表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/49

挿話「害毒 Part 1」

…また2話に分けます

長くてすみません

 いつか堕ちていってしまうんじゃないか、と危惧した事はそれまでの人生でも何度かあった。自分の性格にそういう要素が含まれている事を自覚していたのだ。かといって学生時代に、所謂不良だったわけではない。むしろそういう界隈にでき得る限り近づかないよう生きてきた。暴力は嫌いだ…しかしそれは自分が被害を受ける立場になる事を恐れているだけであり、暴力そのものを否定するわけではない。あたりまえだ、暴力を否定できる社会を形成している国が、世界が、一体どこにあるって言うんだ。

 俺が生まれ育ったこの日本は、もう70年近くも前からずっと敗戦国だ。未だに戦勝国から反省を求められ、また自らも負い目を課している。自分が生まれるよりもずっと昔の事に負い目など感じられるはずがない。せいぜい80を超えた老人ども、戦前戦中の政治家とか軍閥とか、皇族や華族出身の子孫達が頭を下げ続けていればいいのだ。なのにそういう奴らが未だにこの国を牛耳って富を独占し、好き勝手にやっている。それを許している。生まれるよりもずっと前から敗者であることを刷り込まれている戦後の日本人は、DNAレベルで反抗する能力を制限されているのかもしれない。ネットで罵詈雑言を書き込むだけで自己完結してしまえるくらいなんだから、お手軽なもんだ。 だからこそ、匿名の言葉の凶暴性は今後一層ラジカルになっていくのだろうが…。

 男のくせに中学生以降、軽いケンカのひとつもした事がなかった自分が、会社の同僚の頭を背後から殴り、背中を思いきり蹴るほどの暴力衝動に駆られてしまったのには、それ相応の理由があった。

 裕福ではないが、貧乏というほどでもない家庭で育ち、ごく普通の学業成績で普通の…所謂Cランク程度の大学を卒業し、東京にある企業の系列会社に就職、事務系総合職を得た。社会人になってまだ3年目の26歳、一度も異性との交際経験もないまま郊外の賃貸マンションで孤独な独身生活を、同世代の価値観においてはそうめずらしい事ではない、という統計に慰められながら日々を平穏に過ごしていた。

 どちらかといえばインドア派の俺は無趣味で、休日はDVDを借りて映画を観るか、ざっとネットサーフィンをするくらいで、地元以外の友達を作らず、酒も外食も控えていた。理由としては、とにかく無駄遣いを嫌っていたからだ。なぜ日々やりたくもない仕事を辛抱しながらこなして稼いだ給与を、生活するだけで3分の1も残らないというのに、さらに人付き合いや微細な享楽のために費やしてしまわなければならないのか。消耗した体を引きずってうるさい行楽地や観光地に出かけるくらいならば、わずかばかりでも増えていく預金通帳の印字を見てコーヒーを飲んでいる方が安らぐ、そう思っていたからだ。本当なら副業でもしたいところだが、社内規則で禁止されているし、休日に働く体力はともかく、気力はない。最近はyou tuberなんてものが持て囃されて、かなりの額を稼いでいる奴らがいるらしいが、どうしてあんなどうでもいい動画を観て楽しめるのだろうか。その動画の再生回数が多いくらいの事で、なぜ大金が動くのか。挟み込まれるコマーシャルなんて、邪魔でしかないだろう? その間は携帯かスマホに目を移すだけだろう?

 まったく生産性が認められないものが大金を稼ぐ…納得がいかない。生活に役立つものをつくって、それを売る、商売とはそれ以外の事は不要だ。宣伝など、正確性を法律で厳しく取り締まって、あとはネットがあれば他に要らないだろう。映画やドラマは好きだが、それにしたって数が多すぎる。あきらかに供給過多だ。漫画や小説、アニメ、ゲームなんてものはどれもこれも面白いと思えない。ただでさえ虚構なのに、字や絵なんかで表現されたって余計にシラケるじゃないか。ゲーム?…指をごちゃごちゃ動かしているだけで敵や怪物を殺そうが、車や戦闘機を扱おうが、女を裸にしようが、そんなものシミュレーションにもなりゃしない。明日全部なくなったって、別に構わない程度のものだ。役者やスポーツ選手、アーティストだって多すぎる、半分以上…8割はいらない。芸能人やYou tuberなんか全員死んだっていい。You tuberなんて商売は、どうせあと2、3年くらいしかもたないだろう。

 無駄を省いた生活を好むとは言っても、人間にはどうしても抗えない欲望がある。三大欲求とされる食欲、睡眠欲、そして性欲だ。食欲と睡眠欲についてはある程度の経済力さえあれば、なくとも生存権、すべての国民は健康で文化的な…ってヤツで保障が認められているものだ。贅沢さえ言わなければなんとかなる。しかし、残りの一つだけは保障されていない。それだって金さえあれば問題ない、あるいはネットさえ繋がれば、つまり視覚刺激さえあれば困らない、と考える者もいるだろう。実際自分もそれらに頼り切っていた。しかしそれは根本的な解決にはならない。欲望の充足とはすなわち、心の充足なのだ。そうすると、性欲には相手が必要になる。そしてその関係性に金銭の授受、もしくは遊びや憐れみといった不純なものが含まれていると、それは無価値になる。

 恋愛をすればいいだけの話と言うが、そのきっかけを得られなかった者にその言い草はあまりに酷と思わないのだろうか。自分から動かないからだ、拒絶されることを脅えているから、度胸がないから彼女ができない、と何度も友達や、こちらは友情をまったく感じていない奴からも好き勝手に説教された事があった。拒絶される事を嫌うのはあたり前だろう。大した経済力を持たない、容姿を含んだあらゆる魅力が十人並みの人間がそれを危惧しておよび腰になるのは、無理もない事だ。拒絶する側は常に強者を気取り、批難と憐憫の言葉で弱者を貶めるんだ。モテる奴らの口から、これまで何度そういう言葉を聞いた事だろうか。そうして警戒感を募らせた十人並み、あるいはそれ以下の男女が、自分たちは恋愛をするカテゴリーには存在しないと見切りをつけてしまい、またコンプレックスを募らせた反動で、自分より弱者を求めてしまう事で被害を広めてしまうのだ。

 理屈っぽい…これも自分が恋愛できない理由のひとつに挙げられる。

 恋愛ができない人間はその隙間を何かで穴埋めしなければならないのだが、性欲は性欲のまま何かに置き換わる事はない。それは食欲や睡眠欲と同じだ。26年もの間、視覚刺激と自らのみで慰めてきた欲望は、その頃生涯独身となるのではないかという将来への不安も感じるようになっていて、肥大の一途を辿っていた。このままではいけないと思い込んだ時、性風俗を試してみようと本気で考えた。純粋な感情が介在する、しないはこの際妥協する事にしたのだ。かなりの金額を支払う事になるため、入念に下調べを行ったのがまずかった。感情が伴わない分、金額相応かそれ以上の相手を求めた。ネットに載っているプロフィール画像、口コミなんて役に立たない。高価すぎると失敗した時のダメージが大きい、安価だと詐欺にあうかもしれない、その真ん中くらいが実はもっとも中途半端で残念な結果になりそうだ、と敬遠し続けてしまい、なぜか悶々とする木曜と金曜の夜をそれぞれ8回以上も通り過ぎてしまった。自覚していた…経験がない事に対するコンプレックスと、失敗する事を異常に恐れるケチな性分のせいだ。

 募る煩悩に悩まされる日々が続いた。それは木~金曜の枠を突き破ってほぼ毎日の夜に侵食し、そしてついには通勤帰宅中の視界にまで影響を及ぼした。あらゆる女の後ろ姿に視線を向け続けた。スタイルがよければ顔なんてどうでもいい、若ければスタイルだってどうでもいい、陰茎と頭の中に、どろどろの精子が溢れんばかりにいっぱいに詰まっている気分になっていった。…思えば、社会人3年目になって色々と責任を背負わされる業務が増え、残業が続いていたためのストレスがそうさせていたと思う。…誰にでもあり得る、普通の事だったんだ。

 しばらくして繁忙期が過ぎると共に、性欲もやや小康状態を取り戻していた時だった。同フロアの他部署に勤務する同期の男から、飲みに誘われた。それまで協力し合って業務にあたっていた関係性もあり、素直に付き合う事にした。同僚は自分よりも社交性に優れていたが、まだまだ新米だというのに残業を露骨に嫌がるような、悪い意味で正直な男だ。仕事ができないわけではないが、しょっちゅう夜遊びしては社内で寝不足アピールをして、自ら社内での評価を下げていた。しかし自分にとっては仕事ができるアピールをする同僚よりもまだマシで、わりと気兼ねなく話ができる関係性だった。

 週末で、また激務を潜り抜けた解放感のせいだろうか、2人とも酒が進み、話題は社会批判、会社批判から始まって終盤は下ネタ、つまり性に関する話題へと集中していった。その後当然の流れのように同僚はしきりに性風俗店への同伴を求めてきたが、俺は言葉を濁らせながらも固辞した。ほんの1か月ほど前まで取りつかれたように検索し続けていた経緯を思うと、とても気が乗らなかった。ようやくその異常な煩悩から解放されつつあるのに、今更行ってどうする? しかもこの流れではいい加減に店を、相手を選んでしまいそうだ。そして何万も金を取られる。もしも後悔する事になった場合、また欲望がぶりかえしそうで恐ろしかった。

 なのに…魔が差した、としか言いようがない。

 同僚は俺が風俗を利用した経験がない事を見抜き(童貞であることはバレなかった、もしくはそこまで追求されなかった)、玄人相手が嫌ならば、とスマホの中の個人フォルダを開いて俺に画像を見せた。そこには若い女が裸でベッドの上に寝そべっているもの、顔を手で半分隠しながらも胸をさらけ出している上半身、それから露骨な陰部のアップ、そして男と寄り添って笑顔でピースしている画像があった。…めずらしくもない無修正のエロ画像だが、それは一緒に映っている男、つまり同僚のプライベート画像だった。

 俺は平静を装いながら、凄いな~と笑みを浮かべて言った。それは本音だった。女は未成年に見えた。幼く見える女なんてたくさんいるだろうが、髪形やメイク、その表情にリアルな幼さを感じた。おそらく高校生、下手をすると中学生に見えた。そして同僚の自慢気な表情と口ぶり… 「一応、二十歳だって聞いてるけどね」

 ほどほどにしとけよ、という俺の言葉の真意を同僚は見逃さなかった。彼はこの後彼女を呼び出そうと言い、そして友達を1人連れてくるよう頼んでみよう、と言い出した。俺は断ったが、「二十歳だからだいじょーぶ!」とおどけた調子の返答に思わず笑みをこぼしてしまった。破滅に繋がる危険性を、この信憑性がまるでない軽口に覆い隠されてしまったのだ。

 まさかそんなにうまい事進むわけがない、と思っていたのに、話はとんとん拍子で進み、待ち合わせた24時間営業のファミリーレストランに2人の若い女の子がやって来た。私服で、2人ともミニスカートをはいていた。もう夜の11時を過ぎているから、未成年の場合はこの時点でもうアウトだろう。つまり…アウトだった。実際に会うと、10代である事が完全に分かった。よく淫行で捕まった奴らが未成年とは知らなかった、と言い訳をするみたいだが、それは絶対嘘だろうと知った。しかし、後戻りはできなかった。軽く挨拶すると同時に堂々と隣の席に座らせて、服の上から女の体をまさぐる同僚の姿を見て、そして自分の隣に座ってさらけ出した太腿をぴったりくっつけてくる、人並みだが自分にとっては十分すぎるくらい魅力的な若い女体に、すでに勃起してしまっていたからだ。

 同僚達とは別のラブホテルに入り、誘われるがまま彼女の体をむさぼった。先に3万円の支払いを求められたが、たとえ5万円だったとしても支払ってしまっただろう。行為の内容は…射精したことは確かだが、他は覚えていない。まるで記憶にないという事は、どうせうまくいかなったのだろう。相手はきっと何度も、何十回も、もしかしたらそれ以上の経験があっただろうから、きっと自分の行為はお粗末なものだっただろう。最悪の気分になったという記憶だけが残っている。…買春、しかも未成年を。未成年かどうか知らなかっただろうって? いや、さっき言った通りわかっていた。彼女は身分証を見せなかったが、もともと俺は求めなかった。見せないという事はそういう事だし、求めなかったという事もそういう事だ。自分は欲したのだ。未成年の女を…女子の体を。

 そして破滅した。売春の取り締まりを強化していた警察の網に、まんまとひっかかってしまったのだ。ファミリーレストランで会うなんて、近くのホテル街を利用してしまうなんて、うかつにも程があった。早朝にホテルを出たところで待ち構えられていたかのように、すみやかに逮捕された。入る前に捕まえてくれたら良かったのに…。相手はやはり16歳の高校生だった。二十歳と聞かされていた、と説明したが、故意があったとして児童買春で略式起訴される事になった。

 会社は謹慎の後、懲戒解雇の運びとなった。そしてこれまで貯めた貯金の大半が罰金により失われる事に…。あまりにも理不尽だと思った。なにも強姦したわけじゃない、金銭取引があったとしても、性交渉はあくまで合意の下で行われた。避妊具もちゃんと付けたし、暴力などいっさい行わなかった。彼女が拒否したり、泣いたりした記憶もない。ここまで貶められる程のひどい事をしたの…か? 高校生と性交渉…バレていないだけで、多くの人間がやっているだろう。夜の街を歩いているだけで、何組も見つけられるだろう。警察は常にラブホの前で取り締まれよ!

 そして同僚も同じ目にあった。彼は警察の網にはひっかからなかったのだが、後にバレた。俺がバラしたのだ。当然だ、破滅の道に誘ったのは彼だ。なにをかばう必要がある? 同僚は怒り狂い、ある日の白昼に、俺の自宅マンションを調べて待ち伏せしていた。入口で、帰宅してきた俺の胸倉をいきなりつかむと頬を殴り、

「お前のせいで何もかも終わりだ! この卑怯者! ヘマした落とし前くらい自分だけでつけろ!」と言い放った。

 なにを自分勝手な事を! 土下座されても許すつもりはなかったのに、逆に殴られるなんて! ここで黙っておとなしく帰るなんて無理だ! あまりにも惨めすぎる、とても耐えられない!

 我を失った。こいつだけは殺したって許されるはずだ! そう本気で思った。背を向けようとした同僚の後頭部を固く握った拳で3度殴り、屈んで丸まった背中を思いっきり蹴った。同僚はステンレスの郵便受けをへこませるほどに体を強くぶつけて、床の上に倒れた。反撃しようと立ち上がろうとしたが、俺は腕や胴体、頭に何発も足を強く振り下ろしてそれを阻止した。やがて同僚は抵抗をやめた。息はしていたが、仰向けになって床に寝ころんだままぐったりと、動けない様子だった。顔や腕のいくつかの部分が擦り剝けたり、ざっくり切れたりしていて、かなり出血していた。

 マンションの入口には監視カメラがある。僕の行為は完全に録画されていただろう。正当防衛の主張は無理とさすがに認識した。今度は拘留される、情状酌量もない、実刑…すべてが終わった。善良で無害だったはずの26年間は、凶暴性を秘めていた卑屈で下劣な変態のそれに塗り替えられる。俺はすぐに自宅に帰ると、ありったけの現金と預金通帳、目についた着替えを、一番大きい手提げのバッグに詰め込んだ。まだ倒れたままの同僚の体を跨いで、一目散に駅に向かった。コンビニのATMに寄って可能な限りの現金をおろした。興奮し、思考回路は正常に働いていなかった。とにかくその場を離れ、人目のつかないところに移動する事だけを考えた。

 今ならばわかる。すぐに警察と病院に連絡し、正直にすべてを話すしかなかったと。殺したわけでもなく、先に殴られたのはこっちだから、相手にも非がある。お互いが冷静になれば示談で済むかもしれなかった。たとえ実刑を受けたとしても、おそらく大した懲役にはならなかったろう。しかしあの時は…そういう考えには至らなかった。ただ逃げる事しか考えられなかった。二度と身元引受のために訪れる両親の顔を見たくなかった。それならば、いっそ死んだ方がマシと考えていた。

 東京はあらゆる公共交通機関の各所に監視カメラが備えられている。鉄道、バス、空港の他に、船だってそうだ。であるのに、俺は一番捕まる可能性が低いだろう、と謎の思考で船を選択した。とにかく本土から離れたい気持ちだった。人が少ない、辺鄙な島へ行けば隠れられる。そこで10年位過ごせば時効になる、と短絡的に考えていた。

 フェリー乗り場に行って八丈島への切符を買った後、少しだけ冷静になった。犯行はもう明るみになっているだろう。ここへ来るまでの俺の足取りは、明日にでも判明するかもしれない。そしてこの切符を購入した事までバレるに違いない。八丈島なんて当たり前のところを逃亡先に選んでどうする? 旅館にでも泊まるつもりだったのか? 俺は待合所を飛び出して、船を探した。とにかく切符の船には乗ってはいけない。どこか違う島に、切符を購入しないで、つまり…密航しなくては。

 バリケードに遮られていたエリアに入って、そこに停泊していた中型の汚い船に乗り込んだ。船員らしき者達は荷の積み下ろし作業をしていて、気づかれずに忍び込むことができた。荷の陰にずっと隠れていたが、なかなか船は動かなかったし、出港してからもなかなか目的地に着かなかったから、もしかしたら外国へ行ってしまうんじゃないかと不安に思った。不安と疲労で気を失いそうになったところで船は停まった。こうして俺は、ニ朱島(にあじま)に渡ったのだ。


 暮れかかった時間に船を下りると、背の高い、屈強そうな男が皆を呼び寄せた。だだっ広いコンクリート造りの船着き場に隠れる所はなかった。しかし船員たちは俺の顔を見ても不審に思う様子もなく、早くあっちで集まれ、と促すだけだった。よく見ると、自分以外にも船員ではなさそうな服装をして、似たような大きなカバンやリュックを持った男たちが十数人いた。彼らはこの島に移住する漁師たちだった。背の高い、他の船員から ‟笹倉(ささくら)さん“ と呼ばれている男が名前を読み上げると、移住してきた男たちがそれぞれ「はい」と返事した。9人まで確認が済み、10人目の「カツノさん、カツノヨースケさん」という呼びかけに応じたものがいなかった。2度、3度と続くが応答がない事を確認して、俺は「はい!」と決死の覚悟で答えた。

「はい、返事は聞こえたらすぐに! これは仕事でも同じだから」と笹倉に言われ、俺はすみません、と頭を下げた。カツノ…おそらく勝野だろう。ヨースケは…どこかでちゃんと調べないと。本物の勝野はどうやら直前で移住を取りやめたみたいだ。

 偽物(オレ)を含めた移住者たちは、島南の海岸近くにある木造の寮に入居した。古い建物で、お世辞にもきれいとは言い難い建物だったが、狭くとも個室が与えられたのは幸いだった。明日の事を考えず、俺は食堂に用意された夕食もとらず、部屋に閉じこもって泥のように眠った。


 まったく経験のなかった仕事に就いて、早々に未経験者という事はバレたが、一番年齢が下だったおかげで周囲には許容された。体力的な問題もあったが、なんとか若さで乗り切ることができた。しかしひと月も経たたない内に窮地に立たされた。仕事の後、笹倉に呼び出されてオフィスで初めて社長と面会すると、身分証の提示を求められた。持っていないと答えると、社長はあからさまに不審そうな表情で溜息をついた。 梁神(はりかみ)社長は移住前に提出された免許証の写しが、俺と勝野の容姿があきらかに別人である事を示していると言った。また一緒に働いている漁師たちから聞き取りした内容によると、年齢はどう見ても20代、関東出身だと思われる。どちらも本物の勝野の戸籍謄本の写しと違っているのだという。…あたり前だ、別人なのだから。

 何も答えずやり過ごそうとしたが、最終的に身の上が不明なままではこのまま働かせることはできない、1週間後に本土に渡る船に乗せる、と結論を出された。それまでは寮に住んでいい、食事も出してやるからこれ以上働くな、と彼らからすれば十分すぎる程の温情措置だったが、俺は激しく動揺した。

「1年間だけ、このまま働かせてもらえませんか?」と声を絞り出し、縋るように願った。

「ダメダメ」と社長は無情に答えた。

「事情をきちんと説明してみろ、内容によっちゃあきちんと手続きした上で、改めて移住させてやれるかもしれん」と笹倉は…今思えばかなり優しい事を言ってくれたのだが、この時は社長以上の拒絶に聞こえた。内容を説明できるはずがないだろう、淫行で仕事をクビになったんだよ、それから傷害事件を起こして逃走中なんだよ。…だからってなんだ! 他の漁師たち…あんな柄の悪い奴らだって、どうせ前科者だったり、借金で頸が回らなくなったりしたんだろう? 傷害や強姦を犯した奴だっているに違いない。…俺と同じだ。

「どうしても言えないのか?」

 俺は下を向いて、無言を貫く事しかできなかった。

「か~っ、ヤバい奴なんじゃないのか? 逃亡中かも知れんぞ」と社長に芯を突かれて、

「ち、違います!」と思わず大声を出してしまった。「東京で会社員をやっていたんですが、クビになってしまって、住んでいたところも追い出されて、 そ、それで、食い詰めてしまって…」

 少し間をおいて、「なんかベタだな、疑わしい」と社長が言った。

「これ以上どうこう言っても無理みたいだな、悪いようにはしねえから、寮で大人しくしていろ。社長、それでいいですね?」

「絶対仕事に関わらせるんじゃないぞ」

 笹倉は社長に向かって頭を下げた。それから俺の前に来ると、

「もう行け、寮から出るんじゃないぞ。この島ん中じゃ、他に行き場所なんてないからな」と言って、俺の両肩をつかんだ。ものすごい腕力だった。もしも逃走したら、必ず捕まえて締め上げる、そう脅かされている気分になった。

 俺は黙ったまま退室した。…逃亡先としてこの島以上の場所はなかった。ネットも携帯電話も、テレビはNHKすら(ろく)に繋がらない。俺の事は…些細な傷害事件だろうから報道までされていないと思う…しかし能動的に調べられたら、警察に直接問い合わせをされたら、発覚するのは時間の問題だ。1週間…無理だ、悠長にしていられない。

 その日の夜は警戒されている可能性があったため動かず、その翌日の夜に寮から脱走した。寮の備品倉庫からカバンに食料…缶詰やインスタント食品、水のペットボトル、医薬品を可能な限り詰めこんで、1階にある共同トイレの窓口から抜け出した。漁港の近くには町があり、民家と役所の他に、商店や飲食店もそれなりにあるらしいが、なるべく人目を避けていた俺はいっさい近寄らなかった。住民のほとんどが南側に集中していると聞いていたので、海岸から西へ回って、北へ向かった。歪な形の島だが周囲は40キロ程と聞いたから、1~2回野宿すればいいと思っていた。西側や北側には廃屋がいくつかあると聞いていたから、その中になんとか暮らせる所がないか探すつもりだった。半年か1年か、ほとぼりが冷めた頃に戻って、また船に密航して移動しよう…そこまでして逃げて良い事はなにもないだろうが、その時はそう考えを纏める事で頭が一杯だった。

 島はいかにも都会人が求めるような自然美を備えていた。澄んだ夜空には満天の星が輝き、川を流れるささやかな水の音や、柔らかい虫の鳴き声が心地よく、胸をやさしく撫でてくれているような感覚を覚えた。俺は少し湿り気のある草木の匂いをかいで、ようやく…逮捕されるずっと前から感じていた焦燥感から解放された気持ちになっていった。思えば、それは少し前から徐々に変わっていったものだった。この島に来てからは、毎日へとへとになるまで働いて、食べて、ぐっすり眠る事ができた。

 食事が美味い事は大きな理由だった。島に来た翌日の朝まで、ほぼ丸一日なにも食べておらず、それでも尚食欲が沸かなかったというのに、寮で出された他愛ないみそ汁をひと口すすり、ご飯を頬張った後は(せき)を切ったように溢れ出した。毎日ほとんど変わり映えなく出される干物や刺身、生卵や野菜サラダをすべて平らげ、毎食満足していた。他の副菜やたまに出てくる肉も…以前まで嫌いだったものまでひと欠けらも残さなかった。

 仕事については、しょっちゅう乱暴な言葉をぶつけられて心が折れそうになったが、魚介を獲る事については皆真面目で、誰もが何度も手助けしてくれた。仕事を終える時間はいつも皆が一緒だった。嫌がらせのように業務を押し付け合う事が多かった会社員時代を思うと、よっぽど健全に思えた。

 睡眠欲と食欲が共に質の良いもので満たされていると、残る性欲も過剰に膨張する事はなかった。自慰行為から完全に逃れる事はできなかったが、オフィス以外に異性が1人もいない状況に(オフィスにも年輩の女性が数名いるだけだったが)不満を感じる事はなく、むしろ諦めがついた。逃亡の身ながらも、精神は犯行前よりずっと落ち着きはじめていたのだ。

 もしもこの精神状態だったなら、あの時、あんな愚かな真似はしなかっただろう。思い返すほどに後悔が積み重なった。どうして同僚に1発殴られただけだったのに、自分は1発返すだけで済ませられなかったのか。どうしてファミレスで勃起したまま席を立たなかったのか。…あの女の子は、俺が挿入する時、どんな表情をしていたのだろうか。


 精神の安定はそれから3日間、夏に移り変わっていた気温の下で歩き続けた事で、すっかり失われてしまった。海岸を歩く道はすぐに険しいものになって、やがて道と呼べるものはなくなっていた。海から離れ、川の傍を歩いたが、一向に廃屋は見つからず、どんどん山奥に入っていってしまった事に気づいた時には、もう手遅れだった。小さな島というのは確かだろうが、それでも方向を見失ってしまえば遭難する。ましてや都会育ちのインドア派が、森の中で安心して野宿できるはずはなく、ほとんど不眠で歩き続けるうちに、体力と精神はたった3日で限界近くまですり減ってしまった。

 背の高い木々に囲まれた土の上に腰を下ろし、バッグの中にしまってあった携帯電話を手に取り、開いた。やはり電波は立っていない。さっさとスマホに変えとけば良かった…いや、同じか。今もしも1回でも通じるならば、警察を呼んで自首するのに、と思った。そして、自分の人生はここで終わるのだと思った。もうこの迷宮から脱出する術も、気力もないと感じた。わずかに残った体力だけを駆使し、もう一度立ち上がった。食料と水を切らしたバッグは放置して、俺は死に場所を求めて森の中を彷徨(さまよ)った。

 その道中で、俺は繰り返し自身の運命を呪った。同僚を呪った。女子高生を呪った。会社を呪い、社会を呪い、とうとう親しい友達や両親まで呪った。欲望が満たされないと、心は簡単に善から悪へとすり替わる事を自覚した。ずっと善人だと思っていた自分は、実は下劣で凶暴な悪人だった、しかし善の心は奥底にまだ残っていると知った、しかし最後はまた悪に代わり、そしてそのまま死ぬんだ。

 何処(どこ)か、高い所から飛び降りる事ができないか探した。崖はないか、穴はないか…。腹が減った、米だけでも、何でもいいから腹いっぱい食べたい。やわらかい床の上で眠りたい、あとは何も要らない。そのまま死んだって構わない。早く解放されたい。意識がはっきりしない。もう限界だが、このまま倒れたら、しばらくしたらまた目覚めてしまう。その時はもう身動きできなくなっているかも知れない。餓死は嫌だ。害獣や虫に食べられるのは嫌だ。何処か…どこかないか。

 視界全体が7割以下に狭まって、全体に霞がかかっているようだった。

 ああ…大きな穴がある。これは幻か? 大きな、黒い穴だ。これは下にあるのか? 前にあるのか? 上にあるのか? わからない。俺の体が今どの方向を向いているのか。足が土や石を踏んでいない。 浮いているのか? 落ちているのか? なにがある? 俺の周りになにがある? なにかがたくさんいる。大きいものがいる。一体なんだ?

 ああ…おかしいと思っていた。こんな島が存在するなんて、聞いたことがない。いろいろ変なところがあると思っていた。見た事がない魚を獲っていた。異常に美味い…あんな魚、現実にはないはずだ。 他にも…こんな田舎に、どうして下水や電気が完璧に整備されているんだ? どうして新しい船があんなにたくさんあるんだ? どうして社長はあんないい車を持っているんだ? どうして島の西側には、あんなに若くてきれいな外人達が住んでいるんだ?


 ここは現実じゃない。俺はきっと同僚に殴られて、生死の境にいる。

 俺は吸い込まれるように穴に落ちた。

 良かった…ようやく目覚める。解放される。


次回「害毒 Part 2」

は来週末(~10/19)までになんとか


腰が痛い…


あ~、この話書いてて病む

さっさとカンペンたちを描きたい

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
途中まで廉藤の身の上の話かと思ってドキドキし、軽く失望しかけてしまいました。 結果別人の話でホッとしたのですが、それにしても番外編とはいえ作風の違いに驚いてしまいました。 ぶっ込んできましたね。 本…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ