八
八
「ただ、人とだけ言えば他人です。なんの関係もない。これに呼び名が付くとします。名前が付きますと、父となり、母となり、兄となり、姉となります。それでもその人たちをただの他人として扱えますか。
偶像も同じです。ただ偶像と呼ぶのならばなんでもない、でもこのお堂のそれは観世音です、だから信仰をするんでしょう。
偶像は、木、金属、あるいは土でできている。それを金銀、宝玉で飾り、色彩で装ったものにすぎないと言う人がいるかもしれない。でも人間だって皮、血、肉、五臓六腑、そんなものをひとまとめにして、それに着物を着せたものだ。美人だからと言ったって、たかがそれまでのもんだ。
しかし人には霊魂がある、偶像にはそれがないと言うかもしれない。その、あなた、そのですよ、霊魂というものがなんだかわからないから、迷いもする、悟りもする、心配もする、安心もする、拝みもする、信心もするんですから。
的がなくって弓の修行ができますか。軽業、手品だって手本がなければ学べないんです。
偶像はいらないと言う人に、そんなら恋人はただ慕う、愛する、こがれるだけで、一緒にいなくてもいいのか、姿を見なくてもいいのか。姿を見ただけで、話をしなくても、話をしただけで、手を握らなくても、手を握っただけで、寝ないでもいいのか、と聞いてごらんなさい。
せめて夢のなかででも、その人に逢いたいのが本心です。
神仏も同じことで、幻であってもそのお姿を見たいと思うものでしょう。
だから釈迦、文殊、普賢、勢至、観音と、そのお姿は有難いんじゃありませんか」
僧は目を輝かせて、活き活きとした表情を浮かべた。内心の喜びをありありと示した口もとを、髯の毛穴の数が数えられるほどに笑み広げながら、
「よくぞおっしゃいました。おもしろい」
膝にぴたりと手をついて、片手を額に当てると、
「――うたた寝に恋しき人を見てしより夢ちょうものは頼みそめてき――」
と、独りうつむいて口のなかで唱えたのは、柱に記されていたあの歌である。
散歩者が思わず表の柱のほうに目を向けると、柱にかかった蜘蛛の糸とともに、あざやかな女文字の筆あとが見えた。
「幻のお姿を見たいというあなたのお話をうかがって思い出したのは、面目ない次第の話で、とはいえ何を恥じ入っているのか、話さねばおわかりいただけないかと存じますが、うたた寝の、というこの和歌にまつわる話です」
「その歌が？」
と、散歩者はわれ知らず僧のほうに膝を進めた。
「ええ、ご覧なさい。そこらじゅう、巡礼札が貼り散らされておりますでしょう、なかには売薬やなにかの広告に使うのでありましょうものもありますが、それもよくあることで、気にしてはおりません。
また誰がいつの間に貼っておられるのかもわかりませんので。ところが、それ、そこの柱の、その……」
「はあ、あの和歌ですか」
「ご覧になりましたか」
「さっき、あなたが声をおかけなさった時に」
「お目に留まったのでありましょう、それは誰が書いてそこに貼ったのか、わかっております」
「女の方ですね」
「さようで、もっとも歌そのものは古歌のようでして、小野小町の」
「たぶんそのようです」
「詠まれたのはご自分ではありませんが、いや、まったくその小野小町のような美人でありましてな」
「この玉脇……という女性が」
と、口では澄まして言った散歩者だが、胸はざわざわとときめいていた。
「先ほどあなたがお話しなさいました恋人のお姿うんぬんというお説に当てはめてみますと、この歌に込められているのはみだらな心ではのうて、表現こそ違っておりますが、
暗きより暗き道にぞ入りぬべきかすかに照らせ山の端の月
という和歌にもありますように、観世音にあこがれる心を古歌になぞらえたものであったかもしれません。
まことに、ああいう世にも稀な美人ほど、若いうちに仏の道に目覚めた例もたくさんございますから。
それを十把一絡げに、恋歌を書き散らしていった、けしからんことだとするのも人それぞれというもので、お経にも、若有女人設欲求男――観世音菩薩を礼拝すれば、愛する男が欲しいという女人の願いもかなうとありますから、一概に咎め立てるようなことはしませんが、あの歌の思いが、人を一人殺したのでございます」
聞く者は驚愕した。菜の花畑で蛇を見たときよりも。
