十二
十二
「まずはお茶をお一つどうぞ。お約束どおり渋茶でござって、お茶台にも乗せずに恐縮ですが、何もない家なので自然と片づいております。おくつろぎください。町が遠くて不便な代わりに、秋になれば栗や柿に事欠きません。カラスを追って柿を取り、大声で鳴き叫ぶモズを驚かせて栗を落とすなどして差し上げましょう。
まあ、何よりもお楽に」
と、僧が脱いで釘に掛けた、袈裟が差しかかる障子には、赤みを帯びた桃の花の影が映っている。障子の破れ目からちらちらと、温かな炎のような光が法衣にまといつくのを見ていると、聞いたばかりの話にあった朱を思い出さずにいられない。
先刻までの御堂から席を移した、この庵室から見上げれば、表の石段には樹々の梢が差しかかり、上の御堂は屋根だけが浮いて見えるばかり、建物は緑の雲にふわりと沈みこんでいるようで、天から吊られた萌黄色の蚊帳のような山裾の外れにいる、誰を待つわけでもない僧と散歩者の前には、火のない火鉢のそばにひらひらと飛び回る蝶が訪れたのだった。
「お堂のなかでは、なんとなく気が引けてしまいます。あの話の続きは、ここでお茶を入れてくださった上でお聞きするに越したことはないんですが、うたた寝に、の歌のお札と別れてしまったのは、なんだか名残惜しい気持ちもします」
「けれども、石段を下ったぶんは、歌を書いた色っぽいご本人との距離が縮まっておりますから、はははは。
実のところ仏様の前では、私が自分に対して懺悔でもしているようで心苦しかったのです。ここでしたら大いにくつろげるというもの。
師の傍を七尺離れればもうなまけ心が出てしまう、困ったものでありますわ。
そこで話の続きの、その客人でございます。――
まずはその方の日頃のお話ぶり、行い、ご様子をお話しするのが筋道ですが……」
「どういう人でした?」
「それは申さないでおきましょう。私も、盲人が垣根から覗き見するよりもちょっとはましな程度に、その方の机の上を覗いたこともあり、読んでおられた書物のお話もうかがって、何をなさる方だということも存じておりますが、経文に書いてあることさえ、うかつにしゃべると間違いが生じます。
故人に対して誤ったことを伝えてはならず、下手な自分の考えも交えてしまいそうでもありますから、ただあのご婦人とのいきさつだけを物語ることにしましょう。
ある日の夕方、酷暑の折のことでした。浜辺の散歩からお戻りになった客人が、
『和尚さん、ちょっと海のほうに行ってごらんなさいませんか。きれいな人がいますよ』
とおっしゃるのです。
『ははあ、どんな方ですか』
『あの松原の砂道から小松橋を渡って海のほうに進んで行くと、松の樹の間から急に望遠鏡を覗いたように丸い視界が開けて、富士山が見える場所があるでしょう……』
これはあなたも御存じでございましょう」
「知ってますとも。浜へは毎日のように遊びに行きますから」
「あの橋のたもとに、松の樹に取り囲まれた――その松林は河を越えて広がって、大きな島のような林になっておりますな――広い庭があって、立派な玄関に石を敷きつめた、すばらしい門がある屋敷がございますでしょう。それ、あれが玉脇の住まいです。
実はあの屋敷は、東京の方が建てた別荘を真似て造ったのですが、主人が交際好きでしばしば客を招くし、ここに来れば誰もが海を見たがるものです。この久能谷にある二階建ての本宅は、ちょっと海から離れていますから、贅を尽くすのはすべてあちらの屋敷ということになって、小松橋にあるほうが逆に本宅のようになっております。
その場所で去年の夏頃に見た美人となると、玉脇の奥さまですな。申すまでもない、そちらの屋敷にいたのでございます。
で、その――小松橋を渡ると、急に望遠鏡を覗いたように見える丸いガラスのような海の――青い波と白い富士の頂を背にした、朱鷺色の着物の色がぱっと目についたかと思うと、風景に薄い虹がかかるように、ふわりと美しく現れた女の姿があった。……
と客人が言われたのは、すなわち、その、玉脇夫人でございます。
しかしそのときはまだ、客人にしても誰だか御存じではないし、聞いた私のほうでもわかりませんので、どういう美人でしたかと冗談めかして、団扇で扇ぎながら聞いたものでございました。
客人は庭先で麦わら帽子を脱いだというところで、まだ部屋にも上がらず、その縁側に腰かけながら、
『どなたかは知りませんが、尊いくらいの美人でした』」