第6話「キロメラン」
フェリーは島の東側まで行って、海岸から突き出た長くて広い、立派な突堤に右舷を接舷させて停泊した。船体に格納されていた狭いタラップを降りながら、気持ちの良い風とそれが運ぶ潮の香りを味わった。 僕は大きめのリュックひとつだけの荷物だったが、雲妻とシングルマザーは共にキャリーバッグだった。雲妻はなんて事ないだろうが、彼よりも一回り大きいバッグと子供の手を引いていた彼女に、このタラップは辛いだろうと気づいて振り返ったのだが、すでに他の乗客が手を貸していた。降りた後、彼女と子供がお礼を言っている姿を見て、しまったな、と後悔した。またその相手である色黒の中年男が嫌らしそうで、気安く彼女の肩をポンポンと軽く叩いている様子が不快だった。単に僕の嫉妬と偏見だが。
「ツアーの皆さんはこちらに集まってください」
先に下りていた小恋ちゃんが、手をあげて僕たちを呼びよせた。他の30名弱の乗客は、慣れた様子で待機していた車に次々乗車し、あっという間に去って行ってしまった。あとには、おそらく僕たちが乗るための白いバンが1台残っていた。
「すみません、少々お待ちくださいね。ちょっと遅れているようです」
あれ? じゃああの車は違うのかな?
数分後、黒い国産ハイブリッドの普通乗用車が1台やってきたが、運転手以外に5人と荷物が載せられるとは思えない。4つのドアがすべて開いて、4人の男が降車した。皆同じ青い作業服?を着て、黒い編上靴を履いていた。消防団の人かな?と思ったが、どこか違う。その違和感は服装ではなく、褐色と言える肌の色、2名が金髪、他2名が銀髪、そしてそれぞれ青、緑、うすい青、うすい茶という角膜の色のせいだ。まあ外人なのだろうが、細くて背が低め…皆僕より10センチは低い…つまり165センチあるかないかだ。若々しく、欧米らしい顔つきの美形揃いなのだが、子供と言えるほど肌に張りがあるわけではない。皆僕や雲妻よりいくつか若い年頃…25歳くらいか?の顔つきに見える。 背が低くて細い外国人なんて腐るほど居るだろうが、4人共というのは…なんか変だ、と思った。
「お待たせしました。あやまります」
車を運転していた最も背が高くて(それでも170ないだろう)青い目の、とりわけ美形の男が言った。体つきが細く、女の人のようなセミロングの銀髪なので中性的だが、声はしっかり男だ。そして日本語がとても上手だ。
「いえ、早くに到着しましたので」と、小恋ちゃんが笑顔で答えた。
隣に立った男が中性的な男に何か言った。日本語ではない。英語でもフランス語でもなさそう…不思議な発音が混ざっていた。
「こちらで全員ですか? 2人足りないようですが」
中性は隣から手渡された、クリップボードに挟んだ書類を確認している。僕らの情報が書かれているのだろうか。
「キャンセルが出ました」
「聞いておりませんね」
「乗船中にキャンセルになったのです。詳しくは船内で聞き取りください」
「…では、あなたも」
小恋ちゃんが頷いた。どこか緊張感があるな、まるで不法入国を取り締まっているような感じだった。
「今日彼女は? 来られると聞いていたのですが」
「急務が生じました」
「最近なにか…やけにお忙しくしていらっしゃるようですね。何かあったのでしょうか?」
「そちらには無関係の事です」
そう言って中性的な男が顎をあげると、小恋ちゃんはフェリーの方に振り返った。
「あの…」と、僕がどうすればいいのか迷いの表情をわざとらしく向けると、彼女は明るく答えてくれた。
「響輝さん、皆さんも、お荷物をあの白い車に積んでしばらく待っててください。どうかご心配なく、間もなくホテルにお連れしますので、へえ」
小恋ちゃんと中性的がタラップを上がって行った。残った3人の外国人たちが、僕たちを監視しているような様子で見ている。彼らが海外からの研究員とかってやつかな。
「どこの国の人たちですかねぇ」
今度はきちんとシングルマザーのキャリーバッグを、荷台に載せてあげた。
「さあ、わかりません」と、彼女はつれない様子で言った。 あれ?さっき気づいてあげられなかった事が祟ったかな。
「それはズバリ、異世界人でしょう」
〇オ君みたいな口調にイラっときて、僕は雲妻につれない態度(=無視)で返した。
15分後くらいに小恋ちゃんが戻ってきて、外国人たちを置いたまま車はホテルに向かった。チェックイン後まもなく日が暮れたので、この日の予定は夕食だけだった。ホテルに到着するまでのおよそ30分間の車から見た景色と、ホテルの内装と設備、そしてホテルに隣接しているレストランと料理だけで、あのチラシに掲載されていた内容の大部分を消化してしまった。
それでももう十分元は取れた、と僕は満足していた。フェリーに乗っている間も楽しかったし、このツアー内だけの仲かも知れないが、美女二人とおかしな奴だが気の置けない同年代の男と知り合いになれた。異世界なんて言うほどの景色はまだお目にかかっていないが、まあ、あの霧や背の低い外国人たちには、少し不思議な気分を味合わせてもらったかな。
そして何と言っても最高だったのは、さっき食した夕食の内容だった。牛肉のステーキとラムチョップは驚くほどジューシーで、かつあれほど食べたのに少しも胃にもたれていない。 生野菜は瑞々しくて歯ごたえよく、中でも山菜のサラダは何かよくわからないものが多く混じっていたけれど、生なのに全然えぐみがなかった。そして海の幸!チラシにも載っていた大皿いっぱいの白身の刺身は、最初は弾力があるのに少し嚙む力を入れるとすっと歯が通って、上品な香りと甘みが口の中いっぱいに広がる、あまりに美味なものだった。様々な海藻が細かく入ったスープも磯の香りが適度にあって、食道と胃にミネラルが豊富だと直に伝えてくれているように染み入った。ヅケのお寿司や岩のり、デザートのパッションフルーツも絶品だった。どれもこれもこれまでの生涯で最高と言えるほどのもので、おふくろの味なんてものは、手も足も出ない有様だった。(母よ、すみません)
美味しい料理は人の心をときほぐした。船の上ではややそっけなく感じていた小恋ちゃんは、レストランに同席してくれた上に楽しそうに、誇らしそうに料理を紹介してくれて、場を盛り上げてくれた。隣のテーブル席に座ったシングルマザーは、ようやく幸塚綾里、珠という名前を教えてくれた。珠ちゃんは5歳だ。母親の隣で一度もぐずる事なく、黙々と食べ続ける姿がかわいらしかった。綾里さんの話では、たくさん食べるのはめずらしいらしく、彼女はとても嬉しそうだった。夫の話は一切出なかったし、当然僕達も(雲妻でさえ)口にしなかった。雲妻は食べて話して、口が休まる間が2秒となかった。内容は割愛する、時間の無駄だ。
僕は特に気に入った白身の刺身に何度も箸を伸ばした。相席した雲妻も同じで、かなり早い段階で大皿は空になってしまった。追加料金を支払ってでもおかわりが欲しい気持ちになったが、初日から飛ばすのは控えておこうと思い留まった。
「このお刺身、なんていう魚ですか?」と小恋ちゃんに問うたが、答えたのはやけに元気で、腰がまっすぐな店員のお婆さんだった。
「キロメだに」
「キロメ?」
「黄色い目しとるに、キロメっていうだに」
…静岡弁かな?
「知らないなぁ」 スマホがあればすぐ調べたろうな。「目が黄色いんですか?」
「ちょっと黄色みがかっている程度ですよ。 島の魚で、本土には流通しておりません」と、小恋ちゃんは弁解しているみたいだった。
「貴重な魚だに。島のもんでも滅多に食えね」
「そうですか、それは実にありがたい。おかわりください」
雲妻が要らない口を挟んだ。
「もうねえ、贅沢言うな」
「ちょっと! なんてこと言うの! もういいからあっち行ってて!」
小恋ちゃんは顔を真っ赤にしていた。親しい間柄のようだ。
「すみません! 失礼なことを」
「いえいえ、全然気にしておりませんよ~」
本当に全く気にしていないだろうな。なるほど、こういう所が観光客慣れしていない、という部分か。でも悪気はあまり感じない。
レストランは新しくてきれいで、チラシの画像にあったように内装や食器は凝っていた。しかし従業員はエプロンを付けた老夫婦二人だけで、本来なら20ほどテーブルが置いてあるお店を賄うのは無理だろう。今日のところは客が僕たち5人だけだったし、出される料理は前以て決まっていたから問題なかったのだろう。そう言えば、ホテルの従業員(それともオーナーかな?)も老齢の男ひとりしか見ていない。この島もやはり少子高齢化の問題を抱えているのだろう。でも、開発が進んでいると言っていたし…。
飲酒もほどほどにして、まずはゆっくり疲れを取る事として解散した。明日は小恋ちゃんが島を色々案内してくれる事になっている。シャワーを浴びて家から持ってきたスウェットに着替え、早めにベッドに入ったのだが、どうにも眼が冴えていた。船旅の疲れなど微塵も感じていない。むしろ乗船する前の方が、ずっと疲れていただろう。
僕は窓を開けて夜景を見た。ホテルは3階建てなので、最上階にあるこの部屋からでも、そう遠くまでの景色を望めることはなかったが、海岸が見えた。景色のずっと奥まで続いていて、すっかり夜になっているが、堤防や砂浜が点在する照明に照らされている。フェリーが停泊した海岸ではないようだ…車で30分ほどかかったし、途中トンネルも通ったから、こっちはもう島の西側なのかも知れない。あの、没になったチラシの表面にあった海岸だろうか。あの円柱は…
それにしても眠気が来ない。あの料理のせいだろうか、材料の中にちょっと興奮するような、滋養強壮の成分なんかが含まれていたのだろうか。他の人たち…小恋ちゃんはホテルに宿泊していないが、綾里さんはどうしているだろう。……いかん、何を浮かれているんだ。僕はこんなに嫌らしい男だったか? 欲求不満に気づけない程、仕事に参っていたのだろうか。
ノックの音が鳴った。まさか…いや、どうせ雲妻でした、というオチに決まっている。「残念でした」と言われて、「なぜわかる!」なんて突っ込む羽目になるのだ。いくらまだ元気と言っても、今日はこれ以上あいつに付き合うのはごめんだ。
「はい、どなたですか?」 ドアに向かって鬱陶しそうに言った。
「すみません、幸塚です」
なんと! と声は出さずセーフ。
「は、はい!」
ドアを開けると、綾里さんが僕の部屋をのぞき込むように見た。
「どうしたんですか?」思わず照れ笑いしてしまった。
「あの、もしかして、うちの子がこちらに来ていませんか」
「え? 来てませんが」
「え、どうしよう」
「いないんですか?」
「私がお風呂に入っている間に、部屋を出て行ってしまったようで」
彼女は水色のパジャマの上に紺のコートを羽織っている。化粧を落としていて幾分か幼い顔になっていたが、濡れたままの髪がその分の色気を補っていた。いや、それどころじゃない。
「そんなことする子じゃないのに。ああ、どうしよう~」と泣きそうな声をあげて、彼女は急いで階段を下りて行った。僕は部屋を出ると、ひとつ挟んで次の部屋のドアをノックした。
「雲妻さん、起きてます?」
雲妻はすぐにドアを開けた。
「どうされました?」
「子供が、珠ちゃんが部屋から出て行ってしまったようで」
「それは大変です!」雲妻はそのまま部屋を出た。まだ着替えてもいなかったのか…。
僕と雲妻は手分けして3階と2階をざっと調べたが、隠れるようなところはない。ノブを回してみたドアには全て鍵がかかっていた。おそらく僕たち以外に宿泊客はおらず、全てに鍵がかかっていただろう。1階ロビーに行くと、綾里さんがあちこち見回っているが、まだ見つかっていないようだった。
雲妻がフロントの呼び鈴を鳴らすが、誰も出てこない。
「電話もないし、どうしましょうか」と雲妻が顎をつまみながら思案した。
玄関ドアに鍵がかかっていない事を確認した僕が、「もしかしたら外に」と言うと、綾里さんと雲妻が足早にやって来た。僕は追い立てられたように一緒に外に出た。
レストランの灯りはすでに消えていて、他に民家らしき建物は周囲にない。40台分くらいの駐車スペースがあるだけだ。道路は二車線だが島にしては広く、街灯が随所にあって明るいが、人気がない故に危険とも考えられる。道路に向かって駆け出しそうになった綾里さんを、雲妻が両手を広げて制止した。
「闇雲はいけません。慎重に考えて手分けしましょう。私は役所の方へ参ります」
「役所ですか?」と僕が問うた。
「チェックインの時にフロントで島内の地図を見せて頂きました。 車で前を通った事を覚えております。そこまで行けば助けをお願いできる人がいる、またきっと電話もあるでしょう。走れば15分程かと思われます」
「なるほど」
「お母さんはホテルに待機していてください。お気持ちはわかりますが、まだ建物内にいる可能性があるし、もしもお子さんが戻って来た場合、誰かいてあげなくてはなりません」
「でも…」
綾里さんは涙を流し、明らかに動揺していた。この状態で夜道を行かせるのは確かに危険だ。
「あの子は、そんなに遠くに行ける体じゃないんです。きっと近くで、倒れてしまっているかも…」
「僕が周辺を探しますから」
綾里さんを安心させるため、彼女の両肩を優しく掴んだ。本当です。決して下船時に荷物を持ってあげなかったミスを、挽回しようとしたわけではありません。
「すみません。どうか、お願い…します」
すごく震えている。かわいそうに。
雲妻が走って道路に出て行き、綾里さんがよろよろとホテル内に戻って行った。どこを探せばいいだろうか、心臓の動きが早まっているのを感じた。雲妻が向かった反対方向の道を行ってみようか。しかし坂道だし、しばらくは何もなさそうだ。もしも外に出ているとして、子供と言えども、なんのあてもなく行くだろうか。
駐車場を見回ってみた。軽トラックが一台のみ駐まっていた。僕たちが乗って来たバンは、小恋ちゃんが乗って帰ったのだろう。念のため軽トラックに近寄ってみると、その奥に暗くて見えていなかった道がある事に気づいた。きちんと舗装されていて、車一台分の道幅がある下り坂の道路だ。その先はうっすら明るい。灯りがあるのだ。そうか、海岸へ繋がる道だ、きっとあの子も窓から見たのだろう。
僕は力一杯走った。体が軽やかで、かつエネルギーに満ち溢れているように感じた。心臓が大排気量のエンジンのように、効率よく稼働しているようだった。全速力で走るなんて、たぶん5年ぶりくらいだったと思うが、少しも息が切れなかった。
堤防の上に軽く飛び乗った。1メートル半くらいあるぞ。こんな真似できたっけ? 砂浜を一望すると、ちょうど照明に照らされているところを歩いている珠ちゃんの姿をすぐに見つけたのだが、それよりも一瞬早く見つけたものはあの…大きな円柱だった。珠ちゃんはその円柱に向かっているようだ。元気な様子に僕はほっと胸をなでおろし、速度を緩めて堤防の上を進み、階段を使って干潮で広がっていた砂浜に下りた。砂は柔らかく、吸いつくように足にまとわりついたが、スニーカー越しにむしろ心地よく感じていた。
「珠ちゃーん、おーい」と呼びながら円柱に近づいた。珠ちゃんは片手でそっと一度円柱に触れて、それからお尻を砂につけて座りこんだ。円柱と向かい合っているみたいだった。その時は円柱の顔がどこにあるのか分からなかったが…いや、今も知らないけれど。
円柱は根元が幾分か砂に埋まっているようなのに、それでも高さが3メートル近くある大きなものだった。また他にも少し小さめ、1メートルくらいの円柱が周囲に乱雑に立っている。横倒しになった30センチくらいの小さなものも何本かあった。遠くから見た時はテトラポット…ええと、消波ブロック?的なものが埋まっているのかと思ったのだが、巨大すぎるし形も違う。砂浜にぽつんと置かれているのもおかしい。まったく違うものだと確信したのは、それに触れて、材質がコンクリートではないと気づいた時だ。白い表面は大理石のように滑らかで、おそろしく硬そうだ。真後ろに立っている、球場にあるような大きなLEDの照明塔の光を反射して輝いているが、それとは別に細かい光の線が何十本、全体だとおそらく何百本も表面を走っている。微妙な振動が、触れた手の平から伝わっていた。なにか、別次元の生物のような感じもしたし、スーパーコンピューターに触れているような気分にもなった。小恋ちゃんが言っていた事を思い出した。僕が言ったモノリスという答えが、いい線行ってると…。
はやく珠ちゃんが無事だと知らせなくちゃ、と我に返るのに5分ほどかかってしまっていた。
「珠ちゃん、早く帰ろう。お母さんがすごく心配しているよ」
珠ちゃんは口は半開き、目は本開きでじっと円柱を見つめ続けている。涎がだらーっと出ている。かわいいんだけど、ちょっとアホの子なのかな、と失礼な事を思った。
ハンカチかティッシュを持っていたかな、と思ってスウェットを探ったが、持っていなかった。仕方ないので袖口を犠牲にして口を拭いてやっていると、何を言ったかわからない大声が背後から聞こえて、僕はびっくりした。振り返ると、海からウェットスーツを着た子供が出てきていて、僕に向かって何やら叫び続けている。パーとか、クワカッとか、ナキーバとか、聞いたことがない言語を言いながら近づいてくるが、5~6メートル程空けた位置で止まると、僕の動きを制止するように何かを持っている手をあげて、警戒しているようなそぶりを見せた。
「あの、どうしたの? 何かあったの?」
その後また幾つかわからない言葉を大きな声で言ったが、それから少しの間考え込んで、子供は日本語を話した。
「あなたは誰ですか! なぜここにいるのですか!」
やはり女の子の声だな。頭をすっぽり包み込むフードを被っているからよくわからないが、黄緑色の目だから、あの外国人と同じかな? ウェットスーツのサイズが子供用じゃないようで、お腹の部分がかなりだぶついている。あれじゃあ泳ぎにくいだろう…ってか、それより気になるのはこの子、大きな魚を右手に、身長を超えた長さの銛を左手に持っている。まさかこの夜に、海で魚を獲っていたのか?
「僕は旅行者です。この子が迷子になったので探しに来ただけです」
「触れないでください!」
「え?」
「早く離れて!」
振り上げた銛にたじろいだ僕は後ずさりし、砂に足を取られて後ろにこけそうになった。その時、思わず円柱に手を付けて体を支えてしまったのだが、まさかそれで彼女が激怒し、銛を投げる…のではなくて、魚を投げつけてくるとは思わなかった。
大きな(60センチ以上はあったかな)魚が僕の顔面に当たった。 鼻頭に当たったのでかなり痛く、僕は「いたー!」と叫び声をあげ、片方の鼻孔から少しだけ血を流した。
「触れるなと警告したはずです!」
「こけそうになったから、ちょっと触っただけだ!」
「それでも許される事ではありません!」
くそ、いくら女の子だからって、暴力を振るわれてこのまま引き下がるわけにはいかない。しっかりと説教してやる。
「魚を人に向けて投げるなんて、どういう躾をされたんだ! 食べ物だろう!」
「こっちを投げると大ケガをさせると思ったから、したか…仕方なくお魚を投げたんですよ。仕方ないんです!」
「何も投げなきゃいいじゃん」
「じゃんって何ですか!」
「そこはスルーしていいんだよ。暴力をふるうなと言ってるんだ」
「お、お前たちが何を言うか、暴力を否定できる歴史を持っていると言えるか!」
「なんだよそれ、そういうのはいいんだよ。思春期中学生の御託には付き合えません」
「中学生ではありません。17歳です。JKです。高校は卒業しません。ごたくとは何ですか?」
「え?もう…何言ってんの? わかったよ。もういいから、帰るから」
僕は珠ちゃんの手を引いた。でもこの子、なかなか言う事聞いてくれない子なんだ。
「珠ちゃん、早く帰ろう。怖いお姉ちゃんがいるからね。不気味だね~、変な顔してるね~」
「変な顔とは何ですか! 私は美人ではないですが、あなたにそんな事を言われる筋道はありません」
彼女はフードを脱いだ。波打ったロングのブロンドが、胸の前まで垂れた。
いや、めちゃめちゃ美少女だけど…。どんな眼孔をしてるのかわからないくらい大きな目が、光を受けて黄緑色に輝いている。まっすぐな鼻筋と少し大きめの口、全て左右対称に整っているように見えた。小麦色の肌と真っ白い歯は夕方に会ったあの外国人たちと同じ人種のようで、小柄な体も一緒だ。女の子だからか、いっそう小さい。(150センチないんじゃないか) 僕は少し見惚れてしまった。
「あなたもその子供も、動いてはいけません!」
「いや、帰るから」
「いけません!」
「帰るって」
「いけません! かなりいけません!」
何なのこの子…堂々巡りだ。
「そして、その魚をこちらに返してください」
僕は足元にあった魚を拾い上げた。これって…魚は大鯖のように見えたが、ひと回り大きいし、よく見ると違う。マグロでもないし…身は太く、銀色をベースに、少し黄色と緑色のグラデーションがかった色がついた鱗、ヒレや尾は大きくとんがっていて、背びれは前後2つに分かれていて、なんか凶悪な形だが、袖越しにさわってみると柔らかかった。目はわりと控えめな大きさなのだが、黒い角膜を縁取る虹彩が…薄黄色だ。もしかして、これがキロメなのか…涎が溢れ出そうになった。
「返してください!」
僕は返答せず、しばらく考え込んだ。
「返してください!」と、彼女は繰り返した。…なんとか道理をひっくり返せないか。
「…お魚を投げるような子に、返すわけにはいかないな」
「ええ?」
「投げつけておいて返してほしいだなんて、そんな…ブーメランじゃないんだから」
「何を言っているんです! それは、私がマエマエ様のために苦労して獲ったものです」
「マエマエ?」
「返してください!」
「嫌です」
「返してください!」
「嫌です」
堂々巡りだ。そんなことしている場合じゃなかったのだが…。
次話(第7話「異世界マジカイ」)は2月26日掲載予定です。