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「まさかとお思いなさるでしょう。お話がずいぶん唐突でしたから」

 僧は(ほお)に手を当てて、うつむいてしばらく考えていたが、

「いや、しかし恋歌ではないと考えてみますと、その死んだ人のほうが心を迷わせたとも考えられます」

「とんだ話じゃありませんか、それはまたどうしたことだったんですか」

 と、最初は敷居に腰かけていた散歩者は、いつの間にか御堂の畳に上がりこんでいた。いわくありげな物語を聞くのには胸のあたりが窮屈(きゅうくつ)に思えて、(ふところ)に押しこんでいた鳥打ち帽を取り出して、(かたわ)らに置いた。

 松風の音がひときわ高まる。とはいえ春の昼間のことだから人の頭上をそよそよと吹くばかりである。

 僧は仏殿の燈明(とうみょう)をちょっと見て、

「さればでございます。……

 実は先ほどお話ししました、ふとしたご縁で、このお堂の下の仮庵室(かりあんしつ)へお泊めしておりました、その方なのですが。

 その、うたた寝に、の歌をそこに書きました女性のために……まあ、言ってみますれば恋わずらい、いや、こがれ死にをなさったということでございます。早い話が」

「ほお、今どきそんな羽目に(おちい)るとは、いったいどんな男だったんですか」

「ちょうどあなたのような方で」

 なんと? 茶釜が尻尾を出すなどと言いながらこの文福和尚は、客に渋茶どころか警策(けいさく)でピシリと(かつ)を入れるようなことをするのだから、散歩者は思わず身を反らせて目を丸くして……ただ苦笑するしかなかった。

「これは、飛んだところで引き合いに出してしまいました」

 と僧は声をあげて笑い、

「おっしゃることが色恋の話で、お近づきになった経緯も似ていましたから、ついうっかり、そんなことを……」

「いや、結構ですとも。恋ゆえに死ぬ、本望です。この太平の世に生まれて、戦場で討ち死にをする機会がないとなれば、同じ畳の上で死ぬなら、恋に焦がれて死ぬほうがしゃれています。

 金持ちの華族の家に生まれて、恋わずらいで死ぬなんてことほど、理想の死に(ざま)はないでしょう。恋は(かな)ったほうがよさそうなもんですが、叶ったら叶ったで愛別(あいべつ)離苦(りく)の苦しみが待っています。

 ただし、誰かに死ぬほど()れるというのが、金を貯めるより難しいんですよ」

「まことにご冗談がお好きでおいでなさる。はははは」

「真面目ですよ。真面目なだけに、余計に冗談のように聞こえるんです。その、亡くなった方にあやかりたいですね。よくも見つけたもんですね。よくもそんな、焦がれ死にをするほどの女が見つかりましたね」

「見つけたといっても、見るだけなら誰でもできます。美しいからといって、竜宮や天上界に参らねば見られないわけではござらんて」

「じゃあ今もいるんですね」

「おりますとも。土地の人です」

「この土地のですか」

「そう、しかもこの久能谷(くのや)でございます」

「久能谷の……」

「あなた、あれでございましょう、今日ここへお出でなさるときに、その家の前をお通りになりましたろうで」

「その美人の住まいの前をですか」

 と言ったとき、(はた)を織っていた若いほうの女が目に浮かんだ。ありありと菜の花畑に浮かぶように。

「……じゃあ、あの、やっぱり農家の娘で」

「いやいや、大資産家の奥さまでございます」

「外れました」

 と思わずつぶやいたが、

「そうですか、大金持ちの奥さんですか、じゃあもうその花には持ち主がいるということなんですね」

「さようでございます。そのために、あなた……」

「なるほど、他人の妻ですね。しかも誰が見てもきれいだというんですか、美人なんですか」

「はあ、夏になると逗子の海水浴場を目指して何千人という客人が東京から来られますから、なかには目の覚めるようにきれいな方もいらっしゃいますが、あれほどの美人もめったにない、というほどでございます」

「じゃあ、私が見ても恋わずらいをしそうですね。これは危ない、危ない」

 僧は真顔で、

「なぜでございますか」

「帰り道には気をつけなければなりません。どこですか、その資産家の(うち)は」



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