表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/27


「お爺さん、お爺さん」

「はあ、(わし)けえ」

 と、一言ですぐに返事が返ってきたのも、辺りが静かで他には誰もいなかったせいだろう。というのも、ゆるめた鉢巻(はちまき)を巻いた(しわ)だらけな額を、ほかほかしたと春の日に照らされている爺さんは、とろりと酔ったような表情を浮かべて、のどかに(くわ)を使いながら――足もとで耕された柔らかな土から立ちのぼる湿り気にしっとりと汗ばんでいそうで、散りこぼれたら(あか)い夕陽のなかにひらひらと入っていきそうも思える、陽気に温められた桃の花を、さらに燃え立たせようと揺さぶるかのように――しきりに(さえず)っている鳥の鳴き声に、何かを話しかけてくるのではないかと耳を傾けているふうであり、そこで人の声を耳にしても、それが自分を呼ぶのだとは急に気づきそうもない、ぼうっとした様子だったから。

 こちらとしても、それほどすぐに返事をされるとわかっていたら、声をかけないほうがよかったのかもしれない。

 なぜなら、そこから切り出そうとしたのが、相手にとってはどうでもいいことかもしれない話だったからだ。こんなふうに話しかける前に、どうせ気まぐれなぶらぶら散歩の途中なのだから、近頃買い求めた安物のステッキを真っ直ぐに道に立てて、鎌倉のほうに倒れたら爺さんを呼ぼう、逗子(ずし)のほうに倒れたら黙って通り過ぎよう、と運を天に任せて、後者であってもそれはそれでよかったのである。

 おそらく聞こえないだろう、聞こえなければそのまま通り過ぎればいい。余計なお世話だろうけれど、何も言わないのもなんとなく悪い気がした。そんな気でいたのだが、打てば響くように「はあ、(わし)けえ」とことばを返されたのは不意打ちだった。

「ああ、お爺さん」

 と、竹を編んだ低い垣根のほうに一歩進み出ると、爺さんはゆっくりと伸ばした腰を、よいとこさと反りかえるように伸ばした。爺さんとの間は、草で隔てられているというわけでもない。三筋ほど耕された土が、ほくほくと湧きたつように、掘り返されたばかりの勢いをもって、しかもひたすらひっそりと、生き生きとした土の香りをただよわせているだけである。もちろん土ばかりではなく、青々と粉を吹いた、根を抜かれた空豆の新芽が、肥料にでもするためにか除けて置かれてはいて、それに交じって、ちらほらとれんげ草が生えているのも見えはしたのだけれど。

 散歩者は鳥打ち帽に手をかけて、

「いきなりこんなことを聞くのもなんだけどね、お爺さんはほら、あの、そこの角の屋敷の(うち)の人なんじゃないかい」

 のっそりと屋敷のほうへ向き直った爺さんの、(しわ)だらけな顔がまともに日の光に照らされたが、桃の花に光が差したような、その、のんびりとした立ち姿とは対照的に、かたやその屋敷は、背後に広がる麦畑の青麦に日差しを注いでいる空に向かって、高く屋根瓦をそびえさせている。

「あの(うち)のことかね」

「その二階建ての家さ」

「いんえ、違います」

 と、ことばは素っ気なかったが、それで話を終わりにするつもりではないようで、肩をぶるっと揺さぶりながら(くわ)をひっくり返すと地面に突いてこちらの顔を見た。

「そうかい、いや、おじゃまをしたね」

 と散歩者はこれをきっかけに別れようとしたのだが、爺さんは片手で鉢巻(はちまき)をもぎ取って、

「どういたしまして、じゃまなんてことはござりません。はい、お前さま、何かお尋ねのことでもござりますかね。あそこの(うち)は表門さ閉まっておりますが、借家ではねえが……」

 鉢巻(はちまき)にしていた手拭いを、からげていた(すそ)といっしょくたにして、下からつまみ上げるように帯に挟んだ爺さんは、腰にぶら下げた煙草入れに指を突っこんだ。ここまで身構えされては無視して立ち去ることもできない。

「いや何、つまらないことさ」

「はい?」

「お爺さんがあの家の人ならちょっと注意して行こうと思っただけで、別に借家を探しているわけではないんだよ。奥のほうで若い女の声がしてたから、空き家でないのはわかっているが」

「そうかね、女中さんも二人ばかりいるだから」

「その女中さんたちに知らせたかったのさ。私がね、今あそこの横手からこの路を歩いてくると、(みぞ)の石垣のところをずるずると()っていたんだよ、一匹いたのさ――長いやつが」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ