郷が盾を押し返すと、ドレイクの巨体が数メートル吹き飛んだ。レベル999という人類最高峰のステータス。彼がここに立つ限り、この防衛線は絶対に破られないはずだった。
だが、ダンジョンの異常は「人類の常識」を容易く踏みにじった。
ピピピッ、ピーーーッ!!!
突如、後方でモニタリングしていたギルド職員たちの特殊測定器から、エラー音のようなけたたましいアラートが鳴り響いた。
「な、なんだ!? 空間の魔力濃度が……計測器の限界値を振り切っています!」
「上空です! ダンジョンの領域そのものが拡大して、空間が……裂けます!!」
空中に、赤黒い亀裂が走った。
そこから、ドロリと「這い出て」きたのは、体長10メートルを超える、四つん這いの歪な獣だった。
全身が禍々しい黒氷で覆われ、その六つの赤い眼球が、眼下の東郷たちをギロリと睨み下ろす。
職員が震える手で、測定器が弾き出した数値を読み上げた。
「エ、エネミーのレベル……測定完了……。嘘だろ……」
「どうした! A級か、それともS級か!?」
「違います……ッ! レベル……『2200』……!! 未観測の、突然変異体です……!!」
その数値がスピーカーから流れた瞬間、戦場が凍りついた。
人類が到達した絶対上限が999。歴史上、世界で観測された最強のモンスターですらレベル1200程度だ。
「2200」。それはもはや生物の強さではない。歩く天災、あるいは神話の終末装置に等しい絶望の数字だった。
「レベル、2200だと……!? バカな、システムがバグってやがるのか……!」
東郷の顔から血の気が引く。
だが、彼は歴戦のS級だ。絶望に呑まれる前に、全生命力を燃やして最強の防御スキルを展開した。
「俺が止める! 全員、後退しろォォォッ!! 『絶対守護・金剛不壊』!!」
東郷の前に、数十層にも重なる神話級の物理・魔力防壁が展開される。
しかし。
『グルルォォ……』
絶氷の魔獣が、ただ無造作に前足を振り下ろした。
それだけで、空間の圧力が狂った。魔力や物理といった概念を超えた「圧倒的な質量とシステム数値の暴力」。
ズバァァァァァァァンッ!!!!
数十層の光の防壁が、まるで薄いガラスのように一瞬で粉微塵に砕け散った。
「ガ、ァァ……ッ!?」
防衛線を支えていた絶対の盾(S級)が、防御ごと紙屑のように弾き飛ばされ、ビルの残骸に叩きつけられて血を吐き、動かなくなる。
「東郷さん!!」
人類最高峰のS級が、ただの一撃で沈んだ。
その事実が、探索者たちの心を完全にへし折った。誰もが死を覚悟した、その時。
「退けぇぇっ!!」
吹雪を切り裂き、上空から一本の巨大な斬撃が降ってきた。
S級第2位、【剣聖】天羽蓮。遅れて到着した彼が、空中で抜刀姿勢を取り、必殺の固有スキルを放ったのだ。
「『次元断』!!」
空間そのものを斬り裂く神速の刃。
格上であろうと防御力ごと次元を断つその一撃は、魔獣の強固な黒氷の装甲を抜け、その巨大な右腕を根本から『切断』した。
「やったか!?」
天羽のギルド『天刃』の部隊が歓声を上げる。
「……いや、ダメだ!!」
着地した天羽の顔に、かつてない焦燥が浮かんでいた。
斬り落とされたはずの魔獣の巨大な右腕が、地面に落ちる前にドロドロの黒氷へと変化し、一瞬で元の肩の断面へと吸い込まれて「再生」したのだ。
(空間ごと斬った傷を、瞬時に再生しただと……!? いや、違う! こいつの魔力の総量と生命力(HP)がデタラメすぎて、致命傷になっていないんだ!)
天羽の『次元断』は確かに通用する。だが、相手のHPが100万あるとしたら、天羽の全力の一撃でも1万しか削れない。
そして、次に魔獣が放つ「ただの反撃」は、天羽を一撃で消し飛ばす威力を持っている。レベル差とは、そういうことだ。
『ギシャァァァァッ!!』
激怒した魔獣が、極寒の吹雪を纏った咆哮を上げ、天羽に向かって六つの眼を赤く光らせた。
四方八方から巨大な氷の棘が隆起し、天羽の退路を完全に塞ぐ。
(ここまでか……!)
天才剣士が死を覚悟し、相打ち狙いの構えを取った、その時だった。
『――空間接続完了。ゲートを開きます』
天羽と魔獣のちょうど中間。
雪と血に染まったアスファルトの上に、突如として『黒い靄のような穴』がぽっかりと開いた。
「……は?」
天羽が間の抜けた声を漏らす。
その黒い穴から、ヒョイッと。
まるで終電間際のサラリーマンが改札を抜けるかのような極めて場違いな足取りで、ビジネスバッグを肩にかけた『スーツ姿の男』が這い出してきたのだ。
男の足元には黒い星屑のような子狐が引っ付き、後ろからは大きな杖を持った丸眼鏡の少女が「ひゃあっ、寒っ!?」と言いながら顔を出している。
「いやぁ、クロのゲートがあって助かったよ。飛行機全便欠航してたからな。……ん?」
スーツ姿の男――朝倉健人は、革靴で雪を踏みしめながら、周囲の惨状をキョロキョロと見渡した。
「……あれ? 札幌支社の地下金庫室にピンポイントで跳んだはずなんだが。なんでこんな外みたいな猛吹雪なんだ? 屋根吹き飛んだのか?」
健人が呑気に首を傾げていると、背後のしずくが震える指で前方を指差した。
「あ、朝倉さん……! あれ!!」
健人が視線を向けると、そこには振り上げられた前足を硬直させ、突然の乱入者に戸惑っているレベル2200の巨大なバケモノと、その後ろで刀を構えたまま呆然としている天羽の姿があった。
「あ、天羽さんじゃないですか。奇遇ですね。さっき東京でお別れしたばかりなのに、もう出張先で会うとは」
「お前……なんでこんな所に……! いや、それより後ろだ!! 逃げろ、そいつは未観測のレベル2200の――!!」
天羽の制止の声すら待たず。
魔獣の巨大な前足が、虫ケラ(健人)の脳天をカチ割るべく、無慈悲に振り下ろされた。
S級の東郷の絶対防御すらも紙屑のように砕いた、理不尽な質量の暴力。
「ひっ……!」
『天刃』の探索者たちが思わず目を背ける。
――ドスゥゥゥンッ!!!
すさまじい氷の衝撃波が吹き荒れ、健人の立っていた場所が真っ白な煙に包まれた。
「……おいおい」
土煙の中から、心底呆れたような、低い声が響いた。
「出張手当も出ないのに、俺のスーツを汚す気かよ」
煙が晴れる。
そこには、魔獣の数トンはあろうかという巨大な黒氷の右足を。
健人が『見えない空間のグローブ』を纏った左手一本で、涼しい顔をして受け止めている姿があった。
もちろん、彼のスーツには汚れも、シワ一つついていない。
「……はぁ!?」
天羽が、今日二度目の間の抜けた声を漏らす。
「雨宮さん。どうやら札幌支社のビルは、ダンジョンの空間拡大に飲み込まれて、このバケモノの巣になっちまったらしい。仕事(サーバー回収)の邪魔だから、そこのデカ犬、ちょっと退かしてくれるか?」
健人の言葉に、背後のしずくが「デカ犬ってレベルじゃないですけど!」とツッコミを入れながらも、ニヤリと笑って杖を構えた。
「はいっ! 行きますよ、消防車、全開っ!!」
最強のサラリーマンと、最凶のバッファー。
絶望に包まれていた北の大地に、全く空気を読まない『残業代稼ぎの出張パーティ』が降り立った瞬間だった。




