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17 噂の公女

「閣下、公女様の意識が戻りましたのでご報告に参りました。私が拝見したところ、特に大きな問題はなさそうです。記憶に混濁があるようですが……頭を打たれた後にはよく聞くことです。それもこのまましばらくお休みになっていれば、無事に回復されることと思います」


 アルスは、執務室にいたバローヌ公爵に公女の回復を報告した。


「そうか。……顔に傷が残ったりはしていないだろうな」

「その心配はありません。お顔に傷はありませんし、幸いにも負われた傷は、どれも擦り傷程度です。ほどなくきれいに治るかと」

「なら、問題ないな」


 公爵閣下は机上の書類から目を離す気配もなく、義務的に答える。

 数日意識がなく、一時は最悪の事態も案じられた一人娘にかける言葉として、アルスには違和感しかない。公女の専属侍女でさえ、意識が戻るまでの間、今にも泣きだしそうな悲壮な表情でずっと枕元に付き添っていたというのに。

 どこからともなく湧いてくる不快さに、報告を終えて去ろうとしていたアルスは、つい問うてみたくなった。


「公女様のご様子を見に行かれないのですか?」

「なぜだ? 問題ないのなら、わざわざ行く必要はない」


 言外に、用が済んだなら出て行け、という無言の圧を感じる。

 執務室を後にしたアルスは、公女についての噂話を思い出した。


(捨てられた公女様……)


 その噂は、皇都の社交界で半信半疑、確証のないものとして囁かれている。

 なぜ、確信を持って語られないのかというと、パーティーなどの公の場では、閣下は公女に対して、父親として極めて適切に接しているからだ。

 溺愛するでもなく、拒絶するのでもなく……。そこには何の感情も感じられないが、高位貴族の娘への態度としては、むしろ溺愛して娘を甘やかすよりも品位ある関係として望ましいとされる向きがある。

 そして公女も、閣下に愛情をねだるような振る舞いを見せることはない。


 だが真実は、公爵家の使用人の口から、水が染み出るように漏れ出していく。

 とはいえ、もとより使用人の話は真偽交々だ。

 確証を得るための裏付けには、身分ある者の話が必要だ。けれど幸いというか、公女は最低限の公式行事以外は表舞台に出ることがなく、友人と呼べる親しいご令嬢も皆無だ。


 これは公女がまだ幼い頃に、公爵夫人が病気療養として領地の城に引っ込んでしまったことに起因する。実際には政略で結ばれた閣下との不仲が原因と言われているが……以来、夫人が皇都の公爵邸に戻って来たことは数えるほどしかない。


 貴族の令嬢は、幼い頃から母親に連れられて他家の茶会などの催しに参加し、他家の令嬢、令息との関係を育むものだが、公女はその機会を逸してしまっていた。おかげで公女の実像を知る者はいないし、よって噂を後押しする者もいない。

 だから、確証のない、もしかしたら誤解によるもの、公爵家を貶めたい意図的なもの……として曖昧なまま消えずにいる噂だ。


 それで真実はというと……閣下の公女に対する無関心は、今に始まったことではない。

 公爵家の専属医として、アルスは公女の幼い頃からを知っている。親の愛情を感じることなく育った公女の境遇を思うと、心がちくりと痛む。


 邸の中で時折見かけた、父である閣下の関心を引こうと、閣下のいる執務室の扉の辺りで佇んでいる幼い公女の姿。

 だが、その扉が開かれて、中に招き入れてもらう姿を見かけることはついぞなかった。

 運よく扉が開かれて、閣下が出てきたとしても、「お父様、あの……」と小さな声でおずおずと話しかける公女が相手にされることはなかった。

 そうして一瞥もくれずにその場を立ち去る父親の背中を、公女はその度にただ茫然と見つめる。幼い少女が、泣きもせず、ただ立ちすくんでいるのだ。それはおそらく、すでに嫌というほど何度も繰り返し、あきらめることを強いられていたせいだろう。


 だが、今ではもう、そんな姿を見かけることはなくなった。

 公女はもう、父親に望むことをやめてしまったのかもしれない。

 何もわからず純粋に親の愛情を求めていた幼い少女は、すでに不都合なことすら理解できる年頃に成長してしまったのだから。


(おかわいそうに、なんて思ったところで、私にできることはないな……)


 アルスは静まり返った広い廊下を歩きながら、胸の奥にわだかまる想いを吐き出すようにひとりごちた。



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