第5話「ヒロイン制限」
小恋ちゃんとの会話は晴天を喜ぶだけのもので終わってしまい、彼女は到着予定の2時間前、つまり午後4時にツアー客は5デッキにある1等座席エリアに集合して欲しい、との通達を終えて去って行ってしまった。他の客にも伝えなきゃいけないだろうし、仕方がない。
雲妻のからかい半分、率直な嫉妬半分の言葉を浴びせられながら、なぜか外国人たちが配膳していたレストランでパスタを食べた後、個室に逃げることに成功した。雲妻は中まで入ってきそうな勢いだったが、船は慣れていないので4時まで眠りたい、という弁明をおとなしく聞き入れてくれた。 実際ベッドで横になったのだが、ほんの40分ほどで起きてしまった。興奮しているのだろうか? 雲妻が言ったように、僕はこの旅行をかなり楽しみにしているようだ。
部屋を出て、船内を慎重に(できる事なら雲妻に見つからないように)回った。それにしても乗客が少ない。6名のツアー客、他に船員や乗務員等を除くと、およそ30人ほどしかいないんじゃないか? 豪華客船とまではいかないが、そこそこ大きいフェリーなのに。車両デッキは一般乗客は立入禁止とされていたが、おそらく100台くらい乗せられる広さがあるだろう。しかし、ドライバーらしき人の姿はどこにも見当たらない。これで直行便だなんて、燃料代にもならないだろう。
ソファ席が並んだ座席エリアにいる数名の客の中に、少しくすんだピンク色と、黒髪に青色のメッシュが入った、ともにボブカットの女の子二人組がいた。雲妻に声をかけられて、明らかな忌避を示した子達だ。専門学校を卒業したばかりという事は、二十歳そこそこか。二人ともずっとスマホを横に持って操作している。ソシャゲでもしているのかな。
異世界の旅…あの娘たちやあのシングルマザーも、オタク趣味があるのだろうか。いや、あの年代なら多少のオタ要素を持っているのは当然の事か。いまやオタク趣味は共有するものになっていて、社交ツールの主要なひとつと言っても過言ではないだろう。むしろ今時「アニメとか漫画とかダサッ、二次元には全く興味ない、ゲームなんかよりフットサルやバスケする方が楽しい」なんていう奴は却って白眼視されそうだ。今の子たちはオタク趣味もスポーツも分け隔てなく全部を、しかも皆と一緒に楽しめるのだ。僕が学生だった頃からそういう傾向はあったと思うが、自身はどうもSNSを介した広い交流にさほど興味を持てず、オタク趣味はよほど気を許した友人間、もしくはひとりで楽しむものとしていた。ゲームも自宅でソロプレイの方が楽しんでいたと思う。古い気質、陰気なタイプのオタクだったのだろう(雲妻はまた別の、さらに古くて、かなり痛いタイプかと思える)。 かといって、別にぼっちを好むわけではない。学生時代でも職場でも決して孤立していたわけじゃなく、周囲にうまく合わせていたはず…なのに。
ああ、ダメだ、なぜこんな所まできてこうなる。切り替えよう。この旅行ではひとり心を癒そうと思っていたけれど、期せずして交流を持つことになった。 かわいい娘と変な奴。二人とも知り合ったばかりだが、いい人達だと思う。ある程度気を許して、長年封印していたオタク趣味を解禁するのも悪くない。僕の中にもキャラクターがいるとしたら…どんな奴だろう。
じっと見ていたわけではないのだが、ピンクと青メッシュが僕の方をちらりと見て、なにかこそこそ話している。改めて振り向いた青メッシュが、睨むような目つきを見せた。自意識過剰め、君らはタイプじゃないっての。僕はもう3時半なので早めに集合場所に来ているだけだ。おそらく小恋ちゃんも早めに来るだろうから、4時までに少し話ができるかと思ったのだ。
立ち去るのは負けた気がする。そっぽを向いて、スマホをポケットから取り出した。念のためメールやLINEを確認したが、特に返信を要するものはなかったので、実家の両親に電話をかけた。まだ転勤前に旅行に行くことを伝えていなかったし、島に到着してからだと、スマホが繋がらなくなるからだ。
二朱島には午後5時40分に到着した。予定より20分早く、日はまだ沈んでいない。途中で少しの間停船していたのに、乗客や貨物が少なかったから速度を出せたのだろうか、と思った。
1時間ほど前に船は深い霧の中に入り、窓の外は一面灰白色に包まれた。小恋ちゃんが「しばらくの間濃霧の中に入りますが、どうかご安心ください。航路は確立されております」と声をあげた。周囲を見て、確かに僕を含めた4名のツアー客以外、動揺している様子の人はいなかった。他の乗客は島の住民か、何度も訪れた経験がある人達なのだろう。
4名…そう、ツアー客は濃霧に入る前に2名減ったのだ。午後4時になって(結局彼女は2分前に来たので、少しの会話をすることもできなかった)小恋ちゃんがツアー客にこの後間もなくスマホをはじめ、携帯端末は全て使用できなくなることを伝えた。
もちろん、これを知らされるのは初めてではない。ツアー申込時に説明をきちんと受けている。島には大手キャリアの通信基地局がなく、電波が届かない状況にある事、そしてさらに二朱島の写真、動画は全面撮影禁止とされている事だ。その理由としては、島内には海外からの開発協力団体や研究所の施設がいくつかあり、それらに関するものは人物、建物外観も含めて全て撮影禁止とされている事、そして小恋ちゃんが所属している二朱島観光事務局が、異世界の旅という商品価値を守るため、フレームで区切られたメディアでのリリースを極力避けようとしている事が主要なもの、と説明された。もちろん島に本土との通信手段がまったくないわけではなく、独自の通信設備によっていくつかある公共施設の固定電話が使用でき、またその施設内にあるPCには(障害が生じる時がわりとあるらしいが)インターネットが繋がるし、誰でも使用できるという事も聞いている。
僕は多少躊躇ったが、たかが3日間ネットに繋がることができなくなるくらい、どうって事ないと判断した。そしてスマホがない数日間を送るというのも、それだけで現実を離れた解放感を味わえる気がしたのだ。
今更ながら不満の声を上げたのが、例の二人組の女の子達だった。「信じられない」「意味わかんない」「それじゃあ価値なくない?」ないないないないと捲し立て、「お申込み前にきちんと説明申し上げたはずです」という小恋ちゃんの真っ当な申し開きに、まるで聞く耳をもたない。暗唱番号や指紋認証によるロックをかけて、電源を切ったスマホを預けるか、離島時にチェックを受けるか選択する事を要求され、僕とシングルマザー(子供は所持していない)はおとなしく預けた。あとで他の写真や動画も合わせてチェックされる方がずっと嫌だ。しかし、ピンクとメッシュの不審がる態度も多少理解できる。確かに実際にスマホを手放すとどうにも…服や財布をはぎ取られるよりも心細くなった気がする。通信できなくなるのは仕方ないとしても、写真や動画を撮るなというのは、SNS隆盛の価値感から言って過剰な要求とも思える。当然他にデジカメやビデオカメラ等撮影機材の島への持ち込みも禁じられ、所持している場合は今預けることを加えて要求された。
いつまでも拒否し続ける二人を、小恋ちゃんは「仕方がありません。ではこちらへどうぞ」と言って連れて行った。それから間もなくフェリーは停船し、はじめから準備されていたような早さで、小型の高速船が右舷側にやって来た。
一人で戻って来た小恋ちゃんが、「もしも他にキャンセルをご希望の方がいらっしゃるなら、今すぐお求めください。もちろん代金も全額返金させて頂きます。以降のキャンセルは不可となりますので」と笑顔で言った。その笑顔の裏に少し…威圧を感じた。高速船が現れた時間を考えると、彼女が二人を連れて行った後、交渉の余地なしで即キャンセルが決定したかと思われる。 ここまで来て、そう簡単にキャンセルするだろうか? あの後、有無を言わせず下船させられた二人の姿を想像した。高速船の準備といい、このツアーは完全に採算度外視であることを確信し、小恋ちゃんの雰囲気と合わせて若干の不安を覚えた。
シングルマザーも僕と同様に心配し始めたようだ。子供は…お気楽なもんだ。
20分以上も遅れてやって来た雲妻は、小恋ちゃんからの求めにあっさり応じ、スマホを手渡した。「いやあ、もうすぐ到着ですね~、うきうきが止まりません」と上機嫌だったが、あの二人が高速船で本土に戻ったと知らされると、ひどくショックを受け、両膝をついていた。こいつ、一体どこまで本気なんだ?
緑、赤、黄の光、黒は光と言っていいのか? 濁った灰色の濃霧の中に、灯台の光のように回転している色とりどりの光線が順番に現われて、それらは道標になっているように思えた。その事を小恋ちゃんに尋ねてみようとしたが、雲妻に先を越された。
「外に出てみてもいいですか?」と問いながら、雲妻はすでにデッキの方に向かい始めていた。
「あ、危険ですから!」と小恋ちゃんが制止の声を上げたが、どこ吹く風だ。
僕は「雲妻さん、危険ですって」と言って、小恋ちゃんに僕が制止するという意図を自身を指さす身振りで示し、彼を追いかけた。雲妻は僕より背が高く、歩幅も大きいせいもあるだろうが、僕は少しも距離を詰められないまま、追って一緒に外に出てしまった。途端、冷気が体全体を包み込み、思わず少し前かがみになって身を縮めた。
「なんだ?急にこんな寒くなって…」
初夏どころか、真冬に戻ったように思えた。デッキの前方はほぼ霧に埋まっていて、わずかに見える雲妻の背に、慎重に近づいた。
「雲妻さん、船内に戻りましょう。危険ですって」
彼は右に左に動いた後、霧に全身が紛れてしまうほど前方まで進んでいった。
「ちょっと! ダメですよ、言う事聞かないと。船を降ろされても知りませんよ!」
僕もまた、デッキの最前部まで行く羽目になった。手摺を両手で掴んで、仁王立ちしている雲妻の後ろ姿が見えた。彼の右隣まで行って、僕も手摺を掴んだ。
「雲妻さん、寒くないの?」
薄そうな白いワイシャツが、向かい風を受けて体に張り付いている。
「いよいよですね! 簾藤さん」
「へ?」
「いよいよ始まりますよ、異世界転生!」
「いや、転生はしない」
うっすらと稜線が見え始めた。峰が4、5つ…なだらかで、ありふれた台形の、それほど標高が高くない島に見える。真上からではダイヤと十字星の間のような形をしているみたいだが、水平から見ると平凡なものだ。もっととんがった峰が並ぶ、禍々しいものを勝手にイメージしていた。
霧が徐々に薄くなり、冷気もおさまっていくと共に、青い空と白い雲が戻ってきた。山の表面は青々とした森林が大部分を占め、白い山肌も少し見える。二朱島は火山島じゃない、と小恋ちゃんが言っていたが、ならばあれは灰ではなく、地層なのだろうか。
フェリーはゆるく左に進路を曲げている。きっと港がある側に向けて旋回しているのだろう。近づきながら角度が変わっていくと、島の端にある岬を越えて、湾と言えるほど抉れた広い海岸線が表れた。まだ遠くだが、この光景には心が躍った。チラシで見たエメラルドグリーンの海と白い砂浜が、紙面で見るよりもずっと広大で、美しいものである事を確信した。付近にクルーザーやヨットなど俗世のものがほとんど見当たらず、それらに付随する人の姿もまたない事が、僕にとってなによりのものだった。
いつの間にか背後にシングルマザーと、彼女に両肩を掴まれている男の子の姿があった。二人とも心を解放されているかのような、安心した笑顔だった。シングルマザーは僕と少し目が合って、彼女は改めて微笑んだ。僕は少しドキッとした…かわいいな。
「もうすぐ到着致しますので、皆さま各々の荷物をお確かめください。忘れ物のないようお願いしますね」
小恋ちゃんもまたデッキに出ていた。威圧はなくなっている…かわいいな。
ようやく雲妻も仁王立ちをやめ、興奮冷めやらずのまま、軽やかな足取りで船内に戻っていった。しかし子供がなかなかその場を離れようとせず、手を引く母親を困らせている。かわいい笑顔のお礼に少し手助けしてみようと思って、子供の隣にしゃがんだ。
「ねえ、もうすぐ到着するよ。それからは色々なものがたくさん見られるから、早く準備しようね?」
馴れていない真似だったからか、僕の言葉は子供の心に少しも響かなかったようで、ずっと手摺の間から島を見続けている。旋回に伴ってまん丸の目玉が左に動いて、ひっぱられたように首と頭も動いた。僕の体が邪魔かというようなそぶりを見せたので、僕は立ち上がって退いた。
「もう、いい加減にしなさい!」
母親は少し叱ってから、子供を前におんぶして強制退去させた。子供は体を固定されたまま、どうにかして島に顔を向け続けていた…ちょっと不気味。
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第6話「キロメラン」