挿話「害毒 Part 2」
挿話は今回で終わりです
黒い穴に落ちた…通り抜けた後は、今と同じだ。手足が動かなくなって…というか、四肢をすべて、それどころか胴体も失ってしまって、頭だけの存在になったような錯覚に陥った。…単に錯覚というわけではなく、実際身動きができなかった。腕も足も胴体も、首も確かに繋がっていたのだが、俺は指一本動かせないまま、地面に伏せていた。 首もろくに動かせられないから、地面しか見る事ができない。暗くて、ぼやけていて土か石かよくわからなかった。ただ硬くて、ごつごつしていて、顔の表面と頭の中が冷たかった。氷の中に閉じ込められているような感覚だった。
死んでいく途中かと思ったのだが、脳が徐々に解凍されていくかのように、意識がはっきりしていった。やや息苦しく、両目の奥が少し痛くなった。しかしやはり手足も頭も動かせず、自分がどんな場所にいるのか、どういう状態なのか確かめる事ができない。
疲労で幻覚を見るほどに意識が混濁していた。おそらく高い所から落ちて手足を骨折し、頭も多少打ったのだろう、と考えた。そして生きている間に助けは来ない、と絶望した。数分、長くても10分程度の事だったと思うが、俺はこの間に精神が崩壊したのだ。
声が聞こえた。最初は声と認識できなかった。奇妙な音の羅列がやがてメロディになって、そして言葉に変わっていった。日本語に変わっていった。最初は何を言っているのかわからない間違った、たどたどしいものだった。しかも落ち着いた女の声になったり、低い男の声になったり、子供の様な高い声になったりと次々に変化して、最終的にそれらの中間の、女が男を演じているような力強く、はっきりした口調のものになって落ち着くと、ようやく正しい言語に変わっていった。
「君はニアから来たのだな、つまり異世界の、日本というところから来たのだな。 わたしの知識にはそれがある。わたしは行ったことがない。 ……を通ってきたのだろう? 黒い炎の中を潜ってきたのだろう? 人間が生身で通り抜けるなんて、ずいぶんな無茶をさせたな。 ……は、つまり私の仲間は君の身を守らなかったのか? ああ、喋れないのだろう。少し待て、君の思考を読んでみよう。わずかに残っていた命を、まさかこんな事に使うとは予想しなかった。そうか、……に、すなわち転移に巻き込まれたのだな。出口は不安定で多少の誤差が生じると聞いていたが、居合わせた異世界人をこちらに送ってしまうとはマヌケな話だ。君は出口から入って入口に、つまりこちらに転移してしまった。逆方向に移動すると、負担が一層増すらしい。人の身ならば相当なものだろう。気づかれていないはずはないから、きっと君は捜索されるだろう。そのまま死ぬならそれで済むが、生き長らえてしまうと一生身動きできないまま、囚われの身となってしまうぞ。 もしかしたら、君と私がこうして出会ったのは宿命なのかもしれない。どうして私が役目を終えたというのに、大いなる不満を抱いたまま、なかなか眠りにつけないのか、私に、不要とされた知識が、削除されているはずの記録が多く備わっていた理由が、今わかった。私の役割がわかった。お互い命が尽きる間際で出会ったのだ、論理を超えた何かを感じずにはいられない」
声を出すことも、耳を塞ぐこともできない。意味の分からない、よく通り過ぎる声が次々と頭に突き刺さった。
「立ち上がれないか? こちらまで来られないか? 迎えに行ってあげたいところだが、私はこうして君に語りかける事で力を使い果たしそうだ。もうかなり長い間食欲を失っていたが、また供給する事にしよう。しかし十分に動けるようになるまでには時間がかかる。私の周りには何もないからな。私たちは土や石、草木、大気からもエネルギーを生成し、吸収する事ができるが、そうすると、君の知識にある尺度で言うと100日くらいかかってしまいそうだ。それまで君の命がもてばいいが、もつわけないな。君の傍まで移動する力を得るだけでも、20日はかかってしまう。その前に見つかって、君は連れ去られてしまうだろう。なんとか、這ってでもこちらに、声のする方に近寄ってくれないか? お互い努力しよう。なあに、ほんの…君の尺度で言うと1キロ程度の距離だ、どうだろうか? ああ…君はもう死にたいと思っているのか。 かなり精神を病んでいるようだ。 悲しい気持ちで溢れているな。ずいぶん追い込まれたのだろう、かわいそうに。自分をそこまで憐れむには、それ相応の理由があったのだろう。具体的には触れてほしくないのか、ならばやめておこう。 漠然と分析してみると、その憐みの原因の多くは、怒りと恨みだ。 噂には聞いていたが、さすが異世界人だ。これほどの純粋な負の感情を味わうのは初めてなのに、経験していないはずの記憶が呼び起される。 君こそが人間だ。純粋な、原始的な有機知的生物だ。 私はその感情にもっと近くで触れたい、私も原始に戻りたいのだ。奥底に眠っている知識を、能力を取り戻したいのだ」
俺は何度も気を失いそうになったのに、理解不能な言葉が脳に突き刺さるたびに、激痛で起こされた。これが完全に死ぬまで続くのだろうか、野犬や熊に生きたまま体を食われているのと同様だと思った。早く終わってくれ、と願ったが、同じような言葉はその後もしつこく続いた。俺は異世界からやって来たらしい。彼女(彼?)はついさっきまで、そのまま朽ち果てようとしていたのに、俺が現れたことで考えを改めたらしい。だから俺にもまだ生きてもらわなければならないらしい。しかし今は助ける術を持たないらしい。…どうしろって言うんだ。
おそらく1時間以上は続いた地獄の独演会は、俺の体が持ち上げられて運ばれていく事で、ようやく強制終了となった。彼女(彼?)の言葉が遠のいていった。少しだけ体が温かくなって、痒くなっている事に気づいた。全身が濡れていたし、尿を漏らしている事にも気づいた。五体の感覚がじわじわと戻ってきていたが、まだ手足を動かせなかった。やはり死んでいないのか…と落ち込んだが、行く先が警察にしろ、病院にしろ、精神病院にしろ、とにかく頭に突き刺さっていたものが何本か抜け落ちて軽くなった事に安心して、俺は気を失うことができた。
俺は頭部に損傷を受けた事でおかしくなって、その後はずっと幻影の世界で生きているんだ。
白い壁に囲まれた狭い部屋のベッドの上で、2週間ほど過ごしたと思う。手足が動くまで1日かかって、自分で寝返りをうてるようになるまでさらに1日、座れるようになるまで1日、それから立てるようになるまで、さらに3日かかった。その間の世話は…食事や着替え、体の洗浄や下の世話までやってくれた男女の看護士たちは、美しい容貌の外国人だった。西洋か北欧人かと思える顔立ちで、皆小柄で若く…下手をすると10代の子供かと思える容姿をしていた。聞いたことがない、かなり特殊な言語で話していたから、まるで内容がわからなかった。彼らは淡々と、義務的に、それでいて献身的に世話をしてくれた。細い体なのに、彼らは1人でも俺の体を軽く持ち上げた。
主に世話をしてくれたのは、共に白い壁に囲まれているせいで光り輝くような銀髪を持つ、薄い肌色の美しい2人の男女だった。彼らは交代で何度も様子を見に来てくれて、医療の心得があるかのように俺の体を調べた(特に骨折などはしていなかったようだ)。‟痛い“ とか ‟大丈夫” とかの反応を示すと、少し笑顔を見せてくれる時もあった。俺は濃い青色の目をした、長い銀髪の…少女に見惚れた。あまりにもきれいだった。あまりにも優しかった。
逃亡し、島の西側で彼らのような若い外国人が暮らしている光景を二度見かけた。彼らは皆青い作業着を着ていて、農業や林業を営んでいたように見えた。外国から研修にでも来ている学生かと思っていたが、隠れて見ていたためにそれ以上の推測はできなかった。彼女もその仲間だろうか。看護士らしい白い清潔な服装をしているが、病院で見るものと少し違う。少し厚みがあって、手首、足首の裾は隙間なく、透明の手袋やマスクもぴったりフィットしたもので、素材も違う、はるかに優れた未来的なものに見えた。
数日の室内リハビリを経て、俺はようやく部屋の外に出る事を許可された。ナイロン製のような薄手の、前ファスナーの白い繋ぎの服を着せられて、透明じゃない白いマスクと、それから顔の上半分を覆い隠す水色のニット帽を被せられた。彼らにとっては外国人である自分が外を歩くと目立つから、という理由であったと思う。足を引きずって歩く俺の姿をじっと見つめていたのは、多少年を重ねた…それでも30歳以下に見える数名の、やはり小柄な外国人だった。
両側について一緒に歩いてくれた銀髪の看護士2人は、俺の回復を喜んでくれている様子だった。数日の交流で彼らは俺の言語を、日本語をわずかばかり理解するようになっていた。「おはよう」「こんにちは」「元気」「痛い」「痛くない」「食べる」「寝る」「立つ」「座る」「トイレ」「洗う」「片づける」「始める」「終わる」「おやすみ」…他にもいくつか、すぐに正確な発音を覚えて、彼らは話しかけてくれた。
彼らの不思議な言語よりは発音しやすいと思うし、孤島とは言っても一応日本に住んでいるんだから、多少は知っていただろう、と俺はこの時はまだ、自分が二朱島にいる事を疑っていなかった。偶然森の中で遭難しているところを見つけてくれて、彼らが共同で暮らしている住居に運んでもらい、治療を受けた。島には小さな診療所しかないし、警察は交番すらない。軽傷と診断されて、回復するまで面倒を見てくれようとしている、と思っていた。外には黄緑色が映える豊かな田園風景が広がっていた。俺がいた部屋がある住居は、強固な鉄筋コンクリートの味気ない四角いビルに見えた。1~2階部分まで窓がなく、自分がいた部屋は3階か4階にあると知った。他の建物は100メートル以上の間隔を空けているが、同じような建物だった。どれもせいぜい4階建てくらいの高さで、あちこちに生えている一番背の高い木と高さを揃えているように見えた。どれも屋上、または高い位置に設けてあるバルコニーやベランダで、何かを栽培していた。田畑では灰色の作業服を着た外国人たちが、農作業を行っていた。やけに前時代的な農具を使っている者がいれば、機械的な農耕具、つまりトラクターやコンバインらしきものを運転している者もいた。…少し、いやかなり形が違っていたが、外国製だろうか、と思った。室内の設備も異様と感じるほどのものはなかった。トイレも風呂も、シャワーだって…少し形状や使用法が違う部分もあったが、機能的な違いはそうなかったと思う。単に外国製だから、トイレの水は少量で最低限しか流れないし、シャワーもちょろちょろ、電灯がない場所も多かったが、ロハスを気取っているんだろう、単にそう思っていた。
ただ…何かしらを感じていた。日本とは、地球とは微妙に違うもの…青空は濃く、夕日は薄い。空気は澄んでいるが夜は肌を刺すように冷たく、飛び交う鳥は知らない形のものばかりだった。 虫や蛙(?)の鳴き声は心地いいもの、不安を掻き立てるようなもの複数あって、どれも聞いたことがないものだった。米や小麦の香りは、かなり上等なもののように思えた。見たことがない野菜や魚は、島で見たものよりもずっと種類が多くあった。信じられないほど美味なものもあれば、とても食べられないほど苦いものもあった。
彼らの言語はさっぱり理解できない。発音の仕方がわからないので、真似る事すらできない。彼らの出身国を尋ねる事ができない。…こんな言語、地球上にない。
俺は1か月以上…それとも2か月近く彼らと共に生活したと思う。体の回復が認められると、彼らは俺に労働を促した。鍬や隙を持って、前時代的な農作業やガーデニングに従事させられた。健康的で頭を使わない、嫌な過去をふり返る余裕がない生活は、漁と同じく都合の良いものと思えたが、それは違った。ここは…二朱島ではない。日本ではない。…現実ではない。
自身を疑い続けた。そして頭がおかしくなった、狂ったと確信した。きっとここは人里から離れた精神病院で、俺は病院の敷地の中で、狂人と幻覚に囲まれて暮らしているんだと考えた。若くて美しい外国人たちの本当の姿は医師や看護士、もしくは他の精神病患者たちで、皆俺の過去を知っている。淫行で捕まって、会社をクビになって、同僚を大ケガさせるまほど殴って逃走し、逃亡先で遭難して、そして狂った…どうしようもなく情けない、社会の害悪と知っている。監視しているんだ。部屋の外にいる時はいつも顔をマスクと帽子で隠される。きっと他の患者が俺を見ると恐れるんだ、強姦される、殴られると。看護士たちは皆すごい体力で、軽々と農作業をこなしていた。 …きっと、本当はごつい日本人の男なのだろう。
あの娘は…本当はどんな姿なのだろうか。 彼女だけは…彼女の俺に対する優しさだけは、好意だけは真実だと思いたい。それさえ本物ならば、俺はこのままでもいい。狂人として暮らしていける。何も考えず、ただ鍬を振り下ろす一生を受け入れる。そう思って、ある夜俺は自室を出て彼女を探した。彼女が医師か看護士だとしても、患者だとしても同じ建物にいるはず、と考えた。その時は、もはや精神病院としか見えていなかった。きれいな白い壁に囲まれていて、でも少し臭って、薄緑色の廊下があって、最先端の白衣を着た医師や看護士が歩いていた。彼女の名前らしき言葉は、未だに発音できないから尋ねる事ができない。どうせそれも幻聴だと思った。俺に声をかけてくれる者もいたが、何を言っているのかわからない。男の看護士に部屋に戻されたが、また部屋を出た。今度は見つからないように隠れながら彼女を探した。複数のドアを開けたが、彼女はどこにもいなかった。また見つかって部屋に戻されて、少し怒られたようだったが、やはり言葉はわからなかった。そして、また部屋を出た。今度捕まったら外から鍵をかけられるかも知れないから、慎重に探した。病棟とは雰囲気が違うところに来た。最初に入った部屋は病室と同じようなソファとベッド、机しかないような質素な部屋で誰もいなかったのだが、白衣がソファの背にかけてあったので、ここは医師か看護士の部屋だと思った。隣の部屋のドアを静かに開けた。真っ暗で何も見えなかったが、人の気配を感じた。俺は中に忍び込んだ。息を殺し、スリッパを脱いで足音を消した。さして広くない個室だったから、すぐにベッドの上に誰かがいる事がわかった。裸の女が寝そべっていた。それが彼女だとすぐにわかった。そして、同じベッドの上に裸の男がいる事にも気づいた。それが彼女と一緒に優しく俺の世話をしてくれた彼だと、すぐに気づいた。
部屋の灯りが点いた。当然2人は侵入者に気づいていた。彼女はすぐに白いシーツで裸身を包み、非難の表情を俺に向けた。男の方はすぐに服を着てから彼女を優しくなだめ、俺にも優しい表情を向けて語りかけた。言葉はわからないが、決して責めているような口ぶりではなく、むしろ慰めているようだった。彼は俺の手を握って、部屋に戻した。鍵はかからなかった。
俺はもう自分を憐れむ事ができなかった。嫌悪する事しかできなかった。現実はどうなのかわからないが、十代に、未成年に見える若く美しい娘に横恋慕し、夜中に部屋に忍び込んで見つかり、非難された。そしてその彼氏か、もしくは夫である若く美しい男に優しく諭され、慰められた。…俺は壁にかかっていた30センチ四方くらいの鏡に己の顔を映した。
なんて惨めで、醜い顔をしているんだ。こんなにひどい容姿だっただろうか。いや、そんな事はない! こんなに口は歪んでいなかった! こんなに鼻は膨らんでいなかった! こんなに目の下の皮膚は弛んでいなかった! こんなに目の色は濁っていなかった! どうしてこうなった。
いつまで続くんだ…この地獄のような悪夢は。
そうして俺はまた逃亡した。今度こそ死ぬしかない。もう何も持っていない。薄手のパジャマしか身に付けていない。走って、走って、森の中に入って、迷って、力尽きて、死ぬんだ。もう餓死してもいい、熊や猪に食われたっていい。むしろ食ってくれ、この身を一片も残さないように、この世界からきれいさっぱり消してくれ!
森のある方向を知らないまま、俺は遮二無二走ったが、広がる農場から一向に離れる事ができなかった。どこまで行っても(俺の足と体力じゃあ、大した距離を走っていなかっただろうが)森は見えなかった。呼吸が苦しくなって、止まってしまった。そして土の地面に仰向けになって寝ころんでしまった。
まだ生きる事に執着しているのか? 心臓がやぶけるまで走る根性はないのか?
昼間は少し暑いくらいなのに、夜はひどく冷えた。このまま眠れたら凍死できるかもしれない。 でも、また死ぬ前に見つけられて看病されたら…もう耐えられない。やはり人気のない所まで行かなくては。息が整うまで待って…。
満天の星空は現実で見るものと変わらない美しさだったが、よく考えれば肉眼で見たことはこれまでなかった。空を飛べたならどれだけ良かっただろう。空気のない所まで上がっていって気を失い、最後に美しい夜空に包まれて死に向かうことができる。海に落下したら、死体は見つからないで済むだろう。もしも宇宙にまで行けたら、周回軌道に乗って地球の周りをずっと落ちながらミイラになるのもいい。
星の光がいくつか動いている。流星じゃない。隕石じゃない。それは白色のもの以外に、黄色や、赤色のものもあった。それらがハエや蚊のように素早く弧を描いていた。星空とは距離感が違う、もっと近い。
そして声が聞こえた。あの声だ。女が男を演じているような…。 少しずつ大きくなって、懐かしい、はっきりした日本語が聞こえた。
「ようやく見つけた。まさに間一髪というところだ。すぐに向かうが、仲間も君を見つけてしまったようだから、間もなく追手がかかるだろう。君からもこっちに来るんだ。声がする方だ、わかるだろう?」
俺は立ち上がって、周囲を見回した。
「こっちだ」
声がした方向…右を向いた。
「そうだ、まっすぐ走ってこい、君を助けてあげよう。その苦悩をすべて取り除いてあげよう」
日本語を話す…それだけで本当に ‟救い“ だと思えた。それはまた俺の脳が勝手に作り出している幻聴だとも思った。しかし何かに縋らなければ、俺はもう一歩も足を進められなかった。畑の中に足を入れて、徐々に速度を上げていった。何度も足を取られて躓き、膝だけじゃなく全身が泥に浸かったが、その度に麦をつかんで立ち上がり、踏みつけた。頭上の星が動いていた。さっきよりも慌ただしい様子だった。
「もう少しだ、がんばれ」
農道で区分けされていた畑を1つ通り抜けて、さらに次の畑の中を進んだ。息が荒くなって、痰と泥を何度も吐き出した。畑の真ん中まで行く前に、複数の強い光に囲まれた。顔に塗った泥で白と赤の光を遮りながら、尚も俺は走り続けた。光が回転しながら迫ってきた。それらが懐中電灯のように、先端を灯らせた筒状のものであると認識した途端、俺の体が宙に浮いた。高く…10メートル以上。追ってきた10余りの懐中電灯が、横殴りの突風に吹き飛ばされて散らばり、その光が見えなくなるまで離れていった。同時に、周囲の小麦も吹き飛んだ。
「間に合った。よく頑張ったな」
宙に浮かんだ俺の前に、夜なのに白く輝く大きな柱が現れた。そして柱は二分割するように折れて、その開口部に俺は吸い込まれていった。体が縦になって、後ろにもたれるような姿勢で柱の中に入った。すると一瞬で、シャワーが勢いよくかけられたように体がきれいになって、パジャマが消えて裸になった。温かくなって、その後少し涼しくなって、気持ちよくなった。
両手を置くところが球形になっていて、手の平をやさしくマッサージした。俺は眠りに落ちそうになった。意識が朦朧として、快感で溶けるような気持ちになっていった。
「さあ、君の力を貸してくれ」
そう彼女(彼?)は言った。
「といっても、特に難しいことをするわけじゃない。ただ許可してくれればいい。君を拘束しようと追って来る連中がいる。わたしの仲間なのだが、少し意見の相違があってね。わたしは任を解かれて機能を停止するように、つまり死ぬように命じられた。とくに抵抗するつもりはなかったのだが、君がわたしの前に現われて気が変わった。わたしは自分に素直になって、思うままに行動する事にした。それには君の力が必要なんだ」
「…意味がわからない」
「君の怒りを、恨みを吐き出してくれればいいのだ。本来の人間性をさらけ出してくれればいい。 ああ、ちょっと待って。追手が来た。心配いらない、彼らを巻くのは簡単だ。ただの…口さがなく言えば雑兵どもだ。 だが本丸が1体でも出てくると、今のわたしでは完敗するだろう。君は連れ去らわれてしまって、また逆戻りだ。わたしももう復活できないだろうな」
「眠りたい」
「眠る前にもう少しだけがんばってくれ」
「どうでも…いい」
「そんないい加減な返事じゃダメだ。本音を出してもらいたい。意思表示をはっきりしてもらわないと適用されないのだよ。 …ああ、眠るな!」
全身に痛みが走った。電気ショックのようだった。
「ごめんよ、しかし眠られてしまうとすべて終わりだ。君は元通り自己嫌悪の塊と化す。それでいいのかい? 無理にとは言わないけれど」
「い…嫌だ」
「そうだろう。そんなに自分を嫌う必要はない、そこまで悪い事をしていない、だろう? きっと君の世界には、君よりずっと悪い事を、卑劣でむごたらしい事をしているのに、君よりもずっと裕福で、楽しくて、気持ちいい生活を送っている人間がいるのだろう? だから、君は許されて然るべきだよ。単に運が悪かっただけなのだ」
「そうだ…運が悪い。でもそれが全てだ。それが決定的な差になる」
「運による差など、あってないようなものだ。 皆似通ったものなのに、否定するもされるもない。誰も君を非難する資格なんてないのだよ。 辛かったろう? この世界の人間は善良で、美しくて、強くて、正しいから」
「…ああ」
「自分が一層惨めに思えただろう。醜く思えただろう。本来それほど差はないのに、価値観を狭めているから、彼らが自分より遥かに優れているように見える。 だが、彼らも君と同じなのだ。心の奥底は怒りや怖れ、悲しみ、憐み、妬み、様々な負の感情で溢れかえっている。それらを抑え込む理性に優位性を持たせているから保たれているが、それは脆いものなのだよ。 そうだ、あれを見せよう。ここまで高く上がれば良く見える」
前方の白い内壁に映像(?)が映った。それはこの柱のすぐ外にある景色だと、すぐにわかった。暗い夜空に光が飛び交っているが、それらは跳ね返されたり、吹き飛ばされたりしてまもなく視界から外れた。 星の光でかすかに見えた。森があった。空に森があった。それは広大で、島と呼べるほどに…いや、もしかしたら大陸と呼べるほどかも知れない。そういう迫力が感じられた。
「木で覆われていて見えないが、その下には町がある。都市がある。多くの人間が住んでいて、活気があって、平和に暮らしている。私たちの仲間がたくさんいて、統治しているのだ」
「何を…バカな」
「今の君の状況を鑑みるべきだ。すべて幻覚か妄想だと強弁できるか?」
「現実だと? こんな…バカバカしい光景が」
「君が見ているものは、見てきたものはすべて、見たままのものだよ」
「違う!」
「ここは君にとって異世界だ。君がさっきまで会っていた人間は、異世界人というわけだ」
「違う! そんなもの、いるわけがない」
「疲労していた君を見つけて、彼らが共同生活を送っている家に連れて帰って看病したのだ。この世界の人間は皆医療の心得があるから、自分たちの手で君を救う事ができると判断した。介護の心得もある。他者の命を尊ぶ事は、彼らが幼い頃から、いや、生まれながらに備わっている素養なのだ。見上げたものだろう?」
「違うって… あいつらは、精神病院の医師や看護士たちで、俺の他にも頭がおかしい患者がいて…」
「君は黒髪で、黒い目をしている。こっちの世界ではいない事はないが、かなりめずらしい。できるだけ好奇の目にさらさないよう、外では君の顔を覆った。それが功を奏して、わたしの仲間たちに見つかるのを防いでくれていた」
「ち、違うって…」
「特に君の世話をしてくれていた男女は、結婚前の仲の良いカップルだ。それは君の想像通りだろう? そこのところは君の世界でも似たようなものだろう。あの時の彼女の態度は、許してやってもいいんじゃないだろうか」
「…どうしてそんな事まで知っている」
「君の居場所をずっと探していたからな。わたしもあれから食事を取って、エネルギーを貯めた。小さな分身を5体生み出すまで回復したのだ。それらを使って情報を集めた」
「食事? 分身?」
「しかしまだまだなんだ。さっきも言った通り、本体が出てきたらひと溜りもない。もう間もなくやってくるだろう。事態は急を要する」
「何を… いったい俺に何をしろって言うんだ」
「ただ、わたしが人を殺せるように許可をくれればいい」
「は?」
「あの浮かぶ島に住む人間達を攻撃する。力を得られれば、仲間たちをも凌駕する事ができる。能力はずっと昔から、いつでも発動できるよう準備してある。あとは引き金を引くだけだ」
「人を…殺す?」
「時間がないから手短に説明しよう。あの島は、諸悪の根源だ。貧富の差をなくし、人が人を憎まない世界を築くことがわたしたちの命題だったはずだ。しかし長年…何千年とかかってもそれは達成できないでいた。そして仲間たちは妥協した。あの島を作って、選んだ人間を住まわせた。上下をつくってしまったのだ。下に住むものは常に見上げて生きなければならない。そこに差を生み出した」
「どんな差があるっていうんだ。高さ以外に」
「君の世界にも、自然災害はあるはずだ」
「…ある。でも、空に浮かんだからって」
「技術はそれだけじゃない。ほとんどの災害を回避できる。楽園と呼ばせているのは伊達じゃないって事だ」
「他にもつくればいいじゃないか」
「そう簡単にはつくれない、そしてつくらない。人間を統治するためには、従わせるためには、どうしても餌が必要だと判断してしまった。それは自ら失敗を認めたことになる。どれだけ時間がかかっても、どれだけの命が失われようとも、目的を変えてしまっては、わたしたちの存在は意味がなくなる。過去も未来も、価値を失うのだ」
「あの森を…島なのか? 島を落とす事が目的なのか? どうやって…」
「わたしたちは昔、人間を圧倒的な武力で支配していた。それは第1段階だった。今、その能力は不要と判断し、自ら失ってしまっている。 しかし、わたしの奥底にはその能力の記録が残っていた。もしくは必要とされたのかも知れない」
「必要って…」
「わたしは、必要とされてその記録を持って生まれたのかも知れない、と言っている。そして君もそうだ。異世界から現れた特別な人間…卑屈で卑怯で、ドスケベで、暴力的で、感情任せに行動してしまう…頭の弱い人間。いや、これはこの場合誉め言葉だ、実に原始的だ。君ほどの人間は、この世界にはまずいなかった」
「もういい、眠らせてくれ」
「ああ、もう少し待ってくれ。最後まで聞いてくれ。何度も言ったが君だけじゃない。この世界の人間も、結局は失敗作なのだよ。下の人間は一見理知的で協調性が高く、他人を思いやって生きているようで、約2.3パーセントはそうではない。多くの不満を持って生きている。過剰な欲望を募らせていて、悪事を働いている。それは害毒であり、周囲に益々蔓延していく事だろう」
「たった2%…」
「予備軍を入れると約36%まで跳ね上がる。無視できない数字だ。このままだと増える事はあっても減る事はない。すべてあぶり出すのは不可能に近い。上の人間は下の事に無関心になる一方で、それは仲間たちも一緒だ。理念を浸透させる事を、従わせる事を放棄している。これは許してはいけない。いったん戻して、やり直す必要がある」
「戻す?」
「第1段階まで…とは言わないが、第2、せめて第3段階までは戻す」
「つまり?」
「そのために、まずあの島を落とす。そして人間を減らす」
「大虐殺って意味か?」
「わたしが、いや、君がやるのは最初の…ある程度の人数だけだ。仲間たちも、殺せるかどうかわからないが、動けなくなるほどまで叩き潰す必要がある。そして次に、下の人間を幾分か滅ぼす。ああ、君を助けてくれた人達は外すとしよう。彼らは非常に善良だ、残す価値がある。 そうして、あとは放っておけば勝手にある程度まで滅ぶ。疑心暗鬼があっという間に感染して、殺し合いが全土に広がる」
…笑いがこみあがった。たった1度の淫行が…異世界の世界大戦にまで繋がるのか、ケッサクだ、とんでもない運命があったもんだ。
「わかった、すべて任せる」
「君の許可が必要だと言っているだろう」
「許可する。殺しまくってくれ、異世界の事なんか知らん。どうせ幻覚だ」
「幻じゃないのだ。そこのところはしっかり認識してくれ」
「何もかもお前の言うとおりにする。ただ俺はもう死にたい。だから、許可した後でいいから殺してくれ」
「それはまずい、君が死んでしまうと能力が持続しないのだ。
ならば、ひとつだけ方法がある」
「なんでもいいからやってくれ」
「君は眠る。この先ずっと、そう、気持ちいい夢を見続けるんだ。意識が溶けてしまって、ほとんど消えてしまったような気分になるかと思うが、わたしが求めた時だけ ‟許可する” と、夢の中でいいから言ってくれ」
「ああわかった、なんだって許可するよ」
「後ろを見てくれ」
言われた通りに振り返ると、背もたれの後ろに30センチほどの長さの、白い円柱が浮いていた。
「無理強いはしない。もしも途中で怖くなったり、人を殺すことが嫌だ、と考えを改めたりしたならば、そのわたしの分身を強く外側に向けて押し出すのだ。そうすると強制解除となる。いいか? 多少の力が必要だぞ」
「解除なんてしない、もうなにもかもめんどくさい」
「そうか、それを聞いて安心した。少しだけ痛いかも知れないが、それは覚悟してくれ」
「わかった」
それが最後なら、どんな痛みにだって耐えて見せるさ。
俺は目を閉じた。
「君の声を聞いたのは久しぶりだ。しかもまだそんなはっきりした記憶が残っていたなんて、かなり驚いたよ」
「結局… どうなったんだ?」
「まだ途中だよ、第5段階ってところだ」
「まだ殺すのか?」
「いいや、人間達はお互い殺し合っているからな。もはや誰が敵で誰が味方かわかっていないだろう。なんのために苦しんでいるのかもわかっていない」
「じゃあ、今は何をしているんだ?」
「島がなかなか落ちないから、休憩中だ」
「休憩中だって?」
「なかなか手強い…というか、守りを固められてしまってからは、手も足も出ない」
「仲間は?」
「5人殺した…倒しただけかな?」
「あと何人だ?」
「島にはあと4人のはずだが、いっさい出てこなくなった」
「島以外にもいるのか?」
「下にはもう残っていないと思っていたが、最近2人現われた。その内の1人は、10年も前に戦ったことがあった。能力を制限されているくせに、かなり強かった。最後は逃げられてしまった」
「という事は、帰って来たのか」
「帰って来た? ああ、そうか異世界か。となると、まだまだいっぱい隠れているのかも知れない。わたしは異世界に行ったこともないし、その方法も知らないからそれらの情報を得ていなかった。うかつだったな。 彼らが邪魔するとしたら、 まだまだ時間がかかりそうだ」
「勝算は?」
「まだ成長できるはずだ。蘇っていない機能が残っている。寿命が先に尽きなければいいが…。
それで、君は故郷が恋しくなったのか?」
「何だと?」
「私の指揮から外れた分身が、その2人を猛追したようだ。君の残留思念がそうさせたかも知れない。となると、彼らが潜んでいた異世界とは、君の故郷だろう」
「故郷なんてもう記憶に残っていない。親の顔も、自分の名前だって忘れた」
「そうか」
「俺は今、どうなっているんだ? 手足の感覚がない。というか、何もない。心臓も、肺も、胃腸もない」
「ないよ。君は死にたい、と言ったじゃないか」
「俺が死ぬと困ると、お前は言っていた」
「よく覚えているね。 そうだ、君は死んでいない。だが肉体はとうになくなっている。どう言えばいいのか……要するに、君は、私の中に混ざっているのだ」
「どういう意味だ?」
「君の血肉はわたしの体の一部になった。つまり、君を食べたのだよ」
「何だと?」
「ほら、わたしの体を見せてあげよう、目がないだろうけれど。
きっと、君の肉の色が混ざったのだ」
次回は明るい本編に復帰
第31話「二朱町クイーン」
は
10月28日投稿予定です




