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十七

十七


「客人にとってはその穴も、髑髏(どくろ)の目に見えたことでしょう。

 池のまわりを(めぐ)りながら、川を挟んで建っている玉脇(たまわき)の屋敷を、奥さまにとっての牢獄か何かのように考えていたのですから。

 さてその川は、潮の満ち引きを受けているだけで、流れているわけではありません。どんよりと鼠色に(よど)んだ岸に、浮きもせず、沈みもせず、最後には砕けて(こい)(ふな)にでもなってしまいそうな丸太が、いつからか五、六本、水に浸かっていて、それを見ながら、ああ、これを切って組み立てれば船になるだろう、つなぎ合わせれば(いかだ)になるだろう、なのに筏を組む(つな)もない、船を()(さお)もない、恋の(ふち)は、この、頼りなく浮いた丸太を伝って渡らなければならないのか。

 生きて渡れるとは思えない。魂だけなら乗れるだろうに。あの、樹立に囲まれた木戸のなかにはあの(ひと)が、と足をつま先立ててみたりする。

 蝶の目から見ても、あまりにもふわふわして見えたことでしょう。こぢんまりした松林のなかをふらついているうちに、なんだか自分でも自分自身が、足も胴も消えてしまって、肩から上だけになってしまった気分で、まるで真昼に蝙蝠(こうもり)がさまよっているかのよう。

 (ふところ)から本を取り出して、

   高く掲げられたる蝋燭(ろうそく)の光は空しく薄絹の(とばり)を照らし

   花やかなる部屋に()もりてひとり(あか)守宮(やもり)の薬を臼搗(うすづ)

   象の香炉の口は煙を吐き出し毛氈(もうせん)の敷物は温かく

   北斗星は王城にかかりて夜更け告ぐる時報の響きを聞く

   寒さは軒端(のきば)の網の目を通して入りこみ御殿の影は暗く

   五色の鵞鳥(がちょう)(ぬいと)れる(すだれ)の枠に霜は置きはじめぬ

 ええ、続く部分では、おけらが月光をあびた欄干(らんかん)の下で鳴いていて、()文帝(ぶんてい)(めかけ)になった甄夫人(けんふじん)が、のちに容色衰えて幽閉されたという故事になぞらえて、同じく妾になった女が、あわれなる宮女が閉じこめられていると、自分自身の境遇を嘆き、それから、

   夢は懐かしきわが家の門に入らんとして渚の砂を踏みて過ぎ

   天の川の落ちかかるところ 長洲(ちょうしゅう)の道をぞ駈けめぐる

   ――願わくはわが君王の太陽のごとき御光(みひかり)輝かしたまい

                       (*黒川洋一訳)

 妾である私を解き放ってほしい、そうすれば魚に乗って、波を撃って去るだろうと……客人は、宮中に監禁された女が開放を願う詩を小声で口ずさんでは、思わず(えり)にはらはらと涙を落とす。目を見開いて、その水中の木材よ、出よ、浮かべ、そして(ひれ)を振って木戸まで私を運んでくれと、にらみつけるほどに見つめたのだそうです。ちょっとただ事ではありませんな。

 ところでこの詩は、唐詩選にでも収められていますでしょうか」

「どうですかね。ええっ、なんですって――夢は懐かしきわが家の門に入らんとして渚の砂を踏みて過ぎ、ですか。魂が砂漠をさまよって歩くようだね、そして天の川の落ちかかるところ、長洲の道をぞ駈けめぐるというんだ、あわれじゃありませんか。

 そんな詩を聞いていると、なんだか私まで、その奥さんが幽閉されているように思えてきます。

 それからどうなりましたか」

「どうしたもこうしたもありませんで、客人はだんだんと(あご)がこけて、日に日に目がくぼんで、顔色もどんどん悪くなる。

 ある日、こうしてはいられないと言って、駅前の床屋へ顔を()りに行かれました。そのときだったと申します。

 ひさしぶりに顔もきれいにして、ちょっとばかり気持ちもさわやかになったからと、ふらりとその辺を歩いていると、田舎には雑貨屋が多いのでして、紙、煙草、蚊遣香(かやりこう)、台所道具などを扱うなんでも屋のような店ですな。通りを挟んだ床屋の向かい側にも、やはりそういった雑貨屋があって、店の前に水を打って、(のき)提灯(ちょうちん)にはまだ火を点さない時分で、溝石(みぞいし)から往来に縁台をまたがせて、差し向かいになった男たちが将棋を指しています。端っこの()(こま)を木切れで代用してるところが、いかにもの縁台将棋で。

 これといった用事もないので、そこに立ち寄った客人が道ばたで見物していると、両者ともに頻繁に飛車角の取り替えっこが続き、ころりころりと差し違えるたびに、ほい、ほい、と勇ましい掛け声を上げる。おまけに一方の親父(おやじ)は、かみさんたちが行水をするあいだ子守をやらされていると見えて、胡座(あぐら)をかいた上に子どもを抱きながら、雁首(がんくび)を下に向けて煙管(きせる)(くわ)えています。

 その煙管を咥えたまんま、待てよ、どっこい、などと言うたびに、煙管が顔に当たりそうになるので、抱かれた子どもは親父よりも顔をしかめながら、雁首を狙って取ろうとする。火はついていないから火傷(やけど)をする心配はないが、親父のほうも夢中で取られまいと振り動かす。子どもが手を伸ばす、飛車が逃げる。

 親父はたらたらとよだれを垂らしながら、しめた! とばかりに、いきなり相手の王将をひっつかんだが、そのとき、大きな口をへの字型に結んで見ていた、赤ら顔で背が高く、肩幅の広い坊さんが、鉄梃(かなてこ)のような親指を当てていきなり勝者の鼻をぐいっとつかむと、やったな、と引っぱったそうで、ははははは」


(*)

唐代中期の詩人、李賀の「宮娃歌(きゅうあか)」。原文で引用された詩文は漢文だが、ここでは『李賀詩選』(黒川洋一編、岩波文庫)から訳文「宮女の歌」を引用させていただきました。

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