海月の散歩
夜の静けさが好きだ。
ぬるい気温を感じながら歩く夜道には誰もいない。
耳を澄ませば鼓膜を圧迫する無音が聞こえ、見上げれば都会の鈍い色の夜空がある。
歩いていると、ふと、自分が止まっている感覚になる。
自分が止まっていて、世界の方が後ろへ流れていく。
夜道を家へ帰っていると、家が自分の居場所というわけではない気がしてくる。
自分の居場所は自分のいる場所で、家は世界にくっついて流れ、ジリジリと近づいてくる背景だ。
家に居て目を瞑っても、ここで目を瞑っても、あるいは海外にいて目を瞑っても、あるいは目を瞑らなくても、自分がいる場所に自分がいるのだと思う。
カーナビの中心に車は居続け、地図の方が動き続ける。そんな感覚だ。
少し家が恋しいと思う。けれども、家にいようと外にいようと、空間に存在する自分は絶対的には変わらない。
もし仮に五感が急に全部消えたら、自分がここに存在するという一次元の事実だけが残るのだろう。
上京して実家が恋しいとき、布団の中で目を瞑って自分は今、あの部屋で目を瞑って寝ようとしているのだと思おうとしたことがある。目を開けると見慣れたあの部屋に居て、隣の部屋では家族が寝ているのだと。
そのとき、一人で眠るなら実家で目を瞑っているのと下宿で目を瞑っているのとは実は変わらないのではと思った。目を開けない限り。
一次元の事実というコトバはそのとき出鱈目に考えついた。
一人で夜道を歩くと、地動説が天動説にひっくり返るのだと思う。
それは孤独の作用なのだろう。
ディカルトは孤独だったのだろう。
時々人とすれ違う。小さい人影がだんだん大きくなり、足音がだんだん小さくなってまた一人に戻る。
街灯の青い光は心を落ち着かせ犯罪を抑止するのだという。
ゆっくりゆっくりと青い光が流れていく。揺れながら。
遠くに見えるビルの航空灯火はやはりゆっくりと赤く明滅し、幾つかの窓からは明かりが漏れている。
ゆっくりとした、停滞した、安らかな寝息のような街が好きだ。
私はいつの間にか孤独にどっぷりと浸かりすぎてしまったのだと思う。
水風呂に長く浸かっていると温かくなってくるように、夜道が心地よく感じられるのだ。
深海を漂う海月はこんな気持ちなのだろう。
夜道は海底。都会の弱々しい星はマリンスノー。ビルは切り立った崖で、ぬるい空気は海水。
静寂が支配する暗く深く冷たい海の底。
海月は一人ゆらゆら漂う。
そんな夜が好きだ。