人でなし_ _ _
本作には、喪失・暴力的な描写を含む描写があります。
また、精神的に不安定な描写、感情の回復、自己嫌悪、トラウマに基づく感情の暴発を含みます。
15歳以上推奨。
貴方なら、タイトルの空白部分に何を入れる?
村が焼かれた日、少年は何も思わなかった。
煙の色も、瓦礫の熱も、肉の焦げる匂いも、すべてが遠い異国の風景のようで。
「自分の心がここにいない」という感覚だけが、かろうじて彼をかたどっていた。
まるで、世界から己だけが取り残されているように感じられて、少しだけ悲しく思った。
村が燃えていた。
焦げた木の匂いと、肉の焼ける音が風に乗って押し寄せる。
目の前で、人が喉を鳴らして死んでいくのを、彼はただ見ていた。
涙も出ず、喉も詰まらず、脳裏にはただ、「ああ」という無音の声が浮かぶだけだった。
誰かの泣き叫ぶ声を、誰かが誰かを悲鳴混じりに呼ぶ声も。彼にとって全てが雑音でしか無かった。
だから、耳を塞いで、その鼓膜が破れてしまいそうなほど甲高い声たちに背を向けた。
ふと、耳を塞いでいても良く聞こえるほど煩いぐらいの大きな音が頭上がした。
ゆっくりと上を向くと、屋根が降ってきていた。
全てが、スローモーションに見えた。
己の名を(喉が潰れてしまうのではないか?)と言うほど、甲高い声を出しながら手を伸ばす母の手が、嫌に鮮明に見えた。
▶▶▶▶
焼け焦げた母の手を見つめながら、少年は微動だにしない。
頬に灰が積もるのを気にすることもなく、血と泥の海に立ち尽くしていた。
何分そうしていただろうか。ゆっくりと所々がごげている服に付着した灰を手で払った。
ゆっくりと口を上下に動かし、そして。
「……汚いなぁ」
自分でも驚く程、まるで刃物のような冷たい声が己の喉から突き出てきた。
酷く冷たい視線で、ソレを一瞥すると、ふらりと覚束無い足で立ち上がった。
その時、頭上に冷たい何かが降ってきた。そして、少しずつポツポツと地面が濡れ始めていた。
空を見上げた。雲ひとつない、憎たらしいほど快晴の空である。
実によくある夏の日の、よくある天気であった。
だが、雨が降っていた。にわか雨なのか、はたまた?
▶▶▶▶
僕は、ゆっくりと、上手く作動しない足を引きずりながら残骸が散らばる道を歩く。
つい昨日までは、友達とはしゃいで、遊んで、服を汚してお母さんに怒られていた、道だったものを歩く。
潰れた家から見える真っ黒になって、汚くなったあの服は、近所に住んでいた綺麗好きなあの子のお気に入りの服。
瓦礫の隙間から覗く白い腕は、駄菓子屋のばあちゃんのものかもしれない。
道を赤く穢すコレは、一体誰の血であるか。
瓦礫に埋もれる腕や足。瓦礫の隙間から覗いてくるあの目は誰のモノ?
血を流して、邪魔なゴミと化したソレは誰だったか?
倒れた誰かを、ひとつ、またひとつ、足先で避けるたびに。その誰かが誰だったのか、思い出せない。
いや、思い出す必要もなかった。
避けるのも、面倒くさくなって、とうとう全身が真っ黒く焦げ、焦げた臭いを発するソレを軽く足先で蹴りながら、なんて事のなかった日常を辿る。
ぽつり、ぽつりと雨は頬を濡らし、髪に、服に、ゆっくりと染みこんでいく。
前髪がべったりと額に貼りつく感触が煩わしくて、何度も手でかきあげた。
___そのとき。
遠くで誰かが歓喜のあまりに叫んだであろう声を雑音まみれな僕の耳は、微かに拾った。
____雨だ、雨だ!!恵みの雨だ!!ああ!!願いが届いたのだ!!!
アレは、誰だったか?ああ、でもきっと。そのうちただのゴミになるのだろうから、気にする必要も無いか。
僕はそう思い、振り向くことも、視線をアレに向けることなく歩く。
焦げ跡の中で、名も知られず、誰にも覚えられず、土に沈んでいく。
どうせ、最期は決まっているのだから。
耳にこびり付く甲高いあの声は、きっと二度と消えない耳鳴りであろう。
耳鳴りは、酷く耳に染み付いている。これが、現実であると突きつけてくるこの、煩い残音は。
どうしようも無いほど煩わしかった。
雨音に混ざるその叫び声は、まるで耳の奥に刺さる高音のノイズみたいだった。
あまりに甲高くて、煩くて、僕の鼓膜をひどく揺らす。
その時、確かに理解した。己は、到底「人間」になどと成れやしないのだと。
▶▶▶▷
「……面白い子だ」
少年は、暫く途方もなく歩いていた。
すると突然、少年は誰かから声を掛けられた。我が子に声をかける父親のように低く、優しい声。それでいて、愉快で堪らないと言わんばかりの声だった。
少年は、ちらりと目線を男に送った。が、すぐに興味をなくしたのか、何事も無かったかのように歩き出そうとした。
しかし、男はそれを許さず、仄かに煙の立つ地面を踏みしめて、一人の男が彼の前に立った。
黒い外套、白い手袋。仰々しくも奇妙に整ったその姿は、炎の揺らめきの中で歪んで見えた。
見慣れない顔だった。この村の者ではない、余所者だった。
「君、名前は?」
少年は答えなかった。答える必要があるとも思わなかった。
男は笑った。心底楽しそうに、喉の奥からくぐもった笑いを漏らした。
「いいね。感情が死んでる。そういうの、好きだよ」
男の手が伸びる。少年の肩に、それが触れた。
男の手に持つ刃物と、刃物に付着している赤が、太陽の光を反射して眩しかった。
____されど、興味を持てなかった。
その日から、少年は人として扱われることはなかった。
与えられた名はなく、与えられた居場所は組織の片隅。
教え込まれたのは、生きる術ではなく、殺す技術だった。
組織に拾われたその日から、少年は誰にも背を向けたことがない。
命令には従う。それが生かされた報いであり、唯一の生き方だった。
少年の目は、濁ってなどいない。ただ、何も映していなかった。
▶▶▷▷
——面白いね、と言ったのは、人間味に欠けた笑みを浮かべた誰かだった。声も、顔も、何ひとつとして思い出せないのに、あの顔が、やけに鮮明に思い出せた。
だけど僕は、その雑音はもう遠い昔のように思っていた。
僕は、その男の元で、生き延びた。いや、生かされた。命令に従い、言葉を失い、痛みにも、飢えにも慣れた。
いつしか、誰かの指先ひとつで、世界を壊すことができる「道具」になっていた。
誰かを愛したかった僕の手は、とうの昔にぐちゃぐちゃになって、穢らわしいモノに変わり果てていた。
▶▷▷▷
日が落ちて、月が昇る。
少年は闇夜に紛れて任された任務を確実に遂行いていく。
月が落ちて、日が昇る。
少年は自室で己の手の平を呆然と見詰めては、眉を顰めた。
そしてまた、日が落ちて月が昇る。
何度も何度も何度も何度も。永遠とさえ感じられるほど、長い時をそうやって過ごしてきた。
少年は、何時しか青年と成っていた。
ぽっかりと胸に穴を開けたまま体ばかりが大きく育っていた。
▷▷▷▷
私は、とある一通の命令を携えて、とある城へと潜入していた。
___破壊のためのスパイとして。
私は、いつも通りにその任務を遂行するだけである。
だけど……ああ。今度こそ、今度こそは。
終われることを願っている。
▶▷▷▷
あれから二回、太陽が昇った。
青年は正体がバレる事なく無事に潜入できた。
……少し、拍子抜けしてしまうほどに。
青年は、自分の腕に自信があった。道具にしか成れぬ人間の、なけ無しのプライドである
(あの人は、私を舐めている。)
そう確信してしまうほど、ここの警備は甘かった。
人を疑うことを知らない、とでも言おうか。
____ああ、吐き気が、する。
城の中は、あまりにも、優しかった。
吐き気を催すほどに。全身が逆立って、内側から嫌悪感が溢れ出す。
気持ちが悪かった。無条件の信頼が。
気持ちが悪かった。その温かさが。
気持ち悪かった。己に向けるその表情が。
そしてそう感じてしまう自分に対しても吐き気を覚えた。
とうの昔にぐちゃぐちゃになって、死んでしまった己が、内側から「私」を突き破って出てきてしまいそうだ。
ああ、なんて彼らは穢らわしいのだろうか!
▶▶▷▷
「……坊、手が冷えてる。ほら、これ、使いな」
皺の刻まれた手が、包みを差し出してくる。中には粗末な布の手袋。
気を遣うほどのものではないのに、妙にあたたかい。
何より、その人の目が、熱い。
優しさなど、刃の類だ。
それを知らないのは、脳天に突き立てられたことのない者だけ。
私はそれを受け取り、何も言わずに礼をした。
言葉にすれば、胸がきしむ気がした。
己に、見えない亀裂が入っていく。
二度と消えない耳鳴りのあの音が、今は恋しくて仕方がなかった。
▶▶▶▷
城には、いろんな人がいた。
口の悪い兵士、料理が得意な娘、夜な夜な酒に酔って笑う人たち。
「私の子は世界一だ!」なんて、馬鹿みたいなことを言いながら、酒を飲む人たちを見ていると、私の内側に居る死体が掻きむしられる。
懐かしい、懐かしい。ああ___父さん、父様。
___だから、だから。つい、私に確かに存在した父の面影を探してしまった。
……もう、戻れやしないと言うのに。何を惨めに縋っている。捨てたのは、己だろう?任務を遂行しろ。
己の冷静な部分が、私を嘲笑う。
____ああ、ああ。わかっているさ。
私はあの時、あの人に忠誠を誓ったのだから。
最後は、必ず。
▶▶▶▷
青年はそこに、溶け込んだ。
溶け込みすぎて、溶けてしまいそうだった。
熱い熱い熱に、全身を蝕まれて、犯されていた。
煩いくらいの耳鳴りが、じんわりと己の内側から溶けだす。
許されたと錯覚してしまいそうになる。
__ああ、どうせ死ぬのなら、ここがいい。
このまま、溺れて溶けて、死んでしまえれば。
ある日のことだった。
「おまえ、名前は?」
「……ありません」
「じゃあさ、勝手に呼んでいい? ……ヨルって」
ヨル、ヨル。
噛み締めるように何度もその名を口の中で発した。
忘れてはいけないものだと、そう思った。
この城に来て、初めて呼ばれた名前だったからだろうか。
少し、頬が緩むのを感じた。うれしい、嬉しい。
目の前の男は、眉を下げて、されど愛おしそうに笑った。
「夜が明けると、どっか行っちゃいそうな顔してるから。な?」
ああ。
こいつらは、この人たちは、全員、知らない。
自分が何者かを、何のためにここにいるかを。
だからこそ、優しくできる。
愚か者共め。
____ああ、なんて、愚かなの。
▶▶▶▶
城で、私は初めて名前を呼ばれ、食卓に招かれた。
全員で食卓を囲って、幸せそうにご飯を食べて、他愛のない会話を交わす。
当たり前のように、寒い日には布をかけてくれる者がいて、目が合えば微笑んでくれる者がいた。
「おはよう」と「おやすみ」。
それだけで、「僕」の心に灯りが点った気がした。
知らなかった。
人の手が、こんなにも温かいことを。
自分が、こんなにも泣けることを。
自分が、こんなにも笑えることを。
されど、そんな時間は長くは続かないことから、何時までも目を背けられるほど、優しい世界ではない。
▷▷▷▷
手紙が届いたのは、あれからまだ両手で数えられるほど、月日がたったある、よくある夏の日だった。
ただの、なんてことの無い一通の手紙だった。
渡してきた彼は、にやにやといやらしい顔をしながら「恋文か?恋文か?」と何度も尋ねてきたのが煩わしかった。
封を切り、文字を目にした瞬間、空気が変わり、私の心に沈黙が落ちた。
『証拠を消せ。全員だ。』
差出人の名はない。だが、筆跡は知っている。
その文面は、短い。簡潔かつ簡素な文章だった。それを書くのは、いつもあの男だけだった。
その命令が「世界の終わり」であることを、私だけが知っていた。
膝が震えた。息が詰まった。喉の奥で何かがこみあげた。手が震えた。
だが、それを止めようとは思わなかった。
深い深い息を吐く。空を見た。あの時と同じ、憎たらしいほど快晴な夏の日だった。
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日が沈んで、月が顔を覗かせた。
まるで、僕を監視するためだとさえ思った。
青年は__ヨルは、ゆっくりと立ち上がる。
部屋の隅に置かれた小さな刀を手に取る。城で贈られた護身用のものだ。少しの時間、それを眺めた後、ゆっくりと懐へと忍ばせた。
(今思えば、彼らは随分と過保護だったなぁ。)
笑みが零れそうになった。けれど、顔が引き攣って、上手く笑えなかった。
彼が見れば、きっと「不細工だ」なんていって笑うに違いがない。
けれど、剣は抜かれた。
彼が教えてくれた、正しい持ち方で。
それは、青年にとって、生まれて初めて教わった、褒められる剣筋だった。
その剣で、人を殺す事しか知らなかった青年が、唯一知っている人を守るための剣筋だった。
___「その剣筋、綺麗だね」と笑って褒めてくれた、あの日のように。
なんてことのない、ただのお世辞。でも、確かにヨルという人間は救われた。
だから、使うのだ。
忠義に殉ずるために。
この城で、人を教わった青年は、その手で「人」を、断つ。
脳裏にこびり付いているあの焼け焦げた匂いが、鼻を掠めた。
その刹那、視界が真っ赤に染まった。
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何も言わずに、ひとり、またひとりと。確実に息の根を止めていく。
優しくしてくれた手を、声を、灯りを、すべてを己の手で消していく。
一滴の涙も流れなかった。
けれど、青年の中で確かに何かが終わっていた。
けたたましい咆哮が、耳を劈く。
あの時の記憶が鮮明に思い出される。全てを失った、あの夏の日のことを。
きっと、あの人も、私と同じだったのだろう。
何故か、そう確信を持つことが出来た。
あの人もまた、「人でなし」なのだ。
___可哀想に。
鼻で笑いながら、着実に敵の数を減らしていく。
彼らは、やっぱり何時までの甘かった。
早く私を殺さねばならぬのに、私にその太刀を入れることを恐れた。
私の名を呼ぶ声が、至る所から反響しながら聞こえてくる。
そして、この城の奥にある部屋の襖に手をかけた。
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「……やっぱり、あなただったんだなぁ」
呑気な声がした。
この声だけは、何度も何度も夢に出てきた。
背を向けたままでも、わかる。
この城で初めて、名をくれた人。
「ヨル」と、呼んでくれた、彼。
「全部、君だったんだ。ねぇ、どうしてだい……?」
返す言葉はなかった。
言葉にしたら、手が止まる気がした。
部屋の奥に、蝋燭が一本。
火は小さく揺れて、ゆらゆらと照らす影だけが壁に伸びる。
背後から、木が焼ける音が大きく頭に響いている。今、彼が私を殺したって、生き延びることは絶望的だ。火の手は、もうすぐそこまで迫っていた。
「……あなたが、私を。僕を人間にしてくれました」
ようやく、それだけが喉から落ちた。
声は震えていないだろうか。手の震えは相手に悟られていないだろうか。
ちゃんと、熱くもなく、冷たくもない、温度のない声で言えているだろうか。
「それが……一番の間違いだったんです」
刀が、鞘から鳴った。
「ああ……そっか……」
肩に力が抜ける音が、聞こえた気がした。
「じゃあ、君が人間じゃなくなる時が……もし来たら。最初に、俺を壊しに来ると思ってたんだけど」
その声に、ほんのわずかだけ震えが混じった。
それが怖さか、哀しさか、彼にはもう、分からない。
「まさか、最後に来るなんてなぁ」
乾いた笑いを彼は零した。
「ヨル、俺たち、楽しかったよ。」
「……ええ」
「ありがとう。名前、呼んでくれて」
「____ヨル、ヨル。俺の可愛い可愛い息子。おやすみ」
「アサヒ、さん。愛してました。きっと。」
彼は、その言葉を確かに拾ったのだろう。蕩けたような笑顔を零した。
光が、差した。
東の空が白んでくる。夜が、終わる。
刃が走った。
温もりがあった。重さがあった。
私を人間にしたすべてが、ひと太刀で崩れ落ちる。
血の中に、陶器のような音がした。
割れた湯呑みが、床を転がった。
___そこには、ふたつ、置かれていた。
ヨルはそれを拾おうとしなかった。
ただ、しばらく、それを見ていた。
ただ、ただただ喉が酷く乾いた。
夜が、明けた。
「……行かなくちゃ」
誰に言うでもなく、呟いた。
朝焼けが、窓を染める。
陽の光が差しても、ヨルの影は、まるで人の形をしていなかった。
____燃えゆく城を見つめた。
過去に、私が狂ったように叫び散らかす男にぽつりと零した言葉を思い出した。
____焦げ跡の中で、名も知られず、誰にも覚えられず、土に沈んでいく。
彼も、そうなのだろうか。
▷▷▷▷
それは男の確かな「忠義」であった。
「罪」でも「罰」でも「後悔」でもなかった。
なぜなら、男は完璧に任務を遂行したからである。
誰にも悟られずに、敵陣の内側に入り込み、一人残らず全員殺害することに成功し、その城を焼いた。
もう、あの城があった事を知る者は居ない。
「ヨル」は死んだ。あの地で。息を止めた。
だからこそ、もう一度「人間」に戻れる気がしなかった。
だから今も男は、静かに呼吸を止めながら、生き続けている。