動画メッセージの謎
拙作『二人目のカノン』のシリーズです。でも、この話だけでも楽しめるようになっているはず……です!!
「おい、小川、これ見ろよ」
ある日の朝、警視庁捜査一課の刑事部屋で、私の先輩である御厨圭介はノートパソコンを見ながら私を呼んだ。
「どうしました?御厨さん」
相変わらず無精髭を生やした御厨さんの側まで行った私――小川沙知は、彼の見ていたノートパソコンを覗き込んだ。
パソコンに映し出されていたのは、有名な動画サイトに投稿されたと思われる動画。どこかの病室らしい場所で、一人の中年男性がベッドから上半身だけ体を起こしている。年齢は五十代くらいだろうか。白髪交じりの黒髪を短く整えていて、目にはあまり生気が無いように見える。
「……この動画をご覧の皆さん、こんにちは。私は、水原辰彦です。私の名前をご存じの方も多いのではないでしょうか」
男性が話し出した。私は、彼の名を聞いて目を見開く。彼――水原辰彦は、約三十年前に三人の命を奪った死刑囚だ。まだ刑は執行されていないようだが。
「私は、三十年前に三人の命を奪った罪で死刑を宣告されました。しかし――私は、無実です」
思ってもみない言葉に、私は驚いた。三十年前というと私の生まれる三年前だが、事件についての報道を見た事がある。御厨さんもまだ年齢が三十代なので、リアルタイムでは知らないと言って良い。確か、彼は逮捕された後素直に自供し、裁判でも控訴しなかったのではないか。
「何故今更無実を主張したのかと思われる方もいらっしゃるでしょう。……私は、がんを患っていて、余命三か月と宣告されました。そこで、思ったのです。最期くらい、本当の私を世間の皆様に知って欲しいと」
画面の中の男は、続けて言った。
「実は、私は真犯人が誰かも知っているのです。私が無実だと証明する術は無いかと思いますが、せめて真犯人の名を明かしたいと思います。……しかし、ただ明かすのでは面白くない。そこで、犯人の名前を暗号でお伝えしようと思います。その暗号が……こちらです」
水原は、側にあったスケッチブックを掲げてカメラに映した。真っ白なスケッチブックには、黒いマジックペンでこう書かれていた。
『CsYZr』
「私の言葉を信じるかどうかは、ご覧になっている皆様にお任せします。それでは皆様、この謎解きをお楽しみ下さい」
水原のその言葉を最後に、動画は途切れた。
「……水原の言っている事は本当なんでしょうか?」
私は、水原の顔を映したまま静止した画面を見ながら呟いた。
「さあな。……でも、本当だとしたら大問題だな。無実の人間の人生を滅茶苦茶にしたんだから」
御厨さんは、溜め息を吐いて椅子の背もたれに身体を預けた。
「……そうですね」
その後、動画がSNSで拡散され、世間は大騒ぎになった。『もしあの死刑囚の言う事が本当なら警察の大失態だな』『あの暗号解くの面白そう』『やべえ、推理小説にしたい』等、色々なコメントが書き込まれた。
動画が投稿されたのは、私達が動画を見た一日前。医療刑務所にノートパソコンやスケッチブック等を持ち込んだらしい。投稿された二日後には、水原のいる病院が何故か特定され、病院には多くのマスコミが駆け付けた。ちなみに、水原はあの動画を投稿した後容体が急変し、今は危篤状態らしい。
動画が投稿された一週間後、警視庁にある会議室には刑事である私と御厨さんの他に、二人の人間がいた。
「あの動画の件なら、僕も知っています。世間で注目されていますし、僕達が呼ばれるのも不思議ではないですね」
そう言ったのは、眼鏡を掛けた優しそうな青年。彼は堀江雅人三十一歳。精神科医だ。
「花音さんは動画を見ましたか?」
御厨さんが、堀江先生の隣に座っている少女に話し掛けた。
「……はい、見ました」
少女は、無表情で頷いた。この黒いロングヘアの少女の名は木下花音。まだあどけなさの残る十二歳のこの少女は、警察が頼りにする捜査協力者の一人である。
捜査協力者という肩書は珍しいが、近年日本警察の検挙率が著しく低下している為、『犯罪捜査協力者法』という法律が施行された。捜査が暗礁に乗り上げた場合、前もって登録された一般市民が捜査協力者として捜査に協力できる制度である。
木下花音さんは、類稀な頭脳でこれまでにも事件解決に貢献してきた。ちなみに、花音さんは定期的に精神科を受診しており、堀江先生は彼女の主治医だ。堀江先生は捜査協力者ではないが、特例で捜査に加わる事が許されている。
「では、三十年前の事件について改めて整理しましょう」
私は、そう言って捜査資料を開いた。
事件が発覚したのは、三十年前の三月某日。その日の朝交番に、一人の男が出頭してきた。その男は白いTシャツに藍色のジーンズを身に着けていたが、交番にいた警官二人は男の姿を見てぎょっとした。彼の白いTシャツが、半分以上赤く染まっていたからだ。男は、開口一番とんでもない事を言った。
「……お巡りさん、俺、人を殺しました」
警官達は男の話を聞き、男を連れてある一軒家を訪れた。閑静な住宅街にあるその家は、赤い屋根に真っ白な壁が特徴で、いかにも富裕層が住んでいそうな広さだったという。
鍵のかかっていないドアから中に入ると、目の前にある廊下は薄暗く、人の気配が感じられなかった。警官達は玄関の近くにあるリビングに入ると、そこに広がる光景を見て驚愕した。
ベージュ色のソファの背もたれに身体を預けるようにして、一人の中年女性が倒れていた。彼女は白い薄手のセーターにくすんだ緑のスカートという服装だったが、彼女の胸には赤いものが広がっており、それが血である事は一目瞭然だった。胸の他にも、腕や顔に傷があるようだ。彼女は目を見開いており、もう息をしていないと分かる。
そして、床には高校生くらいの少年と中学生くらいの少女が倒れていた。二人共、体のあちこちに刺された痕がある。この二人も絶命しているようだ。
その後、パトカーが何台も到着し、辺りは騒然となった。病院に運ばれた三人は、すぐに死亡が確認された。
警察署に連行された男は、水原辰彦と名乗った。調べた所、彼は二十三歳のフリーターと確認された。
死亡したのは、製薬会社に勤める立石誠二の妻・智香子。当時四十一歳の専業主婦。そして、他に亡くなっていたのは彼女の息子である憲一と娘の未来。憲一は高校一年生、未来は中学二年生らしい。
取り調べによると、水原はその日の朝、むしゃくしゃしながら住宅街を歩いていたという。前日にバイト先をクビになったからだ。そして立石家の前を通りがかった時、家から楽しそうな笑い声が聞こえた。その声に無性に腹が立った水原は、鍵のかかっていなかった家に入り込み、次々と三人を刺していった。三人は懸命に逃げたり抵抗しようとしたりしたが、水原は容赦なく三人に刃を突き立てたらしい。ちなみに、家主である誠二は休日出勤をしていた為無事だった。
凶器は立石家の台所にあった包丁。何故か、交番に出頭する途中で川に投げ捨てたらしい。
三人もの人間を殺害した罪は重く、水原は裁判で死刑が宣告された。凶器は見つからなかったが、自供や被害者の服に付着した指紋等の状況証拠から、有罪と判断されたのだ。
「それで、これからどうするんですか?」
私の説明が終わると、堀江先生が聞いてきた。
「世間で注目されている事件なので、再捜査する事になりました。まずは、立石家で唯一生き残った誠二氏に話を聞きに行きたいと思います。彼は、刑務所にいる水原から謝罪の手紙を受け取っていたそうなのですが、もしかしたら手紙に事件の核心に迫るような事が書かれていたかもしれません」
私は、机の上に広がった捜査資料をまとめながら言った。
「花音さん、堀江先生、捜査協力者として事情聴取に同行して頂けますか?」
御厨さんが二人を交互に見ながら言った。
「はい、僕は大丈夫です。……いいかな?木下さん」
「……はい、よろしくお願いします」
堀江先生に聞かれた花音さんは、無表情で頷いた。
約一時間後、私達四人はあるマンションを訪れていた。そのマンションには、現在七十二歳の誠二が住んでいる。
マンションの一室の前でインターホンを鳴らすと、「はい」という女性の声が聞こえる。私が名前や用件を言うと、すぐにドアが開いた。目の前に現れたのは、五十代くらいの女性。黒髪をショートカットにした、綺麗な女性だ。薄いピンク色のワンピースが良く似合っている。彼女は、私が用件を言うとすぐに中に入れてくれた。
リビングに通され灰色のソファに腰掛けると、すぐに誠二氏が入って来た。髪はほとんど白くなっているが、清潔に整えられている。誠二氏は今も現役で仕事をしているが、土曜日の今日は休みらしい。御厨さんはソファから立ち上がり、改めて自己紹介をした。花音さんの紹介をすると、誠二氏は目を丸くした。
「いやあ、捜査協力者がいらっしゃるとは聞いていましたが、こんな可愛らしい女の子とは……」
「四人も押しかけて申し訳ないですが、ご協力お願いします」
御厨さんは、そう言った後ソファに座り直し質問を始めた。
「……確かに彼から手紙を貰いましたが、『大切な人の命を奪って申し訳ない』『一生をかけて償いたい』といったような事が書かれているだけで、事件の細かい流れを窺わせるような内容は無かったですね」
御厨さんから手紙の内容について聞かれた誠二氏は、何かを思い出す様に視線を宙に彷徨わせながら言った。
「お前も手紙読んだよな?特に事件の詳しい事は書いてなかったよな?」
誠二氏が隣に座る女性を見ながら言うと、その女性は頷いて答えた。
「ええ、何も詳しい経緯は書かれていなかったですね」
彼女は、先程玄関でドアを開けてくれた女性だ。誠二氏の後妻で真由美さんというらしい。今は専業主婦だが、以前は看護師をしていたと聞いている。
「……手紙を受け取ったのは一度だけなんですよね?」
私の質問に、誠二氏は頷いた。
「ええ、事件が起こった一か月後くらいに一度だけ。もしかしたら、裁判での情状酌量を狙ったのかもしれませんが」
「……手紙を貰っても、事件での悲しみや怒りはどうしようもないですよね……」
私は、目を伏せて呟いた。
「ええ、本当に……事件の前日まで、普通に智香子達と話をしていたのに……」
「あなた、智香子さん達を大事にしていたものね……。事件の前日だって、料理を手伝って右手に怪我をしたんでしょう?」
真由美さんが口を挟んだ。
「そんな事もあったな」
誠二氏は、苦笑した。
「奥様は昔からご主人とお知り合いだったんですか?」
私が訪ねると、真由美さんは頷いた。
「ええ、この人がまだ二十代の頃、MRとして私の勤務する病院を訪ねたのがきっかけで知り合ったんです」
MRとは、製薬会社に勤務する医薬情報担当者の事で、医師や薬剤師等に薬の有効性等の情報を伝えたりする業種だそうだ。奥さんは続けて言う。
「この人は几帳面な性格で、医師とアポイントメントを取ったら必ず五分前に病院を訪ねてきていましたね」
その後も私達は誠二氏に事件について尋ねたが、何も収穫は無かった。しかし、それは当然の事だとも思えた。事件のあった日、誠二氏は会社で事件の知らせを受け、自宅に駆け付けた時には大勢の警官が捜査していたのだから。
マンションを後にした私達は、とあるオフィスビルに向かった。ビルの中に入り受付で用件を伝えると、会議室のような部屋に通された。しばらく待っていると、ドアがノックされ、一人の男性が入って来た。
「お待たせしました、綿貫です」
そう言ったのは、黒髪を整えた五十代くらいの男性。灰色のスーツを着ている。実は、彼――綿貫健太郎は、水原辰彦の数少ない友人なのだ。このビルには、綿貫さんが勤める文房具メーカーがテナントとして入っている。綿貫さんが席に着いた後、私達は自己紹介した。
「はあ……捜査協力者の制度については知っていましたが、実際お会いするのは初めてです」
綿貫さんは、花音さんを見て驚いた様子だったが、すぐに本題に移った。
「それで、どう言ったお話でしょう?水原について聞きたい事があると伺っていますが」
「綿貫さんは、水原さんの友人だったと聞きました。事件後、水原さんから連絡はありませんでしたか?」
御厨さんの質問に、綿貫さんは眉根を寄せて答えた。
「確かに私は水原の友人だったかもしれませんが、大学の時バイト先でよく話したくらいで、あいつの事はよく知りません。刑務所から手紙が来た事もありません。申し訳ないですが、事件についてお話しできる事は無さそうです」
「そうですか……」
御厨さんは溜息を吐いた。
水原は幼い頃から母親と二人で暮らしていたが、彼が大学に入ってすぐ母親は病で亡くなった。恋人もいないようなので、水原が事件について何か話すとしたら友人しかいないのだが、綿貫さんにも事件について話したりしていなかったとなると、事件の真相を知るのは難しいのではないか。
その後、綿貫さんは大学時代の水原の様子について話してくれたりしたが、事件に関係ありそうな話は聞けなかった。ちなみに、綿貫さんと水原はたまたまバイト先で仲良くなっただけのようで、大学の学部は全く違っていた。綿貫さんは経済学部だったのに対し、水原は工学部で、数学、化学、物理が得意だったらしい。
「お忙しい中、ありがとうございました」
事情聴取が終わり、御厨さんは綿貫さんに礼を言った。
「いえ、付き合いが浅いとはいえ、私は水原の友人ですからね。警察が私に事情を聞くのも当然ですよ」
そう言うと、綿貫さんは宙に視線を向けた。
「……あいつは人付き合いが苦手で、休憩時間には一人でクロスワードパズルの本に熱中しているような奴でした。でも、人の痛みに共感して思いやりのある行動を取れる奴でもあったんです……どうしてあんな事件を起こしてしまったんでしょうね……」
警視庁の会議室に戻ると、私達は再び机に捜査資料を広げた。
「あまり収穫はありませんでしたね……」
私は、自分の手帳を見ながら呟いた。捜査資料も満遍なく読み返したが、事件当日、誠二氏が休日出勤する際遅刻ギリギリだったとか、水原が昔大病を患った事があるとか、事件と関係あるかどうかわからない情報ばかり目につく。
「そうだな……思いつく事はあるが、決め手に欠ける。せめて、あの動画の暗号が解ければな……」
御厨さんが誰と目を合わせる事も無く言った。何か思いついた事があるのか。私にはさっぱり分からないけれど。
「……花音さんは、あの暗号解けました?」
私は、花音さんに問い掛けた。
「いえ、分かりません……でも、あの人なら分かるかもしれない。交代してみます……」
そう言うと、花音さんは虚ろな目になり、次の瞬間には目つきが鋭くなった。そして、机に両肘を突き、左右の指を絡ませると、妖しげに笑った。
「やあ、二人共、久しぶりだね」
「お久しぶりです……秀一郎さん」
私は、彼女――いや、彼に挨拶した。
実は、花音さんは解離性同一性障害を持っている。分かりやすく言うと、多重人格者だ。彼女には、瀬尾秀一郎という六十代の大学教授の人格がある。他に持っている人格は無いようだ。花音さんが事件の謎を解く時は、いつも秀一郎さんの人格になっている。
「事件の資料の内容は頭に入っているが、御厨君と同じで暗号はまだ解けていないな」
秀一郎さんは、真顔で捜査資料を眺めながら言った。
「うーん、アルファベットをひらがなに置き換えるとか……?でも、置き換え方のヒントが何も無いし……」
堀江先生が腕を組んで言った。
「パソコンのキーボードのローマ字入力をかな入力に変える……のでもなさそうですね。意味を成す言葉になりませんし」
私も考え込む。
「英単語の頭文字……のような気もするが、やっぱり分からないな」
御厨さんもお手上げのようだ。
「僕も水原さんと同じで、クロスワードパズルとか暗号とか解くのは好きなんですけど、実際の事件では役に立たないものですね……」
堀江先生がそう言いながら、椅子の背もたれに身体を預けた。
「役に立つと言えば、最近隣県に住んでいる中学生の姪が学習用のパズル本を買って貰ったそうなんです。古文の授業で出て来る言葉を使ったスケルトンとか、英単語を使ったクロスワードパズルとかが載っていて……そうそう、理系のパズルも載ってたんですよ。こんな感じで……」
私は、自分のスマートフォンの画面を三人に見せた。偶々、そのパズルの画面を写真に撮っていたのだ。
何故か、それを見た秀一郎さんが大きく目を見開いた。そして、ゆっくりと口角を上げると言葉を発した。
「……お手柄だ、小川君」
翌日の昼、私と御厨さんは再び誠二氏の住む部屋を訪れた。
「今日はどういったご用でしょうか?」
ソファに座った誠二氏は、落ち着いた声で私達に聞いた。彼は今日、白いセーターに黒いズボンを穿いている。
「単刀直入に伺います。立石さん、三十年前の事件の真犯人は……あなたですね」
私が言うと、誠二氏は驚愕の表情を浮かべた。
「は……?私が犯人だとおっしゃるんですか。確かに水原は動画で自分は犯人ではないと言っていたようですが……どうして私が犯人だという事になるんでしょう?」
リビングにお茶を運んできた真由美夫人も、トレイを持ったまま固まっている。
「あの動画で水原が掲げていた暗号……あれは、あなたの名前を表しているんですよ」
御厨さんが話を引き継ぐ。
「私の名前ですか?」
「ええ、あれは――元素記号を利用した暗号だったんです」
御厨さんは、ポケットからメモ用紙を取り出して、ボールペンで「CsYZr」の文字を書き、一旦誠二氏の方に向けた。
「この『Cs』はセシウム、『Y』はイットリウム、『Zr』はジルコニウム……」
メモ用紙のアルファベットの下に、カタカナが書き加えられていく。
「それぞれの頭文字を並べると、『セイジ』となります」
誠二氏は目を見開いたまま固まったが、すぐに言葉を発した。
「仮にその『セイジ』が私を表していたとしても、本当に私が殺人を犯した証拠にはならないじゃないですか。刑事さんともあろう者が死刑囚の作った暗号を真に受けるなんて……」
「確かに、決定的な証拠はありません。しかし、いくつもの状況証拠が重なったとしたら?あなたは事件の前日に料理を手伝って右手を怪我をしたという話でしたが、本当は犯行時に怪我をしたのではないですか。素手で人を刺した場合、刺した人間が手を怪我するというのはよくある話です」
御厨さんは、昨日の事情聴取の際、事件の前日に右手を怪我するというのはタイミングが良すぎると思っていたらしい。
「それに、捜査資料を読みましたが、あなた事件当日遅刻ギリギリで出社したそうですね。普段は早めに出社するのに。もしかしたら、朝犯行時に服が返り血で汚れて着替えていたのではないですか?他にも、状況証拠が出てくるかもしれませんね」
水原が金銭と引き換えに罪を被る事にしたのなら、金銭の受け渡しがあった痕跡があるかもしれない。銀行に記録が残っていなくても、三十年前の通帳を水原が持っていたとしたら……まあ、もし大金を貰えたとしても、死刑になるかもしれないのに罪を被る可能性は低いが。
「いくつか状況証拠が出てくれば、裁判所も逮捕状を出すかもしれませんね」
御厨さんがそう言うと、部屋の中を重苦しい沈黙が包んだ。
「……私のせいなの……?」
沈黙を破ったのは、真由美夫人だった。
「私が、結婚したいって言ったから、智香子さんを殺しちゃったの……?」
真由美夫人は、今にも泣きそうな表情をしている。
「違う、お前のせいじゃない!」
誠二氏が勢い良く立ち上がった。
「あの朝は、智香子がいつも以上に不機嫌だったんだ。私が休日出勤するのが気に入らないらしくて、ネチネチ嫌味を言ってきて……我慢の限界だったんだ、それで……」
誠二氏は、ハッとなって口を噤んだ。取り繕おうとしても、もう遅い。再び部屋に沈黙が流れた。
翌日の夕方、警視庁の会議室にはまた私達四人が集まっていた。外で雨の降る音が聞こえている。
「誠二氏が自供したようだね」
秀一郎さんが指を絡ませながら言った。
「はい、お陰様で解決しそうです。秀一郎さん、今回もありがとうございました」
私は、微笑んで礼を言った。秀一郎さんは、一昨日私が示した化学用語のクロスワードパズルを見て、暗号の答えに気付いたらしい。
話によると、誠二氏は結婚当初から妻である智香子さんに暴言を吐かれたり暴力を振るわれていたらしい。智香子さんの父親は大学病院の院長で、誠二氏の勤める製薬会社とも取引がある為、誠二氏は智香子さんに逆らえなかったらしい。
結婚から何年経っても、子供が出来ても千賀子さんの暴言暴力は変わらなかった。そして、積もり積もったものが事件当日に爆発したというわけだ。犯行はリビングで突発的に行われたが、リビングの物音に気付いて二階から降りて来た子供達も犠牲になった。
「……でも、どうして水原は罪を被ったんでしょうか」
私は、お茶を飲みながら呟いた。
「ああ、その経緯も誠二氏が供述していたらしい」
そう言って、御厨さんが話してくれた。
水原は、高校生の頃に大病を患い、真由美さんの勤める病院に入院していた事があったらしい。そこで水原は当時三十代だった真由美さんに惚れてしまった。しかし、真由美さんは妻帯者である誠二氏に惚れていて、水原はその事を知り、自分の想いを伝える事はなかった。真由美さんの同僚の看護師達が、真由美さんと誠二氏が不倫関係にあるのではないかと噂をしているのをこっそり聞いてしまったのだ。それからしばらくして水原の病は完治し、退院した水原は真由美さんと接する事も無くなった。
そして数年後、事件が起こったあの日、水原が住宅街を歩いていると、見覚えのある男性を見かけた。MRの立石誠二だ。入院していた頃、病院の中庭で真由美さんと楽しそうに話しているのを遠くから見た事がある。
川の側をキョロキョロしながら歩いていた誠二氏は、橋の上から何かを投げ捨てた。そして、足早に歩いてきた方に戻っていった。水原の存在には気付いていないらしい。
誠二氏が去った後、水原は近くの土手から川に下り、水の中を浚った。誠二氏が何を捨てたのか気になったからだ。しばらく探していると、白いタオルが目に付いた。タオルを拾って広げると、水原は目を見開いた。血の付いた包丁が現れたのだ。
何があったのか気になった水原は、急いで誠二氏の後を追った。もう誠二氏の姿は見えなかったが、比較的広い道路を通ったのではないかと当たりを付けて走っていくと、遠くに誠二氏の背中が見えた。
しばらく誠二氏の跡をつけると、彼はとある一軒家に入っていった。良くない事だとは思ったが、水原は誠二氏が入った家の庭に侵入し、一階の窓に掛かっているカーテンの隙間からリビングを覗き込んだ。
リビングには、複数の人間が倒れており、誠二氏が自分の物らしい服をゴミ袋に捨てる様子が見て取れた。その服には、血が付いているようだ。
水原は考えた。この様子を見ると、恐らく誠二氏が自分の家族を殺害したのだろう。もし誠二氏が殺人犯として逮捕されたら、真由美さんはどう思うだろう。とんでもないショックを受けるに違いない。どうせ仕事をすぐクビになるような自分では真由美さんを幸せにできない。だったら、誠二氏の犯行を隠し、真由美さんが不倫相手から正妻の立場になれるようにした方が良いのではないか。
「誰だ!」
庭に人の気配を感じた誠二氏が、窓を開ける。誠二氏と目が合った水原は、笑みを浮かべて言った。
「……リビングの様子、見えてしまいました。あなたを警察に突き出す気はありません。……僕と取引しませんか?」
そして、水原は誠二氏の犯行を黙っている代わりに、金銭を要求した。
「そういう経緯だったんですね……でも、水原はどうして今になって真犯人を伝えようとしたんでしょう。暗号という形ではありましたけど……」
私は、浮かんだ疑問をそのまま口にした。すると、秀一郎さんが目を伏せながら言った。
「……人は、誰しも自分の事を認めて欲しいと思うものだ。余命を宣告されて、彼は自分が殺人犯ではない、極悪人ではないと認めて欲しかったのかもしれない」
部屋の中に沈黙が流れた。私は、危篤状態で未だ意識が戻らない水原の姿を思い浮かべる。あの動画は、認めてくれという彼の悲痛な思いを込めたメッセージだったのかもしれない。
窓から外を見ると、雨は止み、灰色の雲の間から一条の光が差し込んでいた。
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