三
三
そんな山里であるから、家の屋根を越すほどの高さの、瓦を焼くかまどがあり、祀られた神さえわからない宮があり、参る人の途絶えた墓があり、椿はしきりに花を落し、田には大きな鰌がいる。
九十九折りの道がうねった山の狭間を湾に見立てれば、西南方面にある海に浮かんだあのヨットの白い帆が山奥までやってきて、新時代の波が到来したと知らせでもしない限り、村人たちはいつまでも山のほうばかりを向いて、のんびりと畑を耕しているのであろう。
ちょうど先ほどの二階建ての家の周辺に七、八軒の屋根が重なって見えるのがこの村の中心で、それから山の狭間に向けて家は飛び飛びでまばらになり、そこからは海のほうに向かって二、三百メートルは人家がなく、逆に二階建てのある角を曲がった山のほうの小道の両側には七、八軒ほどが並んでいて、それらが一集落をなしている。
織機の梭を投げていた娘の瞳にも、山のほうばかりが映されて、踏み板を踏んでいた女房の胸にも、明るい海の波は浮かばないのであろう。
そんなことを考えながら、家々の前を行き過ぎる。すると視界を圧するような菜の花畑が現れた。ただでさえまばゆい日の光を、さらに輝かせるかと思える光景である。左手にある崖の緑も、向こうの山の青も、この黄色の鮮やかさをいささかも浸食することなく、ただその領域が限られていることを示すのみである。足もとにある小川のせせらぎは、ときおり小さな滝となってスッと流れを速めることもあるのだが、そんな驚きごときで、この花の色彩は弱められるものではない。
眼にも鮮やかな色彩の上に思い浮かべたのは、あの、ちらりと見かけただけの、いにしえの織り姫を思わせる二人の機織りで、あたかも一枚の白紙におぼろに描いた二つのその姿の背景を真っ黄色に塗ったかのよう。二人の衣服にも、手拭いにも、襷にも、前垂れにも、織っていたその機の色にも、少しも黄色が配されてはいなかっただけに、とりわけ鮮やかに明瞭に、脳裏に描きだされたのだった。
もちろん、描いた人物をはっきりと浮きださせようとして黄色で背景を塗りつぶすのは、絵画的な手法として正しいのか、間違っているのか、巧いといえるのか、そうではないのかという問題はあるにせよ、それとこの菜の花の美しさは無関係である。
目前に広がる真っ黄色な色彩に、機を織る二人の姿を、うっとりするほど美しく思い浮かべたとき、若い女の投げた梭の尖端が、一人の女の足もとで炎のようにひらめくと、円を描いて飛びあがった、金色がかった朱色の線があって、その赤色をまぶしく照り返すと、川の流れの淵にある草の茂みに飛びこんで、やがて火が消えるように姿を消した。
またしても蛇、今度は赤い斑文のあるヤマガカシが、菜の花のなかを輝いて通ったのである。
ぞっとして視線を戻すと、突き当たりには木の枝や梢の葉にからんだような石段があって、その上には茅ぶきの堂の屋根が、降りてきた雲のひとひらのように見えている。軒に咲いたイチハツの花の紫色もきわだって、山の峰の深いみどりの黒髪に飾られた簪のように思えるあそこが、久能谷の観音堂である。
我らが散歩者は、それを目指して歩いて来たのだ。すると、これから参詣しようとする寺へと続く石段の真下のあたりに、両側から覆いかぶさった雑樹のなかから、その横路をほとんど占領したかと思うほどの大きさで、こちらを向いた馬の顔がむっくりと湧き出てきた。
あっけにとられて見ていると、馬の頭が出てきただけでも不意打ちなのに、続いて胴体が現れはじめてみると、一頭だけではなかった。たてがみにたてがみをつなぐように、胴体に胴体がつながるように、およそ十メートルほどにわたって獣の背中が続くことになったのである。
すこしの間、散歩者はステッキをついて立ちすくんでいた。
曲がり角で見た青大将と、先刻の菜の花畑にいたヤマガカシと、目の前の馬の面を直線でつないだ細長い三角形のなかに封じ込められたということになる。
うららかな春のこの里が、まさかこんな怪異を宿していようとは。
もしも悪獣に取り囲まれ、鋭利な牙や爪の恐ろしさに震えることがあっても、蜥蜴、蛇、蝮、蝎の毒気の煙火が燃えようとも、必ず守ってくださるのだと、法華経普門品で唱えられる菩薩にすがりたくもなる。我を忘れた散歩者の目は、その時点ではくらまされていたのだけれど……。