第27話「雲立 Part 1」
平日とはいえ休暇中なのだから、始業前に出勤しなければならない義務はない。いまさら有休は取り消せないのだから。上司との約束は午前10時15分、1時間前に家を出ればいい。僕は床に置いてある、着替えを入れてパンパンに膨らんだリュックとビジネス鞄を見つめた。
出社する前にクリーニング店に寄って、作業着を受け取らなくちゃならない。…荷物が多いなあ。一旦マンションに持って帰るほど時間の余裕はないだろうし、鞄だけ駅のロッカーに預けるか。いや、よそう、帰ってこられるか不明だ。それと、休暇中なのにスーツを着て行かなくちゃならないだろうか。 僕は鞄に忍ばせた退職届を取出して見て、しばし考え込んだ。やはり…礼儀ってもんがあるしな。
それから僕はスマホで実家に電話をかけた。午前8時半だが、おそらく両親はとうに起きていて、まだ在宅中だろう。55歳で早期リタイアした父は、6年前から田舎で祖父から受け継いだ農業を営みつつ、時折パートに出て生計をたてている。母もパート勤めなので贅沢は望めないが、ストレスの少ない生活をのんびりと過ごしている。
無事に旅先から帰った事を伝えるだけにしておこうと思ったのだが、またしばらくの間電話が繋がり難くなる理由をどう説明しようか迷いながら話している内に、余計な事を話題にしてしまった。 真実と本意を隠している事に堪えられず、つい吐き出してしまったのだろう.。 …もちろんかなり改変を加えての事だが。
“もしかしたら仕事を辞めるかもしれない“ という息子の言葉に、親が反応しないわけがない。電話口が母から父へと代わって、その後も度々入れ代わったのだが、面倒だし、長電話するつもりもなかったので、スピーカーフォンに切り替える事を提案しなかった。
両親はともに僕の意思を尊重するような口ぶりで…実際のところは反対していた。 “地方へ転勤なんて、サラリーマンならよくある事だ” “左遷なんて思うのは単なる被害妄想” “今は辛抱の時期” …どれもこれも利いた風な言葉だったので、どうにも心に響かなかった。そんな事はわかっているんだよ。
それらの常識的な意見を躱すために、もっと意義のある仕事をしたいと思っている、というような事を言ってしまったのが失敗だった。体の不自由な人やお年寄り等、困っている人の役に立ちたいとか、過疎地域の人口問題に取り組みたいとか、挙句に紛争地帯の避難民の生活を助けたい、とか言い出した僕に、両親はかなり戸惑った様子だった。(声の様子と沈黙で、それは十分に分かった)
しまった、と思ったのだがもう止められない。”様々な社会問題、国際問題、人権問題にこれ以上は無関心を装っていられない” “体が丈夫なうちにそういう経験を積んでおくべきと思っている” 等と朝っぱらから火照った体と心から、勝手に言葉が放出されてしまった。
「つまり…介護士になるのか? もしくは青年海外協力隊に入りたい、と思っているのか? ありゃあ お前、どちらも大変な仕事だぞ。 サラリーマンが嫌だ、つって辞めたヤツが、そんな気軽に勤まるようなもんじゃないぞ」と、父親の言葉に説教が混ざりはじめた。
…ごもっともだ。もしも同年代の友人がそんな事を言い出したとしたら、僕も似たような説教をしただろう。少し落ち着こうと考えたのだが、電話口が母親に代わって、追い打ちがかかってしまった。
「あんた、旅先で変な女の子に捕まったんじゃないだろうね!」
「はい?」
「勧誘でもされたんだろ? それか…どっかの辺鄙な島に行ったと言ってたね。そこに住んでいる娘にたぶらかされたんだろ。 お母さんね、そういうのはうまくいかないと思うの。 きっとその一夜限りのね、遊びだったと思うよ。 騙されてんの!」
「ち、ちがうわ、勝手に話つくんな! ってか母親がそんな事言ってんじゃねーよ、気持ちわりーわ!」
(なんだこいつ…千里眼だったのか?)
双方ともヒートアップしてしまったので、話は後日に持ち越すことになってしまった。 “くれぐれも早まるなよ” という忠告に従う…ふりをしておくしかなかった。まさか今日この後退職しようとしているとは、そして二朱島にとんぼ返りしようとしているとは、思いもよらなかっただろう。僕はこの時、胸がチクリと痛むのを感じた。
休暇中だというのに上司に暗に出勤を命じられた理由は、引継ぎ業務について問題が生じていたせいである。休暇に入る前に自身が担当していた各取引先への通達はすべてメールと電話で済ませており、客先については、可能な限り後任者を連れて足を運んでいた。…可能な限りという事は、双方の都合をどうしても合わせられず、きちんと挨拶ができなかった所もあったという事だ。その客先とは契約の更新を控えていたのだが、その前に僕が転勤する事になってしまったので、後任者が挨拶に伺うと共に、契約内容について改めて確認し合う事になっていた。 しかしその問い合わせが一向にないため、不安に思っているとの相談が僕の休暇中に届いた。当然そのフォローは後任が行うべきなのだが、当の後任担当者が “そんな話は聞いていなかった” と言い出してすぐに対応せず、またクライアント側の担当部長が改めて引継ぎと契約内容詳細について事前確認を行うため、本日わざわざこちらに足を運んでくれる事になったのだ。当然後任者と共に前任者が同席し、謝罪申し上げるべき、というのが上司の意見だった。同意するが、後任者の責任逃れの態度には大いに異議を唱えた。引継ぎ業務の書面の中にその事はしっかりと記載しているし、なんなら重要項目のひとつに挙げている。その書面はメールで提出しているし、CCには上司を入れているから言い逃れはできないはずだ…が、昨日の上司とのメールのやり取りの中で、”重要な事は口頭でも説明しておくべき” との注意を受けた。もちろん口頭でも説明している。しかしその場に同席していた者がいない限り、どうやってそれを証明できる?
案の定、後任者はクライアントが機嫌を直して帰っていくと、僕にひと言も詫びる事なく、メールで受け取った書類の事にも言及せず、無視するようにさっさと商談室から出て行った。
僕は憤懣を隠せない態度で上司に向かって
「あんなので大丈夫なんですか?」と訴えたが、
「知るか、どうせもう関係ない」と返ってきた。
そう言えば、この上司もあと1か月で転勤と聞いた。確か単身赴任になるはず…。
この人に話しても意味ないか。人事に直接持って行こうかな? でも一応…
「すみません、ちょっとこの後、お話いいですか?」
「ええ? 忙しいんだよな~ お前だってせっかくの休暇中だろ?」
「そうですが、折り入って…」
「お前が俺に相談だなんて… おい待てよ、お前、まさか…」
僕は無言で返した。
「え~ ちょっと待ってくれよ、そんな事を連休前に… もう決めたのか?」
「いや、その…」
「悩んでんなら、もう少し待てよ」
上司は声を落とした。周囲に聞かれてしまうと後戻りできなくなるかも知れない。つい僕も合わせてしまった。
「休暇中に思い込んでしまうことはよくある。気の迷いだよ。 転勤してから、せめて半年くらい働いてみて、どうしても無理だったなら… それからでもいいだろ? どうせすぐには応じてもらえんぞ」
…その時はあんたが上司じゃないだろうしな。
「思うところがありまして…」
「…お前、俺が嫌がらせで転勤させるよう画策した、とか思ってんじゃないだろうな」
「いや別にそんな…… してませんか?」
「してねーよ! …少し、推薦するような意見を言っただけだ」
「してんじゃないですか」
「ばか、お前 …嫌がらせじゃねえよ。 お前なら、それなりに仕事をこなせるんじゃないかと思ったんだよ」
「え?」
「大した営業成績はないが、取引先を怒らせるような事もしなかったしな。調整能力はあると思ったんだよ」
「僕ひとりしかいない所で、何を調整しろってんですか」
「そりゃそうだが… なにもこの先ずっとひとりという訳じゃない。見込みが立つようならば必ず増員される」
「見込みったって、どうしろってんですか」
「そいつは本社の指示ってもんがあるだろう。お前、何も考えてないのか?」
「え?」
「転勤先が決まった時、とりあえずお前が責任者になるわけじゃないか。お前自身、なにも当てがない場所でどこへ営業かけようか、何か考えなかったのか?」
「まあ… どうせ失うものがないので、本社の許可さえもらえたなら、競合先へ挨拶に行こうかと思っていましたけれど」
「競合先?」
「だって、どうせシェアを奪うなんてできっこないでしょうから、せめてお手伝いできる事がないか、手が回らない所に協力させてもらう事はできないかって、尋ねてみるくらいはできるかなと…」
「ほう…」
「もちろん販売できるものは限定されるでしょうし、契約内容もややこしくなるし、利益率も低いでしょうが、それでも何もないよりかマシかと…。それに、ケンカしたってお互い益はないでしょう? あっちが有利な土地なら、それを侵害するようなマネはしないで、出しゃばらないように気をつけて、穏やかに協力関係を築いたほうがいいんじゃないかと…」
「うん …そういうとこだよ」
「はあ?」
「敵地へひとりで乗り込んで、頭を下げまくってこようなんて考えるヤツ、なかなかいないぞ」
「…褒めてんですか?」
「褒めてんだよ。 上の人間はプライドばっか高くてドンパチする事しか考えていない。不利な戦場を緩衝地帯にしようという考えはいい。 下手に出て、ゆっくり静かに懐深く忍び込んで、油断させて、いつかひっくり返せる時を待つ。 …いい戦略だ。さすがだよ」
ちょっとバカにしているな… 絶対に。
「そんな単純にいくわけないでしょう」
「それがわかってんなら大丈夫だ。 きっとそれなりにやれるさ」
そう言って僕の肩をポンと叩くと、上司は足早に部屋を出て行った。
…ごまかされた。でも、本当は引き留められてほっとしたのかも知れない。
僕はまた左の胸がチクリと痛むのを感じた。
まずいな…。もしも退職届が受理されていたとしたら、すぐに辞めることは無理だとしても、転勤がなくなる可能性はあった。そうなったら引っ越しをキャンセルし、すぐに島に戻って自分の意思を小恋ちゃんと町長、そしてクゥクゥ達に伝えて、退職後(おそらく2週間から1か月後)に正式に移住して、カンペン達との約束を守る、島と異世界の問題に真剣に取り組んでみよう、そう考えていた。
しかし僕は鞄の中に退職届をしまったまま会社を出て、東京港に向かった。何ひとつ整理できなかった。僕は昨日のままの自分だった。
どうするんだ? このまま島に戻って、正直に事情を説明したとして… 皆ポカーンだろうな。 小恋ちゃんはあっという間に、何も片付けないまま戻って来た僕をどう思うだろう。
‶え? じゃあ、着替えを取り換えるために一旦帰ったって事ですか?” “今度は何泊のご予定で? ご予約は?” いや、もっとシンプルに… ”馬鹿じゃないの?”
サドルの冷たい表情が目に浮かぶ。カンペンやオロにはなにか恐ろしい事を言われそうだ。…美形たちに嫌われると、きっと心のダメージが大きいだろう。
ホントに胸がシクシクする。時折ピリリと痺れるような痛みが走る。…今朝からどうもおかしい、ストレスだけのせいじゃない。まさか、異世界に行った事で体になんらかの異変が生じたんじゃないだろうか。
ポートシティ内を歩いていた僕は立ち止まって、スーツの上から胸を何度かさすった。違和感があるが、これは体の中じゃない、外側だ。
「あっ、そうか」
僕は内ポケットのボタンを外し、それを取り出した。 小メェメェ…落とさないよう大事に身に付けていた。少し熱い…もしかしてこいつのせいか? そう思った途端、握った手に電気が通ったかのような痛みが走った。僕は思わず手を放してしまったが、小メェメェはその位置をキープした、つまり宙に浮いた。僕は慌ててもう一度それを掴んで、辺りを見渡した。誰も見ていなかったようだ。
電流(?)は弱まったようだが、まだ少し熱い。僕は指先でつまむように持ち直し、またポケットにしまおうとしたのだが、
「待て!」という覚えのある野太い、それでいてはっきりした声が聞こえると、言う通りにするしかなかった。その声は触れた指から腕と首を伝い、脳に直接届いているように感じた。
「メェメェ…様、ですか?」
「そうだ」
「もしかしてこれ、島と繋がっているんですか?」
「そうだ」
「そんな事できたんですか?」
「できるようになったんだ」
「でも、一体どうして…」
「お前を警護するためと、監視するためだ」
「警護? 監視?」
「今は質問よりも、周りに気を配った方がいいんじゃないか?」
膨れ上がったリュックを背負い、ビジネス鞄と紙袋を左手に、麻雀の点棒みたいなものを右手でつまんで持って、さらにそれに向かって大きい声で話しているサラリーマンの姿に、周囲が奇異の目を向けてしまうのはやむを得ない事だったろう。
僕は急いでテラスに出ると、人目を避けるよう隅の方に行って、さらに小メェメェを携帯電話に見立てるように握って、右耳にあてた。
「ちくちく痛かったのは、マエマエ様がやっていたんですか?」
「そうだ」
「どうしてそんな事を…」
「どうして? それはこっちのセリフだ。 なんなんだお前は。 覚悟を決めて身辺を整理してくるような態度を見せていたから黙って見守っていたが、なんて優柔不断な奴だ。何もかも周りに言われるがままじゃねえか。 自分の意志ってもんがないのか?」
「あ、ありますよ。真剣に考えていましたよ。でもその…皆の意見がその、どれも納得してしまって。どれもこれも正しいように思えて」
はぁ~、とメェメェが深いため息をついた。どうしてそんなに人間臭いんだ。
「お前にとって、一番大事なものはなんだ?」
「え?」
「仕事か? 家族か? それとも女か?」
「いやその、ですから、 …どれも大事ですよね」
「じゃあ正義感は! 親に話していただろう。 社会を良くしたい、争いをなくしたい、弱者を救いたいっていう思いは、それらより弱いのか!」
「もちろんそういうのも大切だと思ってますよ。けど…」
「けど、なんだ?」
「正直に言うと、自分には荷が重いかな、って…」
「かっ 呆れたよ!」
「何度も言ってますが、僕はただのサラリーマンですよ、無理もないでしょう?」
「俺をなんだと思っている! お前は強大な、偉大なる力を得たんだぞ。無限のエネルギー、積み上げられてきた膨大な英知、全ての知的生命体が平伏するほどの尊敬、それらを以てして、どんな重い荷があるってんだ」
「…それは、マエマエ様の力でしょう?」
「当たり前だ。…だが、お前の力でもあるんだ。何度も説明したろう」
「これも何度も聞いていますが… どうして僕なんですか?」
「才能としか説明ができん」
「他のマエマエ様が選んだ…雲妻さんや綾里さんにも、同じように才能があるって事ですか?」
「そうだと思う」
「思う、って…」
殺人のトリガーを引く才能だなんて…ただのサイコパスじゃないか。
「本土から来た旅行者、ってとこしか共通点が見当たらないんですが」
「それは選択理由の一つであって、才能とは関係ない。偶然4人が揃ってニアに訪れたという事は、それはもう運命と言っていい」
「運命って…」
「あの2人…2組は、あれからどんどん成長しているんだぞ。もう分身も10を超えている。きっと相棒を迎えたことで促進されたんだ。どうして異世界へ行った俺が一番びりっけつなんだよ! お前のせいだ!お前のその煮え切らない、状況によって意志をコロコロ変える、この上ないほどの優柔不断っぷりのせいだ! どこまで流されていくんだお前は! リバー・ランズ・スルー・イットか!」
何わけのわからない事を…。
「ですから、島には戻りますよ。今こうして向かっているじゃないですか」
「それで、休みが終わったらまた帰るのか? 次は盆か? 正月か?」
「それは…」
「その頃には、俺たち役立たずの立場なんてどこにもないだろうよ」
「メェメェ様…」
「なんだ?」
「あの、お体の一部が変色していた件ですが… 赤…紫色に」
「それは…原因はわからねえ」
「その、異世界で会った変異体と同じっていうわけじゃ…」
「だからわからねえよ。とりあえず特に異変はねえ。…俺も焦った」
「周りにはまだ気づかれていないんですか?」
「今のところは隠し通せている…たぶん」
まだ下半身を汚したままにしているのか?
「もしも変色が一部で済まなくなっちまったらどうなるか… いずれにせよ、時間は少ないって事だ」
今度は僕がため息をついた。 この状況で島に戻っても、僕にできる事は謝る事だけじゃないだろうか。変異体よりはるかに戦闘能力が劣っている上に、変異体と同じように狂う恐れがあるメェメェじゃあ、足手まといどころか、不安要素でしかない。
「おい、休みはいつまでだ?」
「休みは来週の月曜まで、あと6日ありますが、いろいろとやる事がありまして…」
「だから何日あるんだ?」
「い、5日、いえ、4日です」
「たった4日か…。しかし、あいつらは2日足らずであそこまで成長したんだ。俺にもできないはずが…いや、それ以上になれる可能性だってある。…ならば善は急げだ! さっさと帰ってこい!」
「さっさと言われても…なら、迎えに来ていただけないですか?」
「こっちはこっちで成長を図ってるんだよ。勉強する事がいっぱいなんだ。お前も来る間に努力しておけ」
「努力ったって… 何をすればいいのか」
「とにかく覚悟を決めておけ。そして心を、お前の本当の気持ちを解放しろ、それが俺の成長に役立つんだ」
「意味がわかりません」
「開き直れって事だよ。 もっとも、言われてできるヤツだったらこんなに手間取っていないがな。 とにかく俺に言えることはそれだけだ! 期待しているからな。また連絡する」
そう言って、本当に電話が切れたかのように通信は切れてしまった。
…まさか4日間でまた異世界に行って、変異体を倒して帰ってくるつもりなのか? そんな事できるわけない…だろう? 3人のメェメェ達がすべてレベルアップしたとしたても、変異体のレベルがどれくらいなのか。数値が分かるわけじゃないんだろ? ゲームじゃないんだからさ…。
とりあえず島に戻ってするべきは、他の2人のメェメェと合流する事なのかも知れない。雲妻は所在不明だが、綾里さん達は小恋ちゃんが保護していると言っていた。皆で相談しあって、その後でクゥクゥ達とも話して、建設的に物事を進めるしかない。クゥクゥは僕を不審がるかも知れないけれど、そこは町長に取りなしてもらうしかないか…。
それとも、いっそ嘘をついてしまおうか。 “仕事を辞めてきた“ ”二朱島のために、クゥクゥのために力を尽くす“ と自信満々に、高らかに宣言すれば、小恋ちゃんやカンペン達からの評価は爆上がりになるんじゃないか。 そうだよ! もともとそのつもりだったんだ。4日間で片付けてやればいいんだろ! それでその後、また島を去っていくんだ。そして今度こそ本当に辞職して、しばらくしてから島に戻ってくる。 つまりヒーローの帰還だ! 小恋ちゃんやカンペンはきっと涙を流しながら僕に… いやいや、そんなにうまくいくわけがないだろ。脳みそが蒸発しているのか? どうせ何もできないままタイムリミットがきて、僕は白状するんだ。 …今度こそ呆れられるぞ。ボートか、ヘタしたら手漕ぎ船で帰れ、と言われるかもしれない。絶対嫌だ。その場合は嘘をつき通すしかない。でもそうすると職務放棄になっちゃうし、引っ越しもすっぽかすわけだから親に多大な迷惑がかかる…。 さすがにそこまで無責任になれない。 ああ、せめて休職願いを出しておけば…。今からでも親に説明しておくべきか…。
そんな事を考えながら歩き続けている内に、竹芝のターミナルに着いてしまった。午後1時を過ぎていて、もはや会社に戻る事も、両親に電話してきちんと説明する余裕もない。どうせ休職も納得できる説明も無理だろうけど。
二朱島に行った時に乗ったフェリーが停泊していた。埠頭には他にも大型のフェリーや小型のジェット船があった。明日川町長は僕が今日島に戻るつもりと予想しているような口ぶりだったが、乗船の予約をしているはずはなく、窓口でチケットを販売しているわけでもない。町長と、もしくは秘書と会う事ができなければ乗船できないんじゃないか、という事に今更気づいた。荷の積み込みはすでに終えているようで、前も後ろも開口部は閉じられてしまっている。タラップが降りているが、まさか密航するわけにもいかない。
天候が悪い。そう言えば今日の天候は午後から崩れる予想だった。鉛を含んだようなどす黒い、厚い雲が空を覆い始めていた。
僕は待合所にいったん戻った。帰省客や観光客で賑わっている。僕のような野暮ったいスーツを着ている者は、他には見当たらなかった。町長も秘書も、曽野上や島の人間もいないようだ。出港の1時間前だから、すでに乗船しているのかも知れない。50名の観光客というのも…どのグループなのか知る由もなかった。
ああ、町長の連絡先を聞いておくべきだった。どうにも僕はうかつだ。はっきりと自分の意志を固めていないから、考えが及んでいないんだ。流されている…メェメェの言う通りだ。こんなんじゃダメだ。 上司は僕がどこに行ってもそれなりに仕事をこなせる、なんて言ったが、まったくの買いかぶりだ。もしくは適当にあしらったんだろう。それなのに少しいい気になってしまって、退職をうやむやにしてしまって、両親にも、もっと力強く説明できていたら… 僕はよっぽど頼りないんだろうな。
空いたベンチに腰掛けた。力が抜けてしまって、だらしなく手足をだらりと伸ばした。僕は左胸に手を当ててみたが、何も反応がなかった。この状況が伝わっていないのだろうか。もしも船に乗らなかったら、きっと後でこっぴどく怒られるだろうな。もしくはとうとう愛想を尽かされて、別のパートナーを探しに離れられるかもしれない。…そうなったらもうクゥクゥに合わせる顔がなくなる。つまり2度と島に行くことはできない、小恋ちゃんや綾里さんにも会えなくなるだろう。異世界への扉は完全閉鎖だ。
ダメだ… ダメだってそれは…。いい加減にしろよ! 似たようなくだりは以前にもやっただろ! この優柔不断さはちょっとやそっとじゃ治せないだろうが、とりあえずこの場だけでも覚悟を決めろ! 流されるとしても、船に掴まりさえすればどこかに辿り着く!
僕はダン!と大きな足音をたてて立ち上がり(少し周囲を驚かせてしまって)、その勢いのまま外へ、埠頭へと走った。もう密航でもなんでもいい、見つかったら町長に会わせてくれ、と懇願しよう。断られたら駄々をこねて粘ってやれ。なにがなんでも島に戻るんだ! そしてメェメェと合流して、小恋ちゃんに謝って、サドルに謝って、カンペンに謝って、オロやザッサ、クルミン、クゥクゥ全員に謝って、異世界に行って赤紫を叩きのめす! そして4日目に帰ってくりゃあいいんだ! もうそれしかない!
僕は乗降口に立入禁止を示すようにかけてあった鎖をまたいで、タラップを駆け上った。その間は幸い誰も見ていなかったようなのだが、船内に入るとすぐに見つかってしまった。よりによって抵抗不可と最初からわかりきっている相手だったが、僕の事を知っている島民だったのは幸いだった。
「うん? 誰だ?」
昨日とほぼ同じ服を着た筋肉男は、最初、スーツ姿の僕にピンとこなかったようだ。
「お前… 家に帰ったんじゃなかったのか?」
「は、はい、あの…」
「どうしてこの船に乗ってるんだ?」
見かけは怖いが、こいつはわりと話がわかるヤツだ。
「笹倉さん、すみませんが、町長に会わせて頂けませんか?」
「どうして? なんの用だ」
「二朱島に戻りたいんです」
「町長は船の中にいるが、今大事なお客さんと歓談中だ。うちの社長も一緒だからな、俺みたいな下っ端が入ってって邪魔するわけにはいかん」
「そうですか、それが終わるのは…」
「わからん。たぶん、そのまま出港しちまうだろう」
「じゃあ秘書の方とか、他にお願いできる人はいませんか?」
「どうしてまた…。 詳しくは知らんが、あんた、ずいぶん面倒な事になってんだろ? もう島に来ないようにすれば、忘れちまえば、そのままお咎めなしになるんじゃないのか?」
「そうらしいですが…。 もうそれじゃあ自分の気持ちの整理がつかないんです。 どうか…」
僕は両手の荷物を床に落として、笹倉を拝むように両手を合わせて願った。
「よしてくれ」
笹倉は軽く息を吐いた。
「わかんねぇな、わざわざ面倒に巻き込まれようとするなんて。
…まあいい、悪さするような奴には見えないしな。なんとかなるだろう。乗せてやる」
「ホントですか!」
「大声を出すな。 実は…どうにもな、きな臭いんだ」
「え?」
「なんか不穏な感じがする。なにかこれから、島にとってヤバい事が起こりそうな気がする」
町長もそんな事を言っていたが…。
「え、具体的には?」
「大事な客ってのが、その取り巻き連中も… そりゃお偉いさんだろうから素人じゃないのは当然かも知れんが、それにしてもヤバい雰囲気をまとってやがる」
笹倉が手招きして、僕について来るよう示した。廊下を通って、電灯が消えたままの暗い階段を降りて行った。
「あんた、島の資源を大切にしろってな青臭いことを言っていたな。 その言葉、信じるぞ」
「え?」
「俺だってな、 まあそれなりに島の事は大切に思っている。 行儀の悪い仕事仲間の連中も同じだ。 島は故郷をなくした俺たちの居場所だからな。島のもんに追い出されるならともかく、外の奴らに無闇に荒らされたくはねえ」
「は、はい」
「お前が何か、島の大きな秘密に触れたんだとしたら、それが何かは知らんが、島のためにそれを守ろうとしているなら、俺たちだって協力しなきゃならん。 そういう事でいいか?」
「…ええ」
「よし」
笹倉が扉のカギを開けて通してくれた場所は、車両甲板だった。最小限の照明しか灯されていないのでずいぶん暗いが、大~中型のトラックやワゴン、バンなどの車が20台以上と、コンテナがざっと見て30以上は置かれている。甲板の広さに比べてその荷は少量に見えるが、1000人程度の住民しかいない島に搬入される荷としては、大量と言えるものだろう。
笹倉は一番手前に停めてあったワゴンのリアドアを開けて、僕に乗るよう促した。
「こいつはうちの会社が購入した車だ。 この中に隠れていろ。 島に着くまで誰も来ないと思うが、エンジンはかけないほうがいい。もしも見つかったら、俺はとぼけるからな」
「わかりました」
「腹は? 食い物を持ってくるか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
「トイレに行くときは慎重にな。スーツは目立つから着替えておいた方がいいぞ」
「そうですね」
笹倉が戻っていった後、僕は言われた通りすぐに服を着替えた。しわくちゃになってしまうが、スーツは折りたたんでリュックの中に突っ込んだ。黒いTシャツとジーンズ、薄手の緑色のシャツには左右に胸ポケットがあり、僕は小メェメェを左ポケットに入れて、きちんとボタンをかけた。スニーカーを持ってくるのを忘れていた事に気づいた。革靴だとリラックスできないが、まあメェメェに乗る時に不都合はないだろう。
車はやはり新車で、リアシートの座り心地は良く居住性に文句はなかったが、それでも6~7時間もの間ずっと乗っているのは窮屈だし退屈だ。大きく揺れて出港した事がわかってから、1時間以上が経過していた。 笹倉が言ったように誰も来る様子がなかったから、僕は念のため静かにドアを開けて車から出ると、大きく背伸びをした。気持ちが昂っているので眠れそうにない。島に着いた後は… 今度は観光客じゃない。怒涛の様な3泊4日が待っているはずだ。 恐れている反面、一刻も早く小恋ちゃんに会いたい気持ちがあった。早くカンペンに会いたい気持ちがあった。僕は両手で自分の頬をピシャリと叩いた。
そうして気合を入れたつもりだったのだが、実のところ島に着くまでは何もないだろうと高を括っていた。それが間違いだった。 異世界の旅シーズン2はもうとっくに始まっていたのだ。後ろから口を塞がれ、背中に銃口を当てられて「おとなしくしろ」と言われた後、後頭部を掴まれて無理やり地面に伏せさせられた。
僕らしい、さっそく無様な展開だった。
次回
第28話「雲立 Part 2」
は
8月24日(土)投稿予定です
すみません。仕事が忙しいのです




