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バーチャルエスケープ

星崎達也は、都内の大学に通う学生である。その瞳は澱んでいて誰も目を合わせようとさえせず、彼自身も人に心は開かないと決め込んでいた。


人間などおおよそ嘘つきで何を考えているか分からない生き物である、それが彼の一貫した考えであった。人との繋がり、愛情などは全て欺瞞であって、コミュニケーションとはそれぞれが自分の利益のために他人の心を動かすための行為に過ぎない。彼にとってそんなものは自分には必要のないものであった。


大学の正門から校舎までの道は大きな一本道であり、その両隣を巨大な芝生が占めている。その芝生には今日も多くの大学生たちが、いわゆる青春とよばれるものを謳歌している。そんな風景は彼にとっていかがわしいもので、それを見ていると吐き気を催すような気持ちになった。本来孤独なはずの人間たちが傷を舐め合うようにお互いを慰め合っている、そんな風景に過ぎない。


星崎は芝生の辺りに行き交うさまざまな視線を避けるようにして、下を向きながら校舎へと向かっていた。他人の視線というものは、彼にとって脅威かあるいは不快なものである。


すると「少しよろしいでしょうか?」と星崎に声を掛けるものがあった。星崎は最初戸惑って人違いではないかと思い、無視して立ち去ろうとした。自分に声を掛ける者などいようはずがないのだ。


「あなたですよ」とその男はしつこく声を掛けてくるので、さすがに星崎も立ち止まって話を聞くことにした。

「何の御用ですか?」

「私はあるメーカーで働いている営業マンです。こういうものです」

と言って男は名刺を差し出した。名を黒山功というらしい。たしかに大学生の風貌ではない。


「私の会社である商品を開発したのですが、よろしければお買い求め頂けないかと思いましてね」

「なんの商品か知りませんが興味ありませんよ」

授業に出席しないといけない星崎はその男を振り切ろうとしたが、男は簡単には引き下がらない。

「失礼ですがあなたはこの世の何もかもを信用していないような目つきをされていますね。そういう方にこそおすすめの商品なのですが」

たった一言で自分の本質を言い当てられたと感じた星崎はこの男がわざわざ自分をターゲットにした理由を理解するとともに、耳を傾ける気になった。

「興味を持って頂けたようですね。この商品は名付けてバーチャルエフケープ、現実世界に嫌気がさした人々に快適な空間をお届けしようというものです。空間といっても仮想空間です。この仮想空間には住人が存在します。しかし現実世界の住人とは違って彼ら彼女らはあなたにとって都合の悪い言動はとりません。あなたの心の状態を読み取ったうえで、あなたが望むような動きをとるようにプログラミングされています」


星崎は完全に男の話に聞き入っていた。そんな夢のような商品が本当にあるとは信じられなかった。男は続けた。

「またその住人たちはあくまでコンピューターですから、あなた自身は彼ら彼女らに対して何をしようと構いませんし罪にも問われません。あくまであなたにだけ人格が存在する、そんな楽園のような世界です」

「しかし信じられませんね。そんな商品が出ているならとっくに話題になっていそうなものですが聞いたことがありません」

「これはまだ販売されていない商品です。まだ公表もしていません。だからこそ口コミで広めて頂く必要があるのです。そのため金額も2千円で構いません。」

「そんな馬鹿な話があるものか。騙しているんじゃありませんか」

「そうおっしゃるのも無理はありません。では一度私の会社にお越しください。一度実物を体験頂いてお買い求め頂くか決めてもらえればと思います」


星崎は授業のことなど忘れてその男について行った。その会社のオフィスには巨大コンピューターがところ狭しと並べられている。バーチャルエスケープはその中にぽつんと置かれていた。


「何でもないコンピューターのようですが、これが本当にそんなことを実現するんですか?」

「百聞は一見に如かずです。この中に入ってください」

男がコンピューターのスイッチを押すと、真ん中の裂け目が割れて中からマッサージチェアくらいのサイズの椅子が現れた。星崎はそこに座るように指示された。


すると体が急に軽くなり目の前に高層ビルの立ち並ぶ街が現れた。それは都内の見慣れた街並みにそっくりであった。そのあまりの再現度に彼は戸惑いを隠しきれなかった。


歩くと先に進める、その感覚は現実世界と何も変わらなかった。一体現実と何が違うというのだろう、まだ彼は半信半疑である。そこへいきなり10数人の集団が現れて彼の方へと近づいてきた。星崎は警戒したが、すぐにここが仮想空間であることを思い出した。彼らは現実に存在する人間たちではない。現実の人間たちのように自分に害をもたらすことはないはずである。

「星崎さん、どこか行きたいところはありませんか。遠くでも僕が車で連れていきますよ。」

1人の気前の良さそうな男がそう言った。すると他の男たちも

「そうだ。今日は星崎さんの行きたいところで遊びましょう」

と言ったので星崎は普段から人とは行かないような場所を並べて挙げていった。


そしてその日彼はその男たちとともにカラオケ、クラブ、バーなどを満喫した。カラオケではみんなが彼の歌声を褒めたたえて大騒ぎして、クラブやバーではあらゆる美女たちが彼のもとへ寄ってきた。それは星崎からすれば一生縁がないであろうと思っていた世界であった。


それを終えると目が覚めたように現実の世界へと戻った。

「どうですか?楽しんで頂けましたか?」

そこにいたのは黒山と名乗るあの営業マンである。

「これを本当に2千円で頂けるんですね?それなら買います」

「もちろんです。ありがとうございます。では後日わが社の社員があなたの家へと取り付けに参ります。」

星崎は家の住所を教えて、バーチャルエスケープを購入することとなった。


「ただし1つだけ注意点があります」

と黒山は告げた。

「あなたが仮想空間に入ってから現実世界では1週間が過ぎています。このように仮想空間と現実世界では時間の早さが異なります。それだけ注意してください。またその間はコンピューター内で完璧な体調管理が行われますので、体のことは気になさらなくて構いません。現にあなたは体験の間の1週間何も飲み食いをしていませんが、それでも何も問題は起きていないでしょう?」

「たしかにそうだ。これはどういうことですか?」

「コンピューター内で定期的にあなたに注射を行うことで必要な成分を摂取しています。どれだけ長く中に入っていてもそれは途絶えることがありません。世界最高峰の医療技術を駆使して作った商品ですからそれくらいのこともできるのです」

「全く信じられない。こんなことが可能だなんて」


3日後、彼の家にバーチャルエスケープが設置された。彼はさっそく中に入って普段味わえないような日々を満喫し尽くした。ありとあらゆる人間が自分の言う通りになる。「自分を中心に地球が回っている」なんていう比喩表現があるが、それが実際に起きているのだ。


中の世界は自分の思い通りにことが運ぶということ以外は、全て高度なリアリティが施されている。だからこそより優越感が味わえるのである。街を歩けば人々はいがみ合い傷つけ合っていて、差別やいじめが平然と行われている。何もそういうことが起きない優しい世界が築かれているわけではなく、ただ当の本人だけはそのような目に合わないというだけなのだ。


やがて星崎は自分がこの世界では特権階級の中でも最高の人間であることに酔い始めた。傷つくべき弱者に同情などする必要はない、逆に彼らのように苦しむ人間がいるからこそ自分のような立場の人間が輝くのだ。彼は仲間たちとともに街で弱い立場の人間を見つけては罵倒してときには暴力を振るった。そして誰もその行為を咎めもしないしむしろ称賛してくれるのだ。


星崎はそのうち学校にも行かなくなった。学校へ行って単位をとり、卒業したら就職して会社のために理不尽に耐えながら働く、そんなのは馬鹿げている。この楽園に身を浸らせている方が幸せであるに違いない。そんな機会を自分は運良くたったの2千円で手に入れることができた。もしかしたらこの仮想空間だけでなく、現実世界を含めても自分は最高に幸せな人間かもしれない、彼の驕り高ぶりは絶頂に達していた。


ある日そろそろ久々に現実の世界に繰り出そうかと考えた星崎は、現実に戻って家を出ようとした。すると足腰が前ほど上手く動かないように感じた。長いこと椅子に横たわっていた弊害だろう、仕方ないと思いながら彼は顔を洗おうと洗面所へと向かった。そして鏡の自分の顔を見た時に膝から崩れ落ちそうになった。


彼の顔は白髪まみれになってあちらこちらに皺が刻まれていた。一体何が起きたのかすぐに理解できなかった彼は、今の日時を調べることにした。すると現在は2087年で、ちょうど2000年生まれの彼は現在87歳である。彼は60年以上仮想空間の中にいた計算になる。


彼は自分にこの商品を勧めたあの黒山とかいう営業マンのことを思い出した。あの男の名刺に電話番号があるはずだ。あの男に騙されたのだと思い、苦情を言うために電話をかけたが繋がらなかった。彼は冷静になって状況を理解した。あれから60年経っているのだからおそらくあの男はこの世にいないはずなのだ。


ならばあの会社に苦情を言ってやろうと思ったが、電話をかけても繋がらない。調べたらあの会社はとっくの昔に潰れているようだ。さらに星崎が仮想空間に入ってすぐにバーチャルエスケープはその倫理性を問われて販売中止となっていたとのことである。


その頃の新聞の記事にはこのように書かれていたようだ。

「バーチャルエスケープは苦しいことが多い中でも人と繋がって生きる喜びを感じるという営みを奪う非人道的な商品である。そのような商品の中に長くいたらわがままで排他的な人間に育つに決まっている。あくまで人間は現実の世界の中でしか本当の幸せは得られない」


星崎は納得がいかなかった。自分の人生を返せと言いたかったが、その恨みをぶつける人間はもうどこにもいない。そもそも彼は騙されたわけではない。黒山は彼に対して、現実世界と仮想空間では時間の早さが違うということをしっかりと説明していたのである。しかし自分の望むがままになる世界で過ごしてきた星崎はそんな風には納得できなかった。なぜ自分だけこんな目に合わなければならないのか、自分を欺いて置き去りにしたこの世界が憎くてたまらなかった。


その後の彼のことを知る人間は誰もいない。

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