第3話「アニメやゲームはお好きですか?」
入国制限が撤廃された上、円安の影響もあって訪日観光客が増大する中、いくら連休前と言っても、30前の平凡なサラリーマンの貯蓄では、リゾート気分を味わえる開放感あふれる自然の景色と清潔が保証された宿、美味しい食事と丁寧なサービス、そして何よりも求める静穏、つまり騒々しい多数の観光客がいない空間を望むのは、あまりに身の程知らずの事だった。レンタカーを借りて当てのない気楽なドライブ旅行とか…と考えてみたが、かなりの高確率で車中泊となる予測が立ち、その惨めなイメージで泣きそうになってしまった。検索に疲れ果て、ほぼ断念して眠りについた翌朝、再び鬱状態が来襲する事を恐れた僕は、とにかく着替えて外出する事にした。
定期券で行ける範囲、かつなるべく会社から離れたところ、副都心のいくつかの駅で電車の乗り降りを繰り返し、7軒の旅行代理店を巡り歩いた。内5軒はパンフレットを数冊取っただけでスルーし、2軒はそれぞれ10分足らずで相談が終わった。もちろん希望条件に該当する商品はなし、という結果だった。
今でも結構店舗窓口が利用されているんだな。従業員とカウンターで相談している客はほとんどが二人連れで、実に楽しそうだ。代理店であれこれ相談することもレジャーのひとつと捉えているのだろう。こういう場所は今の僕には辛い。
ネットに掲載されていない商品があるわけないか。せっかくだからせめて何か食って帰ろう、カウンター席がある店がいいな…と卑屈な気持ちで8軒目の代理店をスルーしようとした時、その店舗内の追いやられたような片隅にあるカウンターの奥で、座っているひとりの女の子の顔を見た。最初彼女は俯き加減だったが、僕が視線を向けると感づいたように顔を上げたのだ。10メートルほど離れていてもかわいい、とわかる程目立つルックスに、僕は吸い寄せられるように店内に戻っていった。さっき声掛けされそうになったのを避けた男性店員の、訝んだ表情が視界の端に入ったが、そんなものは無視だ。
「いらっしゃいませ」
彼女は立ち上がり、かわいい笑顔で一礼した。肩までの茶色のセミロング、太めのナチュラル眉、丸くて大きな瞳、角度のちょうどいい鼻、大きめだが口角が上がったすっきりとした口、きれいに並んだ白い歯、少し焼けた健康的な肌色、そして150センチほどと思われる小柄だが、均整の取れたスタイル。清潔感もあって、育ちの良さを推察できる。日本の男が理想とする女の子の、基本タイプのひとつだろう。
僕も軽く頭を下げながら、リュックを足元に降ろして向かいの席に座ると、彼女はすぐにこちら側に来て、「お荷物をこちらにどうぞ」と言って床上に籠を置いてくれた。きびきびとしながらも、男心をくすぐる、あざとくてかわいらしい仕草(手の指先を全てぴんと張って手首を反らし、歩幅を狭く、早歩きで向かい側に戻る、ペンギンのような姿)を見て、10分では帰らないぞ、と心に決めた。
「連休前に少し休養したいと思っておりまして、ひとりなんですが」
「連休前ですか? そうすると、明日か明後日からのご予定になるわけですね?」
やはり声も発音もかわいらしい。そしてちょっと嘘くさい。
「さすがに無理ですかね。国内なら近場でも、遠くでもいいんです。きれいな景色と静けささえあれば。少しの間、現実を忘れさせてくれそうな場所に行きたいな~、と」
「相当お疲れでいらっしゃる?」
「ええ、まあ」
「ございます。ちょうど良いのが、というか、私共の商品はただひとつなのです」
「ひとつ? あっちにいっぱいパンフレットがあったけれど」
「あちらは全て別会社さんの商品でして…。実は、私共はこの店舗の一部を間借りさせて頂いておりまして、ええ、この一角だけ、わたしひとりでただひとつのパックを販売させて頂いております。なにしろケチな地元産の観光業者でございまして…へえ」
なぜか子分口調になっている様子もかわいらしい。そうか、ひとりで、しかも競合他社の庇を借りて仕事させられているのか…
「どんな商品ですか?」
「こちらです」
彼女は印刷されたチラシをデスクの上に置いた。今時カウンターでチラシって…。しかしこのカウンターだけは、タブレットもPCも置いていないようだ。
異世界の旅3泊4日!!
朝夕食事付きおひとり様
特価税込4万円~
わずか一枚のチラシの表面の4割弱を、その3行の文字が埋めていた。明朝体をやや崩した白文字のフォントを、赤とオレンジ、水色、緑、ピンク色のブラーで囲んでいる、異世界の文字が最も大きく、漢字のはらいの部分が反り返っていて、マジカルな雰囲気を出しているように感じる。そしてその下に一行で表示できるよう、幾分か小さくしたサイズの丸ゴシックで、東京港発着のフェリー往復乗船チケット代込み、とある。
「これって、八丈島とかですか?」
「八丈島ではありませんが、その近くにある島です!」
「なんていう島ですか?」
「二朱島です!」
「にあじま? 聞いたことないな」
「すっごくいい所ですよ!」
しかし聞いたことはない。
「二食付きで3泊4万円、しかもフェリー代金込みって、随分安いですけれど、食事はどんなものが出て、宿泊先はどんな所なのかな?」
「裏面を見てください!」
この娘、ずっとテンションが高いな。
裏面にはいくつか写真画像が印刷されていて、それぞれ一文で紹介されている。三段目、ちょうど真ん中あたりに宿泊施設らしき画像があって、ペンションのような三角屋根の建物と、白い内装のツインルームが写っている。どちらもきれいで、新築のように見える。バス、トイレの小さな画像もあって、浴槽はリクライニングタイプで、トイレにはウォシュレットが完備されている。いつ撮影したものかはわからないが、どれも近年の設備のように思えた。その下に食事の画像があって、大皿いっぱいに並べられている多量の白身の刺身、その右には多種の薬味や香草が乗った肉のブロックとそのピンク色の断面、ロブスターのような大きな赤と黒の甲殻が付いたエビの画像が並んでいた。
「すごいな、ほんとにこれで4万円?」
「ええ!」
「このプランに空きがあるって事なんですか?」
「ええ、空いていますよ~ もうスキスキです!」
いや、それもどうなんだろう。僕は両目を瞑って悩んでいる事を表現した。これはどう考えても安すぎる。何かその理由、裏があるはずだが、嫌な感じにならないように尋ねないとな~
「お客様、もしかして…怪しんでおられますか?」
「え?」と僕はわざとらしく反応し、照れ笑いを浮かべた。
「いやあ、そういうわけじゃないけれど」
「いえ、ご心配されるのももっともだと思います。旅行支援もとうになくなったというのに、この値段で、しかも聞いたことのない島へ旅行するなんて、本当はきっと辺鄙なところでコンビニもなくて、古くてきったない畳敷きの民宿で薄くてきったない布団を敷かれて、毎食みそ汁と魚の煮つけと干物ばかりを、きったない食器と箸で食べさせられるんじゃないか、等と思われた事でしょう」
「いや何もそこまでは…魚は好きですし」
「きちんとご説明しますね」
そう言って、彼女は制服の胸ポケットから革製の名刺入れを出し、一枚を僕に差し出した。
「申し遅れました。二朱島観光事務局の明日川です」
薄い青色の下地にダイヤと十文字の中間のような、謎の歪な形の金箔?が左側に貼られてある、紙質といい、やけに高価そうな名刺だ。行書体で明日川…小恋、すぐ下に斜体のアルファベット表記がある。―Ashitagawa Koko― ここちゃん? へえ、やはり若い子の名前だな。名前の上に肩書が印刷されている。営業・ツアーコンダクター…という事は、彼女が島の案内をしてくれるのかも知れない。
「二朱島は、最近になって著しい開発が行われております。道路が整備され、路線バスが開通し、今後は移住者を募って少なくなっていた住民を増やし、レジャー開発の他、もとからあった漁業や畜産の拡大、自然あふれる環境下での新しい産業の創設、学校や総合病院、研究所の設置等を目指しております。その一環として、本年よりこうしてセルフプロデュースによる観光事業を手掛けることになりました。つまり、これはまだテスト段階の事業でございまして、お客様は…すみません、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、はい、簾藤です」
「もしよろしければ下のお名前も…」
「響輝です」
「へえ、かっこいいお名前ですね」
「いえ全然。…君の名前は、かわいらしいよね」
「いえ~、も~名前負けしてますんで」
「いやあ、ピッタリじゃない」
言ってしまった瞬間、気持ちわるっ!と自省したが、真っ赤になった顔を慌てて両手で覆う彼女の反応に救われた。うっすら感じていたはずのあざとさは、この時すっかり吹き飛んでしまっていた。もうかわいくて仕方なかった。
「お話を戻してもいいですか?」
「うん」
顔から手を離すと、彼女の顔はもう元の肌色に戻っていた。
「実際のところ、このプランはまだテスト段階の商品となっております。もちろんこのチラシにある通り、宿泊や食事に関して、きっと簾藤様にもご満足いただけるものを準備しております。特にお料理には自信をもっております。しかし申し上げております通り、何分私も含めて地元の人間は観光客の方々への対応には、色々と不慣れな点もございます。また開発が進んでいるとはいえ小さな島ですので、今のところきれいな景色と美味しい食事以外に売りとなるものもございません。東京に住んでおられる方にとっては、不便と感じられるところも多々ある事でしょう。そういった点を考慮致しまして、こういった値段設定となっている次第です」
「はあ、なるほどねぇ」
「でもでも、ほんっとにきれいな景色でして、食べ物はほんっと美味しくて、めずらしい、本土では食べられないものです。他にも、今詳しく説明する事はできないのですが、いえ、あのね、説明しちゃうとサプライズがなくなっちゃうから…」
丁寧語を失う様が、やっぱりかわいい。
「きれいな景色と宿泊設備、食事が美味しいってところで十分なんだけれど。そうだな、そんなに他の観光客もいないのかな」
「ええ、このパック、最速の出発は明後日なんですけれど、今のところさっきも言ったようにスッキスキです」
「そうなんだ…」
「スキスキですよ~、静かですよ~、スキスキ~」
なんだか呪文のように聞こえてきた。
「この…異世界の旅ってヤツだけれど」
「ええ」
「どういう意味?」
「異世界っぽくないですか? 写真とか」
「う~ん」 表面には文字の背景にエメラルドグリーンの海、白い砂浜と入り江の写真があって、裏面にはランプのようなオレンジ色の街灯が並んだ石畳の道、レンガ造りのなんだかわからない洋風の建物、黄や紫の花畑といった美しい景色と、壁にかかった西洋の剣や斧、ビールが並々と注がれた木製の樽型カップに三角にカットされたチーズ、広い草原にいる馬やポニー、羊、牛の画像が載っている。
「まあ異世界…なのかな」そりゃあまあ、こんなもんだろう
「もっと違うのをイメージされました?」
「え?」
「もっと、西洋のお城とか、白馬に跨った耳の大きな金髪の女の子とか、大きな宝石を先につけた杖とか、身長を超えた大剣とか、黒い騎士とか、ゴッドハンドとか…」
「いやいや」
「れん…響輝さんって、アニメとかゲームとかお好きな方ですか? ライトノベルとか読まれます?」
「いや…あ、若いころは、高校生くらいまではたまに読んでいたかなあ。アニメとかも…そういうの好きな友達がいたから。社会人になってからはそんな時間の余裕もなくって、もう10年以上リタイヤしたままかな」 社会人になってからは本当だ。しかしそれ以前は嘘だ。大学卒業までがっつり見ていた。プレイしていた。読んでいた。毎晩夜更かしするほどに…。
「まだ流行ってんのかな、異世界ファンタジーとかって」
「流行ってますよ。現実世界で死んで転生するか、どっかの誰かに召喚されたりして、その世界で英雄になったり、魔法使いになったり、魔王や魔物になったり、お姫様や悪役令嬢や、商人や農民や料理人や、ありとあらゆるものになって、でもやっぱり最強でハーレム作って、隠居して子供作りまくるんですよ」
「そうなんだ」 …まあ若干知っているけれど。
「え、明日川さんはそういうの好きなの?」
「ええ、オタクですよ~」
「へえ、意外」
「そうですか? 私の周りの子達も、ほぼみんなアニメや漫画オタですよ。もうオタクってとっくに社会に認知されているから、皆オープンです」
「そうだね、会社の後輩にも多いよ」
「元オタでいらっしゃるなら、きっとお楽しみいただけますよ。オタは完治しませんから」
彼女はテーブルの下から自分のビジネスバッグを取り出し、膝の上に置いて中から紙を一枚取り出した。またチラシだ。
内緒話をするような小さな声で、「響輝さんにだけお見せします。このチラシはチェックが入ってNGになったんですけれど。見たことは内緒にしてくださいね」と言って、それを僕に手渡した。
最初のチラシと違う箇所は、表面の背景だけだ。日中の入り江と海、砂浜だった写真が、夕方の砂浜に差し替えられている。いや、こちらが元のものだったのか。
「これ何?」
薄赤に照らされた砂浜に、円柱が立っていた。明確に比較できるものがないが、おそらく高さが3メートル程ありそうだ。海の上に夕日があって、円柱はシルエットになっているが、おそらく白色かグレーだろう。
「何だと思います?」
彼女は小さな声を続けたので、僕も合わせた。
「…モノリスとか」
「ああ、スペースオデッセイですか。うん、結構いい線行ってますよ」
「ええ、なんだろう」
「ちょっとそれは言えませんが、異世界です」
「え?」
「異世界なんです」
この円柱が決め手になったわけではないが、僕はこの後さらに20分、彼女と話し続けた。
次話(第4話「甘口・中辛・辛口」)