1 北の離宮の皇子様
皇国エルマイニオの皇宮は、贅を尽くした華やかさで周辺の国々にもよく知られている。
絶えず色とりどりの花々が美しく咲き誇る庭園。遠国から取り寄せられた珍しい植物にあふれ、鮮やかな色硝子で装飾された豪奢な温室。そして、絵画や鏡、宝石をふんだんにあしらった置物で美しく装飾された宮殿内に至っては、外交で訪れた各国の使節たちが漏れなく目を見張り、皇国の繁栄と権勢を胸に刻んでは気を引き締めるほどだ。
そんな宮殿の建物群から、ひときわ離れた場所に、その離宮は位置していた。
皇宮を囲む城壁内とはいえ、中央宮をはじめとする煌びやかな建物群とは鬱蒼とした木立で隔てられている。その木立の先によもや、皇族の住む離宮があると思う者はいないだろう。
(初めて来た時には、廃屋かと思ったもの……)
半年前、皇宮の中央宮でメイドとして働いていた私は、メイド長に朝一番に呼びつけられた。そして、ここ――北の離宮への配置換えを言い渡されたのだ。
元は騎士の家系である子爵家に生まれた私だが、父は幼い頃に隣国との戦争に出て亡くなった。領地を持たない子爵家であったため、父亡き後は、それまでの貯えを切り崩しながら母とつつましく暮らしていたのだが、病に伏せた母の治療費を稼ぐため、伝手をたどって皇宮のメイドとして雇ってもらうことができた。
本当は騎士として勤めたかった私だが、女性騎士の募集はめったにない。あったとしてもそのほとんどが女性皇族の護衛としてなので、伯爵家以上の高位貴族の令嬢が優先される。なので、私が採用される可能性は低い。
残念ながら母は少し前に亡くなってしまった。けれど、待つ人も行く当てもない私は、続けて中央宮付きのメイドとして働いていた。しかしこの日、突然の異動を命じられのだ。
「リュシー、おまえは今日から北の離宮付きだよ。まったく、何をやらかした? あんな誰も行きたがらない離宮だなんて……」
メイド長は同情するような眼差しを私に向けたが、その時の私は、そんな場所がこの皇宮内にあるのかさえ知らなかった。
「北の離宮ですか? そこに何かあるんですか?」
「ああ……北の離宮には、皇子殿下がお住まいだ。おまえは殿下のお世話をするように、とのことだ」
「皇子殿下……?」
メイド長の話によると……。
そこには前皇后からお生まれのセレスティアン皇子殿下が住まわれている。
皇子は現在、12歳。もとより体の弱かったレティシア前皇后は、皇子を生んでまもなくして亡くなった。その後は乳母のテレサ夫人が皇子の面倒を見ていたが、その乳母も数年前に亡くなり、以後は皇宮から派遣されたメイドがお世話をすることになった。
しかし皇子は大変気難しい性格で、そのメイドを次々と辞めさせてしまう。前任のメイドは数日前に辞めた。いや、正しくは職場放棄して逃亡したのだ。
現皇帝には、レティシア前皇后との間にセレスティアン皇子、ミランダ現皇后との間にパトリシア皇女がいる。
言われてみれば、皇女が皇女宮にお住まいなのは知っていたが、皇子についてはメイドたちの間でもついぞ話題にのぼることがなかった。むしろ、ミランダ皇后の手前を憚ってか、皇宮内では口にしてはいけない空気があった。
そして、メイド長が言うには、この突然の配置換えの理由は、誰かが私のことを告げ口したせいらしい。メイド長を飛び越えて、侍女長のライツ伯爵夫人の耳に入るように仕向けたのだ。
「リュシーは、たびたび仕事をさぼっては騎士様にまとわりついている、素行の悪いメイドだ」と。
これについては、思い当たる節はある。
昨日、ジェイデン卿と親しげに話しているところを三人組のメイドに見られていた。いつも三人でつるんでは新参のメイドを虐めたりしている意地の悪い奴らだ。
そのうちの一人が確か、ジェイデン卿に気があると聞いたことがある。だから、いらぬやっかみを買わないように、いつもは人目につかないよう気をつけていたつもりだが、昨日はうっかりしていた。
皇宮第二騎士団の団長であるジェイデン卿は、端正な顔立ちと穏やかな人柄で、彼を慕う者は数多い。
誰にでも分け隔てなく、気さくに声をかけてくれるジェイデン卿とは、以前、切り傷に効く塗り薬を渡したことが縁で親しく話すようになった。
騎士団での訓練で見習いの兵士たちに切り傷が絶えないと聞いた私が、自分で作った塗り薬を渡したのだ。
私の母は植物に詳しく、特に薬草についての知識が豊富だった。おかげで私も幼い頃から母に教わり、薬草についての一通りの知識は得ていた。また、騎士だった父の従者たちの傷や病に効く薬を、母と一緒によく作ったものだ。
薬草は知れば知るほど奥深い。さほど余裕のない子爵家では、そう頻繁に高価な薬を使うことはできない。それゆえに代わりとなる薬作りに私は没頭していたことがある。
「でも、北の離宮なんて誰も行きたがらないし、わざわざ見に行こうとする奴もいない。考えようによっては気楽でいいかもしれないよ」
そんなメイド長の慰めの言葉に送られて、私は皇宮のメイド部屋を追い出された。
わずかな私物を詰め込んだカバンを一つ提げて、北の庭園の先にある森を通り抜けていく。その先にある離宮に初めて足を踏み入れた私は、あまりの有様に茫然としたものだ。
(こんなに荒れ果てた皇子様のお住まいなんてありえる?)
門を守る兵士がいるから、誰か高貴な方が住んでいることはわかる。皇室の兵服を着た若い兵士に確かめると、確かにここだ。
それでもどこか間違いじゃないかと思いながら、門扉の奥の建物の入り口を目指して歩く。手入れをされていない庭園は、花壇と通路の境界も曖昧で、伸び放題の雑草を踏みしめて歩くしかない。
建物の壁面は、枯れた蔦でびっしりと覆われている。しかし、その枯れ枝の間に垣間見える洒落た装飾窓や繊細に彫刻された柱から、辛うじてここが皇宮の一部であることがうかがわれた。
エントランスの扉を開けて、玄関ホールに入ったものの、誰も出てくる気配がない。
メイド一人きりでお世話をする、というのは本当のようだ。ならばこのまま勝手に入ってしまってかまわないのだろうかと逡巡していると、二階からぱたぱたと人の走る足音が聞こえてきた。
まもなく正面の階段を少年が降りてくる。さらさらとした銀髪と青い瞳が、飾り窓から差す日の光にきらめいて見えた。
銀髪と青い瞳は、皇帝陛下と同じ。紛れもない皇家の血筋であることを示している。
「お前が新しいメイドか?」
12歳だと聞いていた皇子は、18歳になった私より頭一つ分、背が低い。
皇子は、私を睨むような目つきで見上げてくる。まるで毛を逆立てた猫だ。
くすりと笑いそうになったのを堪えて、挨拶をする。
「はい。今日から殿下のお世話をさせていただくことになりました。リュシーとお呼びください」
「ふうん……ま、どうせそのうち逃げ出すんだろ? これまでの奴らも、みんな最初はそうやって愛想笑いするけど、長く続いた試しがないからな。そんな奴の名前なんて覚えるだけ無駄だ。……それと、お前の部屋は一階の奥を使え。僕の食事は部屋に運んでくれ」
それだけ言うと、皇子はさっさと階段を駆け上がり、二階に姿を消した。