五
五
巡礼たちの霊地であるこの寺は、仏菩薩が彼らみなに恵みを与える場所であり、楽しく美しい楽園である。一度でもここに詣でたという者は、五十里、百里、三百里離れていようが、九州の海の果てからでも、思い浮かべさえすれば瞬く間にここに来て、憂いなき世界に花が降る景色を見るだろう。月に浮かぶ白衣観音の姿も拝めるだろう。病熱に苦しむ者は、楊柳観音の手ずから柳の露のしたたりを授けられるだろう。恋をする者は、しなやかな菩薩の御手にすがることもあろう。菩薩の御胸にも抱かれるだろう。また迷える人は、緑の甍、朱の玉垣、金銀の柱、朱の欄干、瑪瑙の階、花唐戸。そんな阿弥陀浄土の玉楼金殿を空想して、鳳凰の舞う竜宮で、牡丹とたわむれる麒麟を見ながら、朝の光が差す獅子王の玉座のような桜の花を寝具に、月のように輝く真珠を枕にして、おそれ多くも観世音に添い寝をしていただく夢想をするかもしれない。たとえそんな夢を見ても、広大無辺の慈悲をもつ観世音は、おとがめにはなさるまい。
ここにある彫金、魚政をはじめとする人々は、彼らが貼った巡礼の札を見ただけで、女の名前であろうがどれもこれも、おおよそその顔かたちや身なりや、その挙動までが、ぼんやりとした影のように目に浮かぶのであるから、それこそが彼らの魂がここに通っている証拠ではないか。
あの、新聞紙上で披露されるもろもろの義捐金や、建札の表に掲示された寄付金の署名が、あからさまに現実を突きつける写実主義の見本だとすれば、この寺に貼られた巡礼の札が見せるありさまは、理想主義であると言ってもいいだろう。
そんなことを考えながら、散歩者は微笑んで、その一枚ずつを視めている。
正面の扉に背を向けた散歩者が、大きな賽銭箱の向こうにある、鋭い割れ目が入った丸柱に目をやったとき、そこにすらすらとした女文字が書かれた、懐紙の切れ端が挟まれているのを見た。
うたた寝に恋しき人を見てしより
夢てふものは頼みそめてき
――玉脇みを――
と、優しく美しく書かれている。
「もしもし。ようこそ御参詣くださいまして」
ハッと気づくと、麻の法衣の裾をたくし上げた足に藁草履といったなりで、袖を重ねた僧侶が一人、間近に来ていた。
振り向いた散歩者を、にこやかな微笑みで迎えて、
「ちょっとこちらへ」
と、賽銭箱の脇を通って、中腰で格子戸に手をかける。
「南無……」
と、続く文句を口のなかでもごもごと念じながら、左右にかたかたと静かに戸を開けた。
僧はまっすぐに御厨子の前に進むと、かさかさと袈裟の摺れる音をたてながら、袂からマッチを取り出すと、伸びあがって仏前の蝋燭に火を点し、額のあたりで合掌すると、引き返して散歩者の前にあるもう一枚の戸を開けた。
痛んではいるが高さがあって幅の広い、ぶ厚い敷居の先にある堂内は、縦に四畳ほどの畳敷きである。壁の隙間から樹陰をちらつく光が漏れるような古い堂ではあるが、縁なしの畳は青々と新しかった。
僧は上に何も置かれていない小机に座って何かしていたが、やがて灰で燻されたような灰皿がわりの火入れだけを、煙草も添えてというわけでもなくこちらに差し出すと、自分もすこしこちらに膝を進めて、
「ちょっとお休みください」
と言いながら、また袂をかさかさと探って、
「やあ、マッチはここにもござった、ははは」
と笑いながら、机の下にあったマッチを取り上げた。
「それではお邪魔を、ちょっと拝借」
と散歩者は敷居の縁に腰掛けて、ここからも水平線が見下ろせる淡い海の色より濃密に思える紫煙を吸いつけた。
「ほんとに結構な御堂ですな。いい景色じゃありませんか」
「いえ、もうぼろ屋でござって。お守りいたしております仏様に、こんなことを申し上げては申し訳ないですがな。ははは、私の力では及び申さぬことも多くて、行き届かないことばかりでございますよ」
