59 悪夢の中に光が差して
嫌な色に変色した剣先。
(毒!)
セレスの腕を切りつけた剣には、毒が塗られていたのだ。
「殿下!」
腕を押さえて床に片膝をついたセレスに、ジェイデン卿が肩を貸す。
ジェイデン卿に支えられ、辛うじて立ち上がったセレスの顔は青ざめていた。剣で切り裂かれた袖の部分が、血の赤色ではなく不自然に黒ずんでいる。
「これにて、本日の会議は閉会とする。皆さま、速やかにご退場を!」
機転を利かせたユマイラ宰相が、何事もなかったかのように宣言する。それを合図に騎士たちが、固く閉ざしていた扉を開放した。
再び騒然とする議会堂から、ジェイデン卿とヨハンに両脇を抱えられ、セレスは出ていく。その後を私もネスと共に追った。
◆ ◆ ◆
セレスは、一筋の光も差さない暗闇の中にいた。
(俺はどうしたんだ? 確か、剣を腕に受けて……その後、ジェイデンたちと議会堂を出たはず……)
遠くで誰かが話しているのが聞こえてきたので、耳を澄ましてみる。
『どうしてお前が生きているんだ……。お前が……代わりに死ねばよかったのに……』
『お前が……を殺した……』
『顔も見たくない――!』
冷たい言葉が、自分に向けられたものだと感じて、息が苦しくなる。
もう聞きたくなくて、両手できつく耳を塞いだ。
すると今度はその声が、頭の中にじかに響いてくる。
『こんな子の世話なんてお断りよ……』
『本当に可愛げのない子……』
『どうせ誰にも愛されないのに……』
『いなくなればいいのにね……』
頭の中で木霊のように響く、不快な声。
無限に続くような気がして、吐き気がこみ上げる。
ふふふっ……。
不意に、嫌らしい笑い声が漣のように襲ってきた。
『だって、捨てられた皇子様だからね……』
ふふふっ……ふふっ……。
こちらを蔑むように笑い声が大きくなる。
(そうだった……。俺は父上に見捨てられ、誰にも手を差し伸べてもらえずに、一人だった……)
真っ暗で埃っぽい部屋の中、一人で膝を抱えていた自分。
いつも寒くて、心は空虚だった。
『お前さえいなければ!』
『お前なんて、いらない!』
『消えてくれればいいのに!』
強く責め立てる声が、止まずにセレスに投げられ続ける。
(俺はいつ死ねるのかな……。生きていたって、いいことなんてないのに)
猛烈な寂しさに襲われて、思わずその場にしゃがみ込む。氷の上に立ち、全身が冷たく凍っていくような心持ちがした。
(ああ、……このまま凍って死ぬのかな……)
ははっ、と自嘲の声が漏れた。
(消えてしまいたい……。どうせ誰にも必要とされてないんだから)
消えたら楽になれるよな……。
抗わずに身をゆだね、この底知れぬ闇に呑まれていく――。
ああ、案外それもいいな、なるようになれ……と覚悟した時に。
取り巻く空気に何かが混ざり、大きく息を吸い込んだ。
(この香り……甘酸っぱい……ああ、レッドベリーのマフィン!)
誰かと、いや大勢で笑いながら頬張った、温かくて、優しい記憶……。
陽だまりのような温もりに、凍りかけた心がゆらりと解けていく感じを覚えた。
そして、遥か先に差した、一筋の光。
『セレス様……』
涼やかに響く声が耳がくすぐる。光のほうから響いてくるのだ。
セレスの心の隅々にまで、くまなく、じんわりと、染み入るように。
陽だまりにいるような心地いい温もりに、頭からつま先まで、くるりと包まれる。
『もう、お一人じゃありませんよ……』
ふわりと香ってきた、懐かしい香り。
離宮の庭園で満開になっていた、あの花の少し甘すぎる香り。
セレスの心を、いつもざわめかせる香り。
(ロザリンドの香り……)
そうだ、俺はあいつに会わないといけないんだ。そして、言わなきゃいけないことがあるんだ。
だから……。
「もう、永遠に会えないと思っていたのに……」
堪えていた思いが溢れてしまったように、頬を温かいものが伝う。
はらはらと頬を伝う涙。止めようと思うのに、止められない。
「……リュシー、お前なのか……」
俺はお前に言わなきゃいけない。何度でも何度でも。
たとえお前が許してくれなくても……。
だから、それまで俺は、決して消えてはいけない!
途端、周囲の闇がぱらぱらと、欠片となってはがれるように落ちていく。
まもなく眩しい光に視界が奪われた。
目を開けていられないほどの光に、たまらず目を閉じる。
すると、頬に自分ではない誰かの手がそっと触れた。
その温もりを知っている気がした。いや、確かに知っている――。
セレスはその手の主を、どうしても確かずにはいられなくなって、ゆっくりと目を開けた。