一
一
「お爺さん、お爺さん」
「はあ、私けえ」
と、一言ですぐに返事が返ってきたのも、辺りが静かで他には誰もいなかったせいだろう。というのも、ゆるめた鉢巻を巻いた皺だらけな額を、ほかほかしたと春の日に照らされている爺さんは、とろりと酔ったような表情を浮かべて、のどかに鍬を使いながら――足もとで耕された柔らかな土から立ちのぼる湿り気にしっとりと汗ばんでいそうで、散りこぼれたら紅い夕陽のなかにひらひらと入っていきそうも思える、陽気に温められた桃の花を、さらに燃え立たせようと揺さぶるかのように――しきりに囀っている鳥の鳴き声に、何かを話しかけてくるのではないかと耳を傾けているふうであり、そこで人の声を耳にしても、それが自分を呼ぶのだとは急に気づきそうもない、ぼうっとした様子だったから。
こちらとしても、それほどすぐに返事をされるとわかっていたら、声をかけないほうがよかったのかもしれない。
なぜなら、そこから切り出そうとしたのが、相手にとってはどうでもいいことかもしれない話だったからだ。こんなふうに話しかける前に、どうせ気まぐれなぶらぶら散歩の途中なのだから、近頃買い求めた安物のステッキを真っ直ぐに道に立てて、鎌倉のほうに倒れたら爺さんを呼ぼう、逗子のほうに倒れたら黙って通り過ぎよう、と運を天に任せて、後者であってもそれはそれでよかったのである。
おそらく聞こえないだろう、聞こえなければそのまま通り過ぎればいい。余計なお世話だろうけれど、何も言わないのもなんとなく悪い気がした。そんな気でいたのだが、打てば響くように「はあ、私けえ」とことばを返されたのは不意打ちだった。
「ああ、お爺さん」
と、竹を編んだ低い垣根のほうに一歩進み出ると、爺さんはゆっくりと伸ばした腰を、よいとこさと反りかえるように伸ばした。爺さんとの間は、草で隔てられているというわけでもない。三筋ほど耕された土が、ほくほくと湧きたつように、掘り返されたばかりの勢いをもって、しかもひたすらひっそりと、生き生きとした土の香りをただよわせているだけである。もちろん土ばかりではなく、青々と粉を吹いた、根を抜かれた空豆の新芽が、肥料にでもするためにか除けて置かれてはいて、それに交じって、ちらほらとれんげ草が生えているのも見えはしたのだけれど。
散歩者は鳥打ち帽に手をかけて、
「いきなりこんなことを聞くのもなんだけどね、お爺さんはほら、あの、そこの角の屋敷の内の人なんじゃないかい」
のっそりと屋敷のほうへ向き直った爺さんの、皺だらけな顔がまともに日の光に照らされたが、桃の花に光が差したような、その、のんびりとした立ち姿とは対照的に、かたやその屋敷は、背後に広がる麦畑の青麦に日差しを注いでいる空に向かって、高く屋根瓦をそびえさせている。
「あの家のことかね」
「その二階建ての家さ」
「いんえ、違います」
と、ことばは素っ気なかったが、それで話を終わりにするつもりではないようで、肩をぶるっと揺さぶりながら鍬をひっくり返すと地面に突いてこちらの顔を見た。
「そうかい、いや、おじゃまをしたね」
と散歩者はこれをきっかけに別れようとしたのだが、爺さんは片手で鉢巻をもぎ取って、
「どういたしまして、じゃまなんてことはござりません。はい、お前さま、何かお尋ねのことでもござりますかね。あそこの家は表門さ閉まっておりますが、借家ではねえが……」
鉢巻にしていた手拭いを、からげていた裾といっしょくたにして、下からつまみ上げるように帯に挟んだ爺さんは、腰にぶら下げた煙草入れに指を突っこんだ。ここまで身構えされては無視して立ち去ることもできない。
「いや何、つまらないことさ」
「はい?」
「お爺さんがあの家の人ならちょっと注意して行こうと思っただけで、別に借家を探しているわけではないんだよ。奥のほうで若い女の声がしてたから、空き家でないのはわかっているが」
「そうかね、女中さんも二人ばかりいるだから」
「その女中さんたちに知らせたかったのさ。私がね、今あそこの横手からこの路を歩いてくると、溝の石垣のところをずるずると這っていたんだよ、一匹いたのさ――長いやつが」