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12 好きな香り、似合う香り

 私が離宮での皇子の世話係となってから、気づけば5年が過ぎていた。

 その間、陛下の皇子への無関心ぶりは相変わらずというか、嫡子である皇子に対して不自然なほどまったく変わる兆しがない。だが、おかげで離宮では穏やかな時間が流れていた。


 今、訓練所でジェイデン卿と剣を交える皇子の姿を眺めながら、ぼんやりと思う。


(私もすっかりここに馴染んじゃったな……。ずっとこんな暮らしも悪くない。私の居場所ができたのかな……)


 かつての翳りのある瞳をした皇子は、ジェイデン卿をはじめとする騎士団の面々と過ごす日々の中で、しだいに年相応の溌溂とした色を瞳に灯らせていっている。

 少年の時は矢のごとく速く過ぎるとは、誰の言葉だったか。

 剣の手練れとして名高いジェイデン卿を相手に、引くことなく闊達に剣を振るう皇子。その姿に、先達の言葉の正しさをつくづくと思い知る。


 皇子は先日、17歳の誕生日を迎えていた。

 ジェイデン卿を師として剣術の腕を磨き続けた皇子は、生来の才もあり、今では手合わせする騎士団の騎士たちをさほどの苦もなく負かしてしまう。

 かつてジェイデン卿が多忙の際の手合わせの相手は私だったが、もうだいぶ前に皇子に軽くいなされてしまうようになっていた。


「今日はここまでといたしましょうか」


 ジェイデン卿に言われて、皇子は剣を下ろした。


「ああ。つい夢中になってしまった」

「本当に強くなられましたね。もう、殿下に勝てる者は、皇国の騎士にはいないかと」

「はは……。まだ卿には及ばない気がするよ。でも、もしそうだとしたら、卿の教え方が良かったんだろう」


 私は汗だくになった二人に、汗を拭く布を手渡した。

 ジェイデン卿はそれを受け取ると、「では、私はこれで。今日はこれから騎士団の訓練がありますので」と皇子に一礼して、足早に訓練場を出ていった。騎士団の仕事で忙しいジェイデン卿は、その合間を縫って皇子の相手をしてくれている。本当に有難い。


 そんなジェイデン卿を見送る皇子の背は、いつの間にか私を頭一つ分追い越し、会ったばかりの頃のように皇子の頭に手を置こうとしても、容易には届かない。それどころか、手にした布で皇子の額に浮かぶ汗を拭こうとしたら、その手を皇子に掴まれてしまった。


「リュシー、おまえはいつまで、俺が子供だと思ってるんだ? 学習しない奴だなあ。もうとっくに背丈も剣術も、リュシーを追い越しているのに」


 皇子は私の頭にわざと乱暴に手を置いて、くすくすと笑った。


「おまえのほうが子供みたいに小さいぞ。形勢逆転だな」

「もう、やめてください……。髪がくしゃくしゃになります……。せっかく今朝、香油できれいに整えたばかりなのに……。もちろん、セレス様の剣の腕は身をもって承知しています。確かに剣でもかないません……」

 

 ある時、皇子は私に、自分のことを名前で呼ぶように「命令」した。以来、「殿下」と呼びかけるたびに「セレス、だ!」と言い直される。

 はじめは名前で呼ぶなんて畏れ多いと固辞していた私も、今ではすっかり名前呼びするのに慣れていた。


「ふーん……。道理でおまえからいい匂いがすると思ったら……」


 皇子はその手で私の髪を一房すくうと、いたずらっぽい笑みを浮かべて顔を寄せる。


「あの、ちょっ、ちょっと……セレス様、ふざけてます……?」

「ふざけてないよ。ほんっと、甘酸っぱい香油の香りがする。これ……ロザリンドの花の香り?」

「あ、そうです……。よくわかりましたね?」

「リュシーが花の名前をよく教えてくれるから、嫌でも覚えるさ。ところで、この香油は誰にもらった? こういうものは、おまえは自分では買わないだろ?」

「えっと……」


 ジェイデン卿を探すが、すでに姿はない。


「ジェイデンか?」

「そう……です。先日、ジェイデン卿の親しい騎士様が体調を崩していると聞いたので、効きそうな薬草を煎じてお渡ししたんです。それが効いたとのことで、お礼として頂いたんですよ」


ふーん、とどこか不満そうに鼻を鳴らした皇子は、声を落として私の耳元で囁いた。


「……俺がそのうち、お前に本当に似合う香油を贈ってやるから、待ってて」

「えっ……ありがとうございます。では、私はセレス様からいただけるのを楽しみにしていますね」

「うん。リュシーにはもっと甘くない香りが似合うと思うからな」


 皇子の大人ぶった澄ました物言いに、意図せず顔が熱くなる。


(いつまでも子供だと思っていたのに……)


 私を見下ろすほどに背が伸び、日々の訓練で逞しくなった体躯の皇子。その笑顔が私には、どういうわけか今はやたらと眩しく見えて仕方がない。

 だが、そんな想いも一瞬で立ち消える。


「リュシー、喉が渇いた。お茶にしてよー」


 皇子は甘えた声で言うと、汗をぬぐった布を私に向かってポンと放り投げる。

 布を受け取った私は、苦笑いして、お茶の支度をしに厨房へと向かった。


   ◆ ◆ ◆


 訓練所を出て邸へと戻る途中、私は足を止めた。

 視界の隅に、侵入者と思しき影を捉えたのだ。



そろそろ不穏です…

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