十
十
菜の花に交じって見える茅葺き屋根の向こうに、松風に吹かれて左右に別れた旗のような薄霞を、しっとりと染めた桃の花の紅色で彩られたその家の棟より、高い建物は一つもない。
「その道の先の角にある、あの二階建ての家がそれです」
「ええっ?」
「あれが、この歌を書いた女性が住んでいる家でござってな」
散歩者はぞっとした。それはつい先ほど、蛇が入ったと教えた家だったのだから。
僧は相手の動揺には気づかずに、
「とはいってもあそこには、去年の秋、奥さまだけが引っ越して来られたのです。ちょうど私がお泊めしていたそのお方が……お名前は申さずにいましょう」
「それがいいと思います」
「客人、とお呼びすることにいたしましょう。庵室に逗留されていたその方が、夜中に海に入って亡くなりました」
「溺れたんですか」
「と……まあ、そう思われるのでございます、亡骸が岩場に打ち上げられておりましたので、事故か、それとも覚悟の死であったか、それは話を聞いてくださった上で御判断していただきたいのですが、私は先に申したように、この歌のせいではないかと……」
「理由はどうあれ、大事件ですね」
「その客人が亡くなりまして、二か月ばかり過ぎた頃、あそこに……」
と、はるかに見下ろせる二階建ての家を、雲の上から覆うように法衣の袖を上げて、
「その奥さまが引っ越して来られたのです。当時、恋愛沙汰だ、色に迷ったのだと世間が騒いでいた頃は、あの海岸沿いにある本宅にご家族で暮らしてらっしゃって……今でもそこが本家で、さらに横浜にも立派な店があるのでして、主人はほどんどそちらのほうに行っているのでしょうが。
この久能谷にある家には、奥さまと女中だけで、ひっそりと暮らしております」
「ということは別荘なんですね」
「いえいえ――どうも話が混み合っておりますが――あそこにある久能谷の二階建ての家が本宅だそうで、そもそも今の主人が、あの屋根の下で生まれたと申します
そのころは細々と暮らしていて、屋根一つとっても、あんな瓦葺きなんてものじゃない。月の光も時雨の雨粒も、ぱらぱらと落ちてくるような茅葺き屋根ですな。それでも、今はもう亡くなった先代の親父というのがですな、小作人ながらも大の節約家で、こつこつと貯めた資金で、かねてからの望みであった土地をすこしばかり借りたというのが、私の庵室の裏手と地続きで、以前は立派な寺があった場所です。その寺の住職が隠居後に住んでいた家の跡地だったそうでございますよ。
まことに天気の良い、のどかな、陽炎がひらひらと畔に立つある日、その親父さんが豆畑を拓く作業をしていたときのことだそうです。
親父さんは鍬をかついでこの坂の下にやって来て、自分の借地をまずは整えようとしていたのでした。
お父っあん、昼休みにさっせえと、子どもが呼びに来た頃だったと言いますから、かれこれお昼頃になっていたのでしょうな。家を出るときは寒かったので、綿入れの半纏を着てきたほど朝早くから仕事を始めて、日中はその陽気のなかを働き通しですよ。親父さんは鉢巻を額できりりと締めて、上半身を肌脱ぎで、せっせと耕しておりました。自分が借りた土地の範囲はほぼ仕事が済んで、ついでにへそくりを貯めるつもりで山を削って、畑を広げようという気でいたんですな。勢いこんで遠慮なしに山の裾に手をつけていたところで子どもが呼びに来たので、一服するべいか、でもその前にもう一鍬、すとんと斜面に振り下ろすと、急に土が軟らかくなって、ずぶずぶと柄を握ったところまで潜りこんでいったんです。
ずいっと引き抜いた鍬のあとからじとじとと滲んできたのが、ねばねばとした真っ赤な水じゃった」
「死骸ですか」
と散歩者が口を挟む。
「大外れ、大外れ」
と、僧は大きく頭を振って、
「もしかしてと、親父さんが期待したとおりに出て来たのは、金子じゃった」
「なるほど、掘り当てましたね」
「掘り当てましたとも。海のなかでも紅色の鱗の魚は目立つものです。土を掘って出る水も、そういう場合には紫より、黄色より、青色より、紅色が見る人をいちばん驚かせます。
はて、なんだろうと、親父さんが緊張して、もう二、三度鍬を振って掘り広げると、がくんと空洞が現れたので、山の斜面に身をくっつけるようにしながら、なかを覗いてみたんだそうです」