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第26話「タッチ アンド ゴー」

 小恋(ここ)ちゃんとカンペンの姿が見えなくなった後で、突堤に着いた時には姿を隠していた3人の小メェメェ達が後部甲板(デッキ)上に現れた。50~60センチほど空けて、僕の頭を取り囲んでいた。

 船に乗っているわけじゃないから、宙に浮いているように見えて、時速20~30kmくらいで飛んでいるんだよな。 本体からそんなに離れても大丈夫なのか? …幸塚(こうづか)メェメェの分身体は異世界まで行っても大丈夫だったのだから、きっと平気なんだろう。

「おい、お兄ちゃん」

 さっき小恋ちゃんと出港について言い争った年輩の男が僕に近づいた。 僕のリュックと大きな紙袋を手にしていた。

「これ、お嬢から預かっとっただに」

 僕に手渡すと、周囲にいる小メェメェ達の事はまったく気にしていない様子で「危ないから中に入るだに」と言いながら、さっさと階段を降りていった。

 リュックの中にはホテルに置いたままだった僕の荷物…クローゼットにかけてあった服はきれいに折りたたまれて、しかも丁寧にビニール袋に入れてあった。紙袋の中にはリュックに強引に収める事に躊躇(ちゅうちょ)したと思われるダウンベストと、財布以外の小物を入れたままのサコッシュ、それから大きめの封筒が1封入っていた。

 封筒の中身が気になったので、僕は船内に入って確かめようと思った。一応その時に小メェメェ達に了承を得るために、自身と船内出入口を交互に指さして意思表示すると、1人が僕のすぐ目の前まで近づいてきた。後ずさった僕の退路を塞ぐように他の2人が後方の左右に陣取った。

「な、なんです?」

 正面の分身体は、太陽光が強い上にもともと白いのでわかりにくかったが、点滅していたと思う。それは僕になにかを問いただしているように思えたが、やはり内容まではわからない。

 しかし僕は「ホントに戻るつもりです」と答えた。

 分身体はどうも…疑っているように感じたので、

「いくら僕でも、あれだけ知ってしまった後で知らんぷりなんてできませんよ。一旦帰るのはその…時間をつくるためです」と加えた。小恋ちゃんに言われた通り、けじめをつける必要が、覚悟を決める必要があるんだ。

 急に寒くなってきたと思ったら、たちまち周囲に深い霧が立ち込めた。来た時と同じように二朱島(にあじま)は、空や海も併せてすっかり隠れてしまった。分身体もまた姿が見えなくなった。飛んでいった光景は見ていない。白い霧に溶け込むように、消えてしまったのだ。

 リュックを肩にかけて、僕は足元をしっかり確かめながら階段を降りて、船内に入った。


 客室には進行方向を向いた青色の座席が、ざっと200席くらいあった。しかし乗客は20~25名くらい、前方の席に寄り集まっていて、皆が親しげに話していた。おそらく島の住民だろう。

 後部甲板への出入口近くにある、後ろの隅の方に座った僕に気づいた数名が、ヒソヒソ話をはじめた。昨晩の事で、島の人間のほとんどが僕の事を知ってしまっただろう。どう思われているのか気になるが、気にしたってどうしようもない。話しかけられない限り放っておくしかない。

 リュックを左隣の座席の上に置いて、紙袋から封筒を取り出した。封筒の中には僕のスマホと、写真が2枚入っていた。集合写真で使われるような大きめのサイズだ。僕と(たま)ちゃんが中央に、両サイドに雲妻(くもづま)綾里(あやり)さんが写っている。もう1枚には、珠ちゃんの両肩に手を置いた綾里さんと、小恋ちゃんが僕を挟んでいる。1枚目のものよりも距離が近い。どちらも背景は同じ花畑…黄や白、ピンク、青紫色のフリージア。

 雲妻と綾里さんは穏やかで優しい表情をしているな。珠ちゃんはなんだかきりりと引き締まった、男前な表情だ。小恋ちゃんは…少し不自然な笑顔に見える。皆、この時はなにを思っていたんだろう。…デジタルと比べてややピントが甘いような、でも却って柔らかい印象がある、とてもきれいで、なんだか…豊かな写真だ。

 僕はしまりのない、のんきな笑顔だ。この時は仕事の…嫌な事を忘れていて、かつ島の真実を、異世界の事を何も知らなかった。ほんの2日前の写真とはとても思えない。2枚とも真ん中に立って…まるっきり主人公気取りじゃないか。

 しばらく写真に見入ってしまっていて、彼が右隣の席にやって来るまで、まったくその気配に気づかなかった。

「少しよろしいか」と覇気のある声で、白いワイシャツと紺のネクタイ、グレーのスラックスを着た老人が僕に話しかけた。

「あ、はい!」

 僕は慌てて立ち上がろうとしたが、老人は 右(てのひら)を小刻みに揺らして、“構わない“ というジェスチャーをした。僕は少し腰をあげた状態のまま頭を下げて、写真を紙袋の中にしまった。

「座っていいか?」

「え、あ、はい、もちろん、どうぞ」

 いきなり社員食堂に現われた社長が向かいに座った時のように、僕は動揺した。…そんな経験はないが。

 明日川(あしたがわ)町長がゆっくりと腰を下ろすまで、僕は中腰の姿勢をキープした。傍から見るとかなり情けない、無様な姿だったろう。 おそらく秘書と思われる紺のスーツ姿の男(50代だろう)もまた、ひとつ席を空けて座った。せめて彼よりも先に腰を下ろすべきだった。

「昨晩は大変だったようだな。 いろいろと話を聞いたが、にわかには信じられんかった」

 そう言いつつも、町長は改めて僕に問う事はしなかった。つまり信用できる筋…クゥクゥからも話を聞いているのだろう。サドルさんか、もしくはニーナさんから。

「メェメェ様の中に入ったなんて、こっちの世界の人間で初めてに違いない。 大したもんだ」

 僕は愛想笑いだけにしておいた。大したものと言われても、別に競って乗ったわけじゃない。

 その僕の表情を、町長はまじまじと見つめていた。背が低くて痩せているが、浅黒くて皺だらけの顔には精力が感じられた。眼光が鋭く、裸眼の視力はまだ1.0くらいありそうだ。やはり町長ともなると、しょっちゅう天然キロメを食べているのだろうな、と思った。

「お前さん、島にまた戻って来るつもりだろう。それも、わりとすぐに…」

「え?」

「孫に惚れたか?」

「いやそんな、滅相もない」

 町長は顔の下半分を口で占めそうなくらい大きく開いて、豪快に笑った。その笑い声は、客室にいる全員の耳に届いた。

「なかなかエキセントリックで面白い(むすめ)じゃろ? まあ、あいつも色々あったからな、どうにも頑固で、そのくせ過敏なところもあって手に負えん。だがまあ、この先島を率いていくなら、あれくらいの度胸は必要なんじゃ」

「度胸…ありますね、確かに」

「わしよりもある。 あいつの親なんかは比べ物にならん。 きっと死んだ婆さんに似たんだな」

「ご両親…は、島にいらっしゃるんですよね?」

「いいや、逃げちまった。まあ父親は島の人間じゃなかったからの、まともじゃあ付いて来られんわ」

「それって、どういう事ですか?」

「うん… これ以上勝手に話すとわしでも怒られるだに。 口説いてから本人に聞きなされ。 もっとも、かなり手こずると思うがな」

「…そんな事考えていませんよ」

「なぜじゃ? 身内の欲目かも知れんが、結構美人だろ?」

「ええ、それはもちろん」

「なら遠慮せずに口説きなされ、わしが許す」

 …昭和世代はすぐこういう事を言うから困る。

「すまんすまん、こりゃハラスメントってヤツだな。 …しかし、シャレで言っているわけでもないんだ。 人生には節目ってもんが2度3度ある。レールが切り替わる地点ってもんがな。 就職や結婚なんてのももちろんそうだろうが、それとはちょっと種類の違う、まったく予想していなかった方向へ進む道が開かれる時があるんだよ。多くの者がそれを幻覚のようなものと思って見過ごすんだ。 たとえ昔からずっとそれを望んでいたとしてもな。 異世界なんてもんは、実はあっちこっちに出入口があるもんなんじゃよ」

 沈黙を続けていると、

「年寄りがわけわからん事言っとる、と思っとるか?」と、追及された。

「いえ、…わかるような気がします」 

「女も…いや性差別はいかんな。 うん、恋愛も一緒じゃよ、相手を知ろうと思うなら、痛い目にあうくらいの事は覚悟の上で、思い切ってバーンと飛び込まなきゃならん」

 町長は自分の言葉に納得したかのようにうんうん、と頷いた。

「痛い目ですか…」

「これから島は大変な、予測不能な事態になっていくじゃろう。そんな中でも、お前さん方は極めてイレギュラーだ。今や嵐の中心といってもいい存在になりつつある。このまま退場する手ももちろん残っているが、どうやらそのつもりはないと見た」

「島は…どうなると?」

「そいつはまだわからんが… もうわしには、年寄りには何もする時間がないと思っていた。 くたばるかボケるかする前に、どうにかしてもうひと仕事だけ済ませられないものか、と考えていたが、あんた達が来て、まったく予期していなかった事が起きた。 風雲急を告げる…どうやらいくつもの扉が開かれる様子だ。 わしは年甲斐もなく興奮しとる」

「…何をしに本土へ行かれるんですか?」

「うん、まあいろいろじゃ。搬入、商談、それと政界への根回しだ。島はいろいろと特別扱いしてもらっとるからな。 観光事業の追加もある」

「追加?」

「明日、お前さん達と同じように島に観光客を連れていく。今度は50名余りいるぞ。もちろん移住を募るのが目的じゃ」

「50人も?」

「お前さん達は孫が選んだんじゃが、今回はあいつはタッチしとらん。不用意が過ぎると言って、随分不服みたいじゃがな。ちんたらやっとったらいつまで経っても増えんわ」

 それって、クゥクゥも了承しているのか?

「おお、そうじゃ。 せっかくだから紹介しておこう」

 町長は前方で固まっている島民たちにむかって「おい、たかし君!」と大声をあげた。

 全員がこちらを向いた。隣の秘書が慌てて立ち上がって、自分に言付ければいいのに…という表情をしたが、町長は “いいから座っておけ” と言うように手を軽く振った。

「ちょっとこっち来るだに!」

 背もたれの陰からメガネをかけた中年の男が頭をのぞかせて、数秒間僕らを見た。立ち上がって水色スーツの襟を正すと、こちらに向かって歩きはじめ、すぐに周囲にいた男が2人、子分のように後に続いた。その内の1人…大柄な男に見覚えがあった。平凡な黒い半袖ポロシャツやベージュのスラックスが、胸筋や太腿の盛り上がりのせいで防護服のように見える。隣の子分その2も僕よりもずっと厚みのある体と強面を備えているが、ターミネーターと比べると学生みたいなものだ。

 たかし君…水色スーツ(ノーネクタイ)の50代後半に見える男は、近づくにつれて白々しいほど表情をにこやかに変化させていった。

「何ですかな」

簾藤(れんどう)さん、こちらは曽野上(そのうえ)さんだ。二朱島の漁を取り仕切っておる、二朱島水産の社長じゃ。後ろは笹倉(ささくら)さんと木林(きばやし)さん、2人ともベテランの漁師じゃ。食べてもらった天然のキロメも、彼らが獲ってきてくれたんだに」

 こいつが曽野上か…。

「…はじめまして、簾藤と申します」

 僕は立ち上がり、頭を下げて挨拶した。 彼らもまた(僕よりずっと角度が小さいが)頭を下げた。笹倉も初対面を装っているふうだった。

「ああ、あんたか、お嬢が連れてきたっていう…。 昨晩はえらい大変だったらしいのぅ」と曽野上が言った。

「あ、はい、すみません…」

「なんでも、自衛隊まで出動させたとか…」

「え、ええ  なんか、そんな事になっちゃったみたいで…」

「あまり目立つことはしてくれるな」

「…すみません」

「おい、この人は巻き込まれたんじゃ。謝るべきなんはこっちの方だに」

「それで、いったい何があったんじゃ?」

「え?」 …こいつは詳しいことを知らされていないのか?

「やめるだに、お疲れなんじゃ」

「異人さんらが大騒ぎしとった、島のもんも、戦闘機が島の近くを飛んだっつって、何が何やらわからん。島の責任者として詳しく聞かんといかんら?」

 僕を指さしながら言った。少し横柄に見える態度についてもそうだが、町長や小恋ちゃん達と対立しているらしいので、どうにもいい感情を持てなかった。グレーに染めた多い毛髪、黒々とした眉毛、妙に彫りの深い奥まった黒目がちのつぶらな瞳と、似合わない細いシルバーフレームの眼鏡、大きな団子鼻、数本の金歯を覗かせている口。中肉中背の体格だが、腹はぽっこりと前に突き出ている…なんだか腹が立つ。こいつには昨晩と今朝の事を、いっさい話さない事に決めた。

「説明はちゃんと聞いとるだに」

「わしは何も聞いとらん」

「島の責任者ってのはわしじゃ、違うか?」

 曽野上は口をとがらせながら頭をゆっくり下げて、それから(少し威嚇するように)勢いよく町長の隣に腰を下ろした。秘書はすでに座席から離れたところに立っていて、笹倉と木林も離れていった。

「そんで、この人をずっと待ってたんじゃろ? 帰んのか?」

「はい」

「本土の人にはつまらんかったじゃろ? なーんもなくて」

 町長越しにずけずけと話しかけてくる。

「いえ、その…決して退屈はしなかったです」

 町長は大笑いしたが、曽野上はよくわからない、という表情をしていた。どうやら僕がメェメェやクゥクゥと、かなり深くまで交流を持った事を知らないようだ。異世界へ行った事も聞いていないだろう。クゥクゥの故郷が戦争中という事も知らないんじゃないだろうか。

「まあいいわ、何を見たんか知らんが、あんまり他所(よそ)で島の事話さんようにな」

「簾藤さんはの、島への移住を真剣に考えてくださるようじゃ」

「はあ~!」と、曽野上は大きく息を吐くように感嘆した。

「本気か?」

「あ、ええ、その…よく考えてみようかと」

「それどころか、小恋の婿候補になってくれるかも知れん」

「え!」

 曽野上はかなりびっくりした声をあげて、上体を前に屈めて、ダイレクトに僕を見た。

「マジで?」

「いえそんな、僕なんかが滅相もない」

「さっき美人だ、と言ってくれたじゃないか」

「それは否定しませんが…」

「はえ~」と、曽野上は感心したのか呆れたのか不明な声を上げた。

「まあ見てくれはけっこいし、働きもんなんじゃがの、性格がな…まあ、ずなーてしょんない。 兄ちゃんで大丈夫かの~」

 曽野上が自分の両膝をさすりながら言った。ホントに心配してくれているみたいで、ちょっといい人に見えたくらいだ。 ずなー? …この人といい、カンペンといい、そんなに恐れられているの?

「…優しいところもあると思いますが」

「おっ、ようわかってくれとる」 

 嬉しそうに言った町長に、曽野上は苦笑いを見せた。

「まあそれはともかくとして、移住者が増えるのは歓迎じゃ。兄ちゃん、漁師になるなら世話するぞ、いつでも言ってくれ」

 そう言って、曽野上は胸ポケットから取り出した派手な名刺を、僕に手渡した。銀の下地に金色の魚(鯛?)が跳ねているようなイラストが描かれてある。 ‶株式会社 二朱島水産  代表取締役 曽野上 孝史“  いかにも田舎の成金って感じのヤツだな。

「それじゃあ町長、また後ほど」

 曽野上が無遠慮に立ち上がって、足早に前の席に戻っていった。 笹倉たちも後を付いていく。

 町長が横目で僕を見て、

「ご推察通り、嫌い合っとる」と言った。

「…やっぱりそうですか」

「昔はへえこらしとったんじゃがな。分不相応な金を持つようになると、ぞろぞろ子分を引き連れて下品な、偉そうな態度を取るようになった」

「ご親族なんです…よね?」

「色々と知っとるようじゃな、一応そうじゃが遠縁じゃ。明日川は名乗らせん」

「…楽園のような島だと思ったけれど、色々とありますね」

「そうじゃな、どこでも似たようなもんだ。いつかメェメェ様に見限られてしまうかも知れん。 …さて、邪魔したな。お疲れだろうからそろそろ失礼する。 話せてよかった」

「ええ、僕も」

「また会おう」

 町長が握手を求めてくれて、僕は素直に応じた。血管が浮き上がった、シミだらけの小さくて冷たい手だったが、握力はそれなりにあった。握手を解きながら町長が腰を上げると、僕も合わせて立ち上がった。当然の礼儀に対して満足そうな笑顔を浮かべると、町長はもう一度僕の顔を見据えて、はっきりとした口調で言った。

「明日の午後2時出港予定じゃ。荷があるから、あんたらが島に来た時と同じ船を使う。竹芝じゃぞ」

「あ、はい…」

「それじゃ」

 町長と秘書は客席を通り過ぎて、2階へと繋がるらせん階段を上がっていった。 その後姿を見なかったが、操舵室にいたのだろうか。

 到着までの間、町長がいない客室では、ずっと曽野上が会話の中心となっていた。町長の座を狙っているという僕と雲妻の推測は、ほぼ確信へと変わった。商談というのも、曽野上が重要な役割を担っているのだろう。もしかしたら政界への根回しというのも…。

 島の資源を狙うフィクサー…それはつまり島の価値をよく知っている、島と深いつながりを持っている者だ。島と大口の商取引を行い、税金について優遇(もしくは粉飾)を都合している存在というわけだ。雲妻がその手先だとするならば、もしかしたら本土へ、そのフィクサーの元へ戻っている可能性もあるだろうか… メェメェも一緒に…。この船に一緒に乗っているって事はないだろうな。確か透明になれるし…。

 僕は船内を見渡した。メェメェが乗るにはちょっと狭い、天井を擦ってしまいそうだ。でも…もしも体を横に倒していたら… まさかね。 もしくは外を並走して飛んでいる、なんて事は…等と考えてしまい、わざわざ上階の客室や甲板に何度も行って、目を凝らして確かめている内に、乗船してから3時間ほど経過していた。

 電源を入れていたスマホの電波が繋がっている事に気づき、チェックしてみると、やはり2日前に確認した(雲妻が役所から盗んだ)時からさらに多くのメールが送られてきており、受信にしばらく時間がかかった。プライベート用のアドレスへ送られてきたものはすべて無視しても構わない内容だったが、仕事用アドレス宛てには無視できないものが幾つかあった。それはどれも同じ上司からの、同じ内容の問い合わせであり、それは2日前にもすでに確認したものだった。

 祝日なのに今日も送ってきている、という事は上司は出勤しているという事か…。しかし僕は休暇中であり、旅行に行く事もことわっていたわけだから、連絡が取れなくても仕方がない。しかし今日帰ることも伝えていたから、返事をしないわけにはいかないだろう。…言い訳を混ぜた文面を考えてメールを送るのに、1時間もかかってしまった。上司から返信が来たのはさらに1時間後で、その返信にも20分かかった挙句、明日(平日)の午前に出社しなければならなくなった。まだ到着まで2時間ほどかかるが、すでに気持ちは一気に憂鬱な現実に引き戻されていた。きれいで、美味しくて、楽しくて、あまりに異常で、そして命の危険を感じるほど恐ろしかった異世界での3泊4日が、すでに懐かしく、愛おしくなっていた。


 すっかり日が落ちた午後8時過ぎに本土に着いた。船を降りるときに見送ってくれた船員達の中に、クゥクゥが3名いた。もしかしたら宿舎にいた人だったかも知れないが、僕は目を合わせられず、逃げるようにタラップを降りた。

 連休に突入していた首都圏の交通網の混雑ぶりは平日と違わず、数日ぶりに駅構内の雑踏と絶え間ない雑多な足音、インバウンド客らの外国語とキャリーケースを引く音に頭を覆われると、途端に額から汗が噴き出した。土と空と風がない空間が、これほど圧迫を感じるものだったのか…等と思ったのも束の間の事で、電車を乗り降りしている1時間ほどの間で、すっかり体は慣れてしまった。スマホがない不便さに気づかなくなっていたというのに、船を降りてからはずっと手にしたままだった。電車に乗っている間、二朱島のことを色々と検索してみたが、やはり旅行前に調べたこと以上の情報は得られなかったので、島にいる間いっさいアクセスできなかった、そもそも気にもしていなかった3日分の報道を調べてみた。

 国内は政府与党の政治資金にまつわるスキャンダル、海外については収束の気配が一向に見られない戦争の報道が多くを占めていた。大国の軍事侵攻にさらされている国の少女のインタビューが載ってあった。彼女は母親と共に戦火から逃れ、支援を受けて日本で暮らしている。つい半年前まではひどく憔悴してしまっていて、ほとんど寝たきり状態だったらしい。父親は母国に残って戦闘に参加している。…年齢も同じくらいだ。僕は当然のごとく彼女とカンペンを重ね合わせて、泣きそうになった。

 

 駅を出ると、この辺で唯一深夜営業をしているクリーニング店に寄って、駅のトイレで着替えた作業服を出した。これはきちんと洗って返さなくちゃならない。最速で明後日までかかると言われたが、どうしてもと頼み込み、割増料金を支払う事で明日の朝一番(午前9時)に仕上げてもらうようお願いした。

 右の胸ポケットに何かが入っていたようで、店員がそれを机の上に出した。それは小さくて細い…白い棒状のものだった。ちょうど麻雀の点棒くらいの大きさだ。僕は着ていたダウンベストのポケットのファスナーを開けて、それを大切にしまった。

 マンションに帰宅すると、僕はすぐにリュックと紙袋の中身を全部取り出した。使用済みの下着はゴミ袋に入れて、洗濯済みの下着を数着、シャツやズボンも取り替えて、改めてリュックの中に入れた。少しだけ残していた引っ越しの荷物を梱包し、シャワーを浴びて、コンビニで買った弁当を食べ終えると、もう午後11時を過ぎていた。

 きびきびと、すべて手早くこなしていったが、かなり眠くなってきた…さすがにもうキロメの効能は薄れてきたか。 だが…あともうひとつ、あとひと仕事だけ。

 僕はスマホで退職届の書き方を検索した。


次回

第27話「雲立 Part 1」

8月12日投稿予定です

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― 新着の感想 ―
[良い点] 町長は威厳ありつつも偉ぶらず、感じ良い人ですね。 孫の小恋さんと簾藤をくっつけさせたがってるのも本心ぽいし、頼もしい味方って感じがします。 [一言] さあ、結構流されやすい簾藤がすんなり仕…
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