北の大地のダンジョンブレイク
数日後。東京・丸の内のオフィス街。
俺はコンビニで買ったのり弁を片手に、ビルの裏手にある喫煙スペースで一息ついていた。
「はぁ……。新しいオーダースーツの仕立て上がりまで二週間か。それまではこの安物の吊るしで我慢するしかないな」
『見えない手袋(空間圧縮)』を手に入れたとはいえ、服そのものの防御力が上がったわけではない。俺がのり弁の白身魚フライを箸でつまんだ、その時だった。
「見つけたぞ、朝倉」
ふわりと。音もなく、背後のビルの屋上から一人の青年が飛び降りてきた。
ラフなパーカー姿に日本刀。周囲のビジネスマンたちが「えっ、コスプレ?」「YouTubeの撮影?」とざわつく中、S級第2位の【剣聖】天羽蓮は、俺の隣の灰皿の横にスッと立った。
「……あの。俺、今は貴重な45分の昼休憩中なんですけど。公認ギルドのトップが、しがない営業マンに何の用ですか?」
「お前が俺のスカウトを蹴って逃げたからだろうが」
天羽は鋭い目で俺を睨みつけた。
「俺はあの日から、お前の身辺を徹底的に洗わせてもらった。だが、出てきたのは本当に『中堅商社のしがない平社員』という経歴だけ。ダンジョン攻略の履歴はF級を数回ウロウロした程度。……あり得ない」
天羽は俺に顔を近づけ、ギラギラとした笑みを浮かべた。
「あの空間を歪めるデタラメな力。そして俺の剣を指一本で止めた動体視力と硬度。お前は一体、どこで『その外側』に至った? どこのダンジョンのバグを喰えば、そんな化け物になれる?」
「いや、バグって……失礼な。俺はただ、毎日の満員電車とサービス残業に耐え抜いただけの――」
俺が適当な言い訳を口にしようとした、その瞬間だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!!
突如として、東京中の空を劈くような、鼓膜を突き破る『緊急災害警報』が鳴り響いた。
街頭の大型ビジョンが、一斉に真っ赤な『Emergency』の文字に切り替わる。
『――緊急特別報道です! 本日正午、北海道・札幌市に存在するA級指定ダンジョン【白銀の霊峰】にて、未曾有のダンジョンブレイクが発生しました!』
「……ブレイクだと?」
天羽の表情が、先程までの好戦的なものから一瞬で『最強の探索者』の顔へと冷たく切り替わった。
アナウンサーの悲痛な声が街に響く。
『数万体のモンスターが地上へと溢れ出しています! 札幌支部の防衛ラインはすでに崩壊! 現地のギルド部隊は全滅状態との情報が入り、市街地での犠牲者は数千人規模に上ると見られ――』
「おいおい、冗談だろ……」
俺は持っていたのり弁を思わず落としそうになった。
ダンジョンブレイク。それは、ダンジョン内の魔力濃度が限界を突破し、バケモノたちが現実空間(地上)へと溢れ出してくる最悪の大災害だ。
ピピピッ!
天羽の腕についているギルド専用の特殊端末が、けたたましく鳴った。
「……ああ、俺だ。分かっている。北海道のA級ダンジョンが突然変異を起こしたんだろ。ああ、すぐに行く。ウチの『天刃』の主力部隊を千歳空港に集めろ。自衛隊の輸送機をチャーターしろ」
天羽は手短に通信を切り、チッと舌打ちをした。
「国からの強制召集(S級オーダー)だ。……朝倉、お前との話は一旦お預けだ」
「それはご苦労様で。気をつけて」
「勘違いするな。俺はお前を諦めたわけじゃない」
天羽は踵を返し、風のようにビルの屋上へと跳躍する寸前、俺を見下ろして言った。
「北の大地の掃除が終わったら、必ずお前の化けの皮を剥がしてやる。首を洗って待っていろ」
そう言い残し、剣聖は東京の空へと姿を消した。
「……ふぅ。嵐のような奴だったな。まあ、これでしばらくは絡まれないで済むか」
北海道の大災害は痛ましいが、俺はあくまで東京の一般サラリーマンだ。S級や自衛隊に任せるしかない。
俺は残りののり弁をかき込み、足早に自社のオフィスへと戻った。
◇ ◇ ◇
「あーさーくーらぁぁぁっ!!!」
オフィスに戻った瞬間、営業部長の悲痛な叫び声がフロアに響き渡った。
「は、はいっ! 何でしょうか部長!」
「ニュースを見たか! 札幌でダンジョンブレイクだ! ウチの札幌支社があるエリアが、完全にモンスターの制圧下に入っちまった!」
「ええ、大変なことになりましたね。支社の人たちは無事に避難できたんですか?」
「ああ、社員は全員、地下の堅牢なシェルターに避難完了したと連絡があった。……だが、問題は『モノ』だ!」
部長は頭を抱え、今にも泣き出しそうな顔でデスクに突っ伏した。
「札幌支社の金庫室には、来月発表予定だったウチの命運を握る『未特許の新製品のマスターデータ(物理サーバー)』があるんだ! もしモンスターにビルごと破壊されてあのデータが消し飛べば、ウチの会社は確実に倒産だ……!!」
「……え? 倒産?」
俺の背筋に、冷たい汗が流れた。
会社が倒産するということは、つまり「毎月決まった日に給料が振り込まれる、平和で安定した60点の日常」が崩壊するということだ。おまけに、来月もらえるはずだった冬のボーナスも消滅し、また一から面倒くさい就職活動をしなければならなくなる。
(それだけは……絶対に避けなければならない最悪のバッドエンドだ!)
「部長。S級探索者や自衛隊に、データの回収を依頼できないんですか?」
「無理に決まってるだろ! 人命救助が最優先の状況で、一企業のサーバー回収なんかに戦力を割いてくれるわけがない! もう終わりだ……俺のローンはどうなるんだぁ……」
絶望する部長を見て、俺は素早く脳内で「ロジック」を組み立てた。
北海道の惨状はニュースで見ている。だが、俺にはクロの『影渡り』がある。札幌支社の金庫室の座標さえ分かれば、一瞬で空間を跳躍してサーバーを回収し、五分で戻ってくる「おつかい(ステルス・ミッション)」が可能だ。
「……部長。諦めるのはまだ早いです」
俺は声を潜め、最高に胡散臭い営業スマイルを浮かべた。
「俺、探索者の界隈にちょっと顔が利きまして。法外な報酬はかかりますが、こういう『極限状況での物資回収』を専門にしている、モグリの凄腕クラン(運び屋)を知っています」
「なっ……!? ほ、本当か朝倉!? そんな連中が今から動けるのか!?」
「ええ。俺が直接交渉してきます」
部長はガシッと俺の手を握りしめ、涙目でブンブンと上下に振った。
「頼む、朝倉! もしそいつらを手配してデータを回収できたら、お前に社長賞と特別ボーナス、それに『特別有給休暇を5日』くれてやる!! 経費はいくらかかってもいい!!」
有給5日と特別ボーナス。
その甘美な響きに、俺のサラリーマンとしての魂が激しく震えた。S級の公認ギルド副マスター(年収数十億)の誘いには1ミリも揺らがなかった心が、有給5日の前にはあっさりと陥落したのだ。
「……承知いたしました。すぐに手配(出張)に行ってまいります」
俺は深く一礼し、踵を返してオフィスを飛び出した。
廊下を走りながら、俺は足元の影に潜む相棒と、スマホの連絡先に素早くアクセスする。
「クロ! お前の『影渡り』のゲート、北海道の札幌支社の金庫室までピンポイントで繋がるか!?」
『キュウゥッ!(ちょっと遠いけど、朝倉の魔力をいっぱいもらえればいける!)』
「よし、魔力なら好きなだけ吸い上げろ! あと、雨宮さん! 急で悪いが、北海道に出張だ! 念のため君のバフが欲しい、すぐに新宿駅の地下に来てくれ!」
ただのサラリーマン(F級)と、万年C級のバッファー、そしてレベル1の子狐。
たった1人と1匹と1人の小さなパーティが、数万のバケモノが蠢き、S級探索者すらも苦戦を強いられる絶望の北の大地へと、ただの『社命(サーバー回収)』のために飛び込もうとしていた。
もちろんこの時の俺は、ただの「5分間のコッソリおつかいミッション」のつもりであり……跳躍した先で、とんでもないトラブルに巻き込まれることなど、知る由もなかった。




