16 覚えのない宝石箱
マリーの話によると、私は三日前、馬車の事故にあい、意識を失った状態で運ばれてきたのだという。そして今までずっと、眠ったままだったというのだ。
マリーは話しながら、笑みを浮かべながらも何度も涙を手のひらでぬぐっていた。目を覚ました私のことを本当に喜んでくれているのがわかった。
一通り話し終えると、また涙をぬぐいながら、「あ、アルス先生を呼んできますね!」と、慌ただしく部屋を出ていった。
マリーの消えた扉をぼんやり見つめていると、また頭の中に声が響いた。
――こんな時でも、やっぱりお父様は来てくれない……。少しは期待していたのに。
そう、お父様は、私にまったく興味がない。だから、心配なんてしてくれるはずがない。
いや、今死なれたら面倒だ、くらいにしか思っていないだろうな。
とたん、押しつぶされそうな孤独に襲われて、眩暈がした。私はとっさに頭を押さえる。
「お嬢様!」
そこへちょうどマリーが、公爵家専属医のアルス先生を連れて戻ってきた。無理に体を起こそうとする私を、アルス先生が優しく引き戻した。
「まだしばらくお休みになっていたほうがいいですね。体に痛みはないですか?」
「はい。痛みはありません」
「それならよかった。事故の衝撃で馬車から投げ出された時に、頭をひどく打たれたようです。それで意識が戻らず、眠っていらしたのかと思われます。でも、思っていたより長く眠っていらしたので一時は心配しました」
「いえ、先生……痛みはないんですが、事故の前後の記憶がないようなんです。あと、それ以外の記憶も、少しおぼつかないところがあるようなんです……」
「記憶がない? そうですね、この場合、それも十分ありうることかと。公女様はあの日、何をしにお出かけになったかは覚えておいでですか?」
アルス先生の問いかけに、私は一瞬に言葉に詰まった。
「……覚えてません。どうして? 何しに出かけたんだっけ? マリー、教えて」
「はい。お嬢様はあの日、ご自身のお誕生日の贈り物を求めにカナーバ通りにお出かけになったんです。昨日が15歳のお誕生日でしたから……。そうでした! お嬢様、お誕生日おめでとうございます。一日遅れとなってしまいましたが……」
そう言って微笑むマリーに、また私の頭の中に声が響く。
――そう。私はいつも自分で誕生日のプレゼントを用意しているの。
自分の誕生日に自分の贈り物を買うのは、とりたてておかしなことではない。
でも、他のご令嬢たちは、誕生日のパーティーを開いてもらったりするものだけれど、私は今まで一度も祝ってもらった記憶がない。
もっと小さい頃は、どうしてお父様は私の誕生日に気づいてくれないのか、とても寂しく思っていたけれど、いつからか、そんな期待をすることはなくなってしまった。
そう、お父様が気づいてくれないのなら、私が自分でお祝いすればいいんだとわかったから。
それに、マリーは毎年、誕生日の朝、私が目が覚めると一番に「おめでとうございます! お嬢様」と、きらきらした笑顔で言ってくれるから、それで十分だった。
「そうだったのね……。思い出してきたような気もするけれど、まだよくわからないみたい……」
「では、この箱は覚えておいでですか? 倒れたお嬢様が大事に抱えていたそうです。あの日、同行していた護衛騎士が言うには、お嬢様がカナーバ通りの店で受け取ったものだということです。おそらく、お嬢様がご自身のために依頼されていた誕生日の贈り物だと思うのですが。あの日に限って、お嬢様は私についてこなくていいと言いましたが、無理にでも私がついて行くべきでした……」
マリーが手にしているのは、小さなジュエリーボックスだ。
中身のジュエリーの格によって、それを納めるボックスの格も決まる。派手な装飾がされていないので、中身もそれほど高価なものではないはずだ。見ても何の思い入れも湧かず、興味も関心も持てない。
「うーん……。覚えていないわ」
「開けてみますか?」
「今はいいかな。そんな気分になれなくて。……とりあえず、そこに置いておいてくれる?」
私の答えに、マリーが何か問いたげにアルス先生に目を向けた。
「事故の前後の記憶が抜け落ちてしまうことは、珍しいことではありません。今は無理して思い出そうとしなくていいんですよ。まずはゆっくり休んでください。そして心身ともに落ち着いてくれば、徐々に思い出してくるはずですから。とにかく、焦る必要はありません」
アルス先生の言葉は優しい。マリーは真剣な面持ちで、いちいち頷いている。
「そうですよ、お嬢様。アルス先生の言うとおりです。ゆっくりお休みになってください」
「わかった……。そうするわ」
「マリーさん、公女様をお願いします。私は公女様が目を覚まされたこと、公爵様に伝えてまいります」
部屋を出ていくアルス先生を見送ると、マリーは「何か食べられそうなものを用意してきますね」と厨房へと駆けて行き、私だけが部屋に残された。
ベッドから起き上がり、壁にかかった大きな鏡を見つめる。
鏡に映る、明るい金色の髪と、オリーブ色の瞳。細い肩の上で波打つ金色の髪は、大きな窓から差し込む日差しに溶けだすように輝いていた。
見慣れているはずのこの姿に、どこか違和感を感じてしまうのは、なぜ?
いや、これも事故の後遺症なの?
すぐには消化しきれない思いを抱えたまま、私はまたベッドに潜り込んだ。