第23話「マエマエ様 編」
その女性はニア(=二朱島)に住むクゥクゥの中で最も古顔の存在であり、代表者としても筆頭となる立場の人だった。 名前は輪歩矢ニーナ…この世界、つまり地球、日本においての名前だという。‶わぶや“ という変わった姓は、彼女の本名をこっちの世界の発音に…かなり無理やりに合わせたものらしい。特に血縁名を持たない彼らには姓と名の区別はないのだが、彼女はニーナというカタカナ名を付けくわえた。髪を黒く染めているが、スカイブルーの瞳と、目元がくぼんでいて鼻が高い…目鼻立ちがはっきりした顔のつくりはどう見ても日本人には見えないため、沖縄出身、海女と元米兵の間に生まれたハーフという設定にしたのだという。彼女には出生証明書があり、戸籍や住民票、運転免許証、保険証、さらにマイナンバーまで持っている…つまり書類上ではれっきとした日本人なのだ。ただ…それらの書類に記されている彼女の素性は…まったくの虚偽だ。
どうやって偽装したのかはおいておくとして、彼女の年齢は…明日川町長と旧知の仲だというのだから相当な数字のはずだが…見かけはせいぜい40歳、いや、僕と同じアラサーといってもまったく問題がないほど若々しい。他のクゥクゥ達よりも若干健康的な体型(十分細いが)、胸まで届くたおやかな長い黒髪、表情が豊かで、カールした厚めの前髪の下にある両目は時に1.5倍まで拡大し(たように見え)、口を大きく開けて迫力ある笑い声を何度も発した。オレンジ色のサマードレスとショート丈の白いカーディガンという、場違いとも思われる華やかな格好がよく似合う、とてもキュートな美女だ。
さっきの…僕を歓迎してくれている内容、という異世界人の歌は、彼女によるものだった。歌う事が好きだそうで、それも異世界よりもこっち…日本の歌の方がずっと好きらしい。長年を過ごした(異世界よりもずっと長いらしい)この地で、もっとも感銘を受けたのは歌の文化であり、今もしょっちゅう島を勝手に抜け出しては、曲数がずっと多い本土のカラオケに入り浸っているらしい。
また…とにかくよく喋る。かなり気さくな人柄に思えたので「歌手ではだれが好きですか?」と気軽に問うてみたところ、昭和の歌謡曲についての愛を10分近く聞かされる羽目になった。彼女はジュリーが好きらしい。…最初、僕には誰の事かわからなかった。そういえば、昔はすごく人気のある歌手だった。中でも ‶女の頬を張り倒す“ という歌詞が素敵らしい…という事は60歳くらいだろうか。あまりにも本筋から逸れた会話が長く続いたところで、周囲から制止が入った。しかし彼女はしばらくの間、司会進行のポジションを他に譲ろうとはしなかった。
マシンガントークの内容をすべて説明する事は不可能、かつ時間のムダなので、ある程度要約して説明する。
彼女は自分以外の(カンペンたちを除いた)3人のクゥクゥを紹介してくれた。各々の名前は、サドルと同様にすべて日本語で発音できるよう多少変えたものらしい。
オロさん…本当にこれしかなかったのか、という名前の女性は、少し赤みがかった肩までの金髪、青い目、クゥクゥにしては肌が白い、東欧系に見える美女。センター分けで額を露にした顔は少しあどけなく、カンペンとそう違いない年齢に見える。
ザッサさん…本当にこれしかなかったのか、という名前の男性は、誰がどう見てもイケメンとしか言えない、ファッションモデルのような精悍な顔立ち。サドルと比べてずっと男っぽい。手櫛でざっと整えた様な自然な七三分けの金髪が、却ってセクシーだ。
クルミンさん…なぜだ?と言いたくなるくらいかわいらしい名前の男性は、やはり男前でザッサさんよりさらに男っぽいマッチョなのだが…背が一番低い。サイドを刈り上げた、かなり短めのアッシュの髪は軍人っぽい。そのせいもあって頭が小さく、少し下ぶくれに見える顔には、どこか愛嬌がある…ドワーフみたいだ。
この3人は普段は島で農業と食品加工、そして建築に従事し、あとは戦闘訓練を受けているらしい。彼らは来るべき故郷への帰還に備えられた…兵士だという。しかも、彼らはメェメェに搭乗する予定だった。
それを聞いて僕は怯んだ。きっと彼らの仕事、それもおそらく使命といえるほど重要なものを奪った人間の1人なのだから。しかし、彼らはさすが(?)クゥクゥだ。紳士的、かつ友好的に僕に接してくれた。ザッサさんとクルミンさんは僕に感心しているような態度で、どうやって僕がメェメェに認められたのか尋ねた。まことに残念ながら、答えはよくわからない。しいて言うならクゥクゥじゃないから、なのだが…。 中でどんな体験をしたか、メェメェとどんな会話をしたか、そして異世界でどうやって敵と戦ったかを矢継ぎ早に問われたのだが、詳しく話していいものか判断がつかず、僕は縋るようにメェメェに顔を向けたが、彼は微動だにしなかった。
いつの間にか、僕にはメェメェの区別がつくようになっていた。カンペンメェメェとの大きな違いは、周囲に中小メェメェが居るか居ないか、なのだが、この場には周囲にいくつも(極小メェメェを入れると、それこそ星の数ほど)浮遊しているので、どのメェメェの分身かは判別できない。2人ともただ立っているだけ、つまりただの柱なのだが、カンペンメェメェの方が少し大きい。若干頭の方が広がっている。簾藤メェメェの方は、少しばかり細く見える。そしてなんか…みすぼらしい。昨晩の汚れがそのままなのか、異世界の赤い砂が下半身を覆っている。洗ってもらえないのだろうか?それとも、彼がそれを望まなかったからだろうか。
そしてもう一人、奥の岩壁に背をつけるようにして佇んでいるマエマエ様、ニアは…雰囲気が違う。少し離れた位置にいるからか、他2人と比べて小さめに見えて、幾分か黒っぽい。周囲の岩や石と同化しているかのように、いくつもの七色に輝く宝石をその身に宿している。大量の分身メェメェは、そのほとんど(最低でも3000くらいある)が、ニアのもののように思える。それほど威厳を感じるのだ。
オロさんだけは、怪訝そうな表情を僕に向けていた。彼女はもともと、簾藤メェメェに乗せてもらう予定だったらしい。認められなければ触れる事も許されない、という上下関係の中で、彼女は1年余りをかけてメェメェとの距離を縮めていったという。メェメェの…補佐に選ばれることは、彼らにとってはかなりの栄誉となるのだろう。
「何か…理由があったはずです」と、かわいらしい声だが、強い口調でオロが言った。ちなみに、全員日本語が話せる。
「どうやってマエマエ様に… どうか教えてください!」と、感情を露にして僕に迫った。
「クゥクゥ…皆さんでは人を殺せない、戦えない」
…場がざわついた。
「…らしいです」
僕はこの事を今まで話していなかった。どうして彼らがクゥクゥを乗せなかったか、とは問われていなかったからだ。
「それは…マエマエ様がそうおっしゃったのですか?」
「…ええ」
オロさんはショックを受けたような…少し涙ぐんだ表情で、僕の顔を見上げた。
「あなたは! じゃああなたは、平気で人を殺せると言うのですか!」
「…え」
「多くの、わたし達の同胞を殺したらしいですね」
「やめなさい」と、サドルが静かに、しかし強く諫めるような口調で言った。
「彼だって殺したくて殺したわけじゃありません。カンペンを救ってくださったのです」
オロは一歩後退し、「失礼しました」と頭を下げた。やはり彼女も礼儀正しい。
「…では、カンペンは戦場で何をしたのですか」
「わっ 私は!」
ふいに指名を受けて焦ったカンペンは、抗議するかのように大声を出した。
「私は負傷者を救助していたのです!」
「状況説明は聞きました。先に敵を掃討しておけば、たやすく助けられたのではありませんか!」
オロも負けじと大声を出した。二人の美少女の…かわいらしい怒声の応酬がこだました。
「敵があれほど多く潜んでいた事を知ったのは、わたしがマエマエ様から外に出た後でした!」
「それがうかつだと言うのです! 戦場において周辺状況の確認がどれだけ大切か、勉強していないとは言わせません!」
「そんな余裕はありませんでした!」
「わたしなら、わたしがマエマエ様に乗っていたら、すぐに敵を見つけ出し、全滅させていました。ぶち殺していましたよ!」
え? さっき僕が殺したことを非難していたくせに…
「わたしだって、もしも先に気づいていたらやっていましたよ。この ‶やって” は、殺すという文字を使っての ‶殺って“ ですよ!」
オロは両手をグーにして、地団太を踏むようなポーズをした。
「わたしなら、ただ殺すってんじゃありません! マエマエ様に楯突いた事を後悔させるために、そりゃあもう残酷な、ものすごい目に遭わせていました! 全員の内臓を引き抜いて、もつ煮込みコロッケにしてやっていました!」
…なにその料理。
カンペンが応戦する。
「わたしだって…全員両方の二の腕を左右それぞれの耳と縫い合わせて、二度と両腕を降ろせない一生を送らせてやりましたよ!」
「殺してないじゃない!」
「ああっ、ホントだ!」
「はい、かなりみっともないですから、そのへんでおやめなさい」とサドルは止めたのだが、ニーナさんは「やれやれ~」と笑顔で囃し立てた。
サドルはため息をついて彼女を嗜めた。
「お気になさらず。二人とも…いえ彼ら皆、実際は蚊を殺すにもためらって逃がしてしまうくらいです」
「…はあ」
「暴力を否定する性分が備わっているのに、こちらの世界で長く暮らしているので、どうにもアンバランスなところがあります。時折恐ろしい、また下品な物言いをしてしまうのはそのせいですね」
…あんたもだよ。
「その皆さん…クゥクゥは非暴力、平和主義という事はさっきのお話でも理解しました。ではなぜマエマエ様がご自分で戦う事を、人を殺すことをしないのでしょうか。マエマエ様は人を殺さないってのがルールとしてあるのだとしても、ならば変異体っていうのはどうして生まれたのか、今まで…何千年もの間、変異体は存在しなかったのか」
「もともとは殺せたのよ」
ニーナさんが、あっけらかんと言った。
「え?」
「マエマエ様はね、もともとた~くさん、引くほど人をぶっ殺してきたの。近年になってその必要がなくなったから、その能力を徐々に、自ら失わせていったのよん」
「え、でも、マエマエ様は、人間を存続させるために存在しているんじゃなかったんですか? それだと…本末転倒じゃないですか」
「それは目的であって、過去は過程なのよ。 いえ、過程はいつまでも続くものかも知れない。長い時間をかけて、人間から支配欲や貧富のほとんどを取り上げていったのよ、その間に抵抗が、争いがなかったはずないでしょう。手段が説法だけだったと思う? 当然暴力が含まれていた…いえ、大部分が暴力だったの」
「すると…150年前までは、人間とマエマエ様は争っていたのですか?」
「いえ、もう1000年前には、ほとんどが屈服していたんじゃなかったかしら」
「屈服という言葉は適していませんが、マエマエ様による統治体制は、その頃にはもう確立されていました。しかし、以降も小、中規模の反乱がなかったわけじゃありません」と、サドルが答えた。
「じゃあ、少なくとも2000年の間は、人間はマエマエ様を認めていなかったと?」
「いいえ、多くの者がマエマエ様を至高の存在と崇め、そのご意向に従っていました。しかしまた多くの者が、その統治に異議を唱え、こちらの世界でいう…まあ違う所もかなり多いのですが、民主主義、資本主義を主張し続けました」
「2分されていたというわけですか。それで、マエマエ様はその…資本主義者たちを暴力で制圧していったのですか?」
「いいえ!」
カンペンが強い口調で差し込んだ。
「マエマエ様は自らを信じる人間を率いて、ただ領土を守ってくださっておりました。マエマエ様の能力を妬み、我々が作った豊かな資源を奪うために侵略戦争をしかけたのはいつも……です!」
オロやザッサ、クルミンも同意を示すように深く頷いた。
……のところがうまく聞き取れなかった。「ごめん、なんて言った?」
「この言葉を日本語に置き換える事は、今まで機会がなかったですね」と、サドルが細い顎をさすりながら言った。
「……」ともう一度言って、「どう聞こえます?」と尋ねた。
「うーん、…ぴ、ちぃ、ら、い、る?」
「ぴちらいる? …全然違うのですが」
「そういうふうにしか聞こえないから…」
ザッサが「ぴちら、って何?」と、クルミンが「新種の魚かも…」と小声で話した。
クゥクゥって何だ、大ボケばかりか。
「では…ピチラでいいでしょう」
「では変異体…赤紫色のメェメェ…マエマエに組しているクゥクゥたちはピチラ…の残党って事でしょうか?」 僕は日本語を話しているのだろうか…
「それはまだわかりません。 違和感があります。…あまりにも規模が大きくて」
「溜まっていたものが噴き出したって事かもね」と、ニーナさんが言った。
「目の上のたんこぶを倒すことができると知って、知らず知らずのうちに溜め込んでいたいろーんな欲望に突き動かされ、しまっていた暴力衝動をぱーんと解放させたのよ、そういう悶々としていた薄ぐろーい奴らが、実はめっちゃいたって事なのよ、やれやれ」
一斉に聞きなれない言葉と音が、集中砲火のようにニーナさんに浴びせかけられた。そのほとんどがおそらく彼女を諫める、叱る言葉だった事は、サドル達の表情から見て取れる。
「ごめんごめん、だって、私にも話をさせて欲しいんだもん… ちょっと注目を浴びようとしただけじゃない」
この人、二朱島にいる異世界人の中では一番偉い人じゃないの?
「でもさ、この話を続けたってしょうがないじゃない。昨晩連れ帰った人はまだ回復していないんでしょう?」
「ええ、最低でもあと2、3日は安静にしておかないと…」
車を運転してくれた男性のクゥクゥが言った。…この人の名前をまだ聞いていなかった。
「新しい情報が入ってからにしましょうよ~。彼に、簾藤さんにマエマエ様の説明をしてあげなきゃ」
「ええ、そうですね」と言って、サドルが少し後ろに下がった。
「あたしが話していい?」
「どうぞ」
彼女は嬉しそうな顔を僕に向けた。
残念ながら、ここで彼女のマシンガントークの内容をすべて説明すると、おそらくこのエピソードはさらに2つほど追加されるはめになるので、またも要約するしかない。
もともとマエマエ様には武装、殺人のための戦闘能力が備わっており、それはやはり人間を従わせるための最終手段として用いられてきた(…ずっと昔は大量殺戮兵器そのものだったみたい、とニーナさんは言ったのだが、また皆にひどく責められたので、平身低頭の上撤回した)。 しかし、長い年月をかけて遺伝子レベルで暴力を否定できる人間たちが誕生し、世界の主要構成を成していくと、否定する暴力を、彼らを指導するメェメェ達が持ち続けていく事に矛盾が生じた。彼らは自らそれを正すべく能力を制限し、クゥクゥはメェメェから得た武器、兵器に関する技術と記録をすべて破棄していったのだ。
しかし、それでも尚、ごく稀に発生する暴力事件、反乱を防止するためには、武力のすべてを封印するわけにはいかなかった。彼らが設けた制限とは、自らの身に人間を取り込み、人間の意志、思考を得る事を武力を行使するためのトリガーとする、という条件だった。これを周知させることで、メ…マエマエ様は平和と協調を愛し、人を殺さない、しかし絶対君主として人の上に君臨する、という理想が過ぎる構造を固守しようとした。そしてマエマエ様は各々一人だけ、その身に引き入れる人間を選んだ。平和的な思考を持ち、理性的で、然るべき時に人を制する強い意志を持ちうる人間を。
彼らは基本的にはそのパートナーとしか会話しない…らしい。その事は、彼らの神秘性を高めているのだった。僕は1日で簾藤メェメェ(マエマエ様にはそれぞれ名前がある事を教えてもらったのだが、すべて ‶ニア“ のように日本語でたやすく発音できるものではないため、僕は呼称をあきらめた)の他に幸塚メェメェ、カンペンメェメェ(なので僕の心の中では、ニア以外はメェメェ呼びとする)の声も聞いたけれど…
その平和的構造は順調に続いていた。飢えと病気から解放された社会が安定するのは当然だ。しかしそんな社会には、いずれ堕落と欲望が黴菌のように繁殖するのも、どんな世界だって一緒のようだ。また、いくら貧富格差を可能な限り少なくしたとしても、なくなる事はない。直接政務を執行する、おそらくサドルたちのようなメェメェの側近と言える立場のクゥクゥは、どう言葉を変えたところで、支配階級となるのだろう。その立場に羨望を超える嫉妬や不満が生じるのもまた、当然の事なのだろう。この島にいるクゥクゥ達は皆いい人たちに思える。礼儀正しく、優しく、美しく、面白い…しかし、それらはやはり上流階級の人達ゆえに持ち得た品格なのかも知れない。こっちの世界だって、やはりお金持ちには良い人柄が多いものな…。極悪な奴らも多くいるけれど…。僕は…こっちの世界の人の多くは、もしかしたら異世界の反乱側、赤紫側の人間…ピチラに近い性分なのかも知れない。
赤紫のメェメェ…変異体は、おそらく大昔のマエマエ様の機能を持ち得てしまっていると思われる。それはメェメェと人間のおよそ半数が武力を以て争っていた…殺戮能力を持っていた頃のものだと。封印していた能力が突然復活したという事だが、その発生とボディカラーが赤紫色に変化している理由は、今も不明らしい。
そしてその赤紫に対抗するために生まれたのが、3人のメェメェだった。彼らは特別で、過去のメェメェの記憶を残していたものをインプットし、調整を施されて誕生したのだという。その誕生のための研究と設備の製作には長い年月と労力がかけられて、これまで何回も失敗を繰り返し、ようやく1年半前に1人、そして1年前に1人、そして最近もう1人誕生したのだ。彼らには赤紫のメェメェに対抗し得る、過去の武力性能の多くを備えている(まだ成長半ばではあるが…)。 しかしそれを人間に対して行使するトリガーを引く役割は、やはり彼らの中に乗る人間が担わなくてはならないのだ。その理由は、もしもその機能をはずしてしまった場合、いつ何時、赤紫と同様の変異体となってしまうかわからない、という危惧があるからだ。
そしてその過去の記憶の多くを備えているという、特別中の特別な存在がニアだ。ニアが3人のメェメェを生んだのだ。(どのようにして生むかは、場所を変えてさらに長い説明を聞く必要があるらしいし、サドルから最重要機密です、と遮られた)
ニーナさんがニアに近づいて行った。彼女がウェッジソールのサンダルを履いた足を一歩一歩進める毎に、水の音が少しずつ大きくなった。石の上に落ちる水滴の音、石の表面にできた窪みを伝って流れる音、溜まった水溜まりに、小さなメェメェが水浴びするように飛び込む音。
僕らを照らし続けていた七色の光が輝きを強めた。光はマスゲームのように規則正しく順番に光って、しばらくパレードを行ったあと、ニアの背後にある岩に収束していくように動いた。それは二朱島にいるすべての命…クゥクゥと、日本人と、魚と、牛や羊と、鳥、虫…その他なにもかも含めた動植物の情報が光となって、石を経路にしてニアに伝えられているように感じた。水の流れは、ニアから供給されたエネルギーを混ぜて、島の隅々に行き渡らせているように思えた。
キロメも、奇妙な海洋生物も、栄養価の高い牛や羊の乳、野菜、山菜、なにもかもニアの知識とエネルギーが生み出してくれているのではないだろうか。ニアは島の心臓であり頭脳、いやもしかしたら、二朱島そのものなのかも知れない。
…なんの根拠もないのに、なぜこんな思考になったのだろうか。どこからか、僕の頭にそれこそ清流のように穏やかに、気持ち良く知識が流れ込んでいる。ゆるやかに常識を置き換えられている。
ニーナさんが優しく右手でニアの表面に触れると、光はゆっくり輝度を落とした。
「もう何も話してくれないのよね、お婆ちゃんだから…。あたしもそうだけど」
ニーナさんは、ニアの乗り手…補佐だったのだ。過去のメェメェの記憶を所有しているとしたら、ニアは戦えるメェメェだったのだろうか。ニーナさんは人を殺せる乗り手だったのだろうか…。
「あ…」
「なんです?」 サドルが気づいてくれた。
「それじゃあ、カンペンメェ… カンペンさんが乗るマエマエ様は、戦う事ができるのでしょうか? その…彼女次第で人を殺せる、という事でしょうか?」
僕はカンペンメェメェを見つめた。
「我々の故郷を治めるマエマエ様の中では、もっとも武力を備えた御方なのです」
サドルやカンペンも彼を見ているから、やはり間違っていなかった。一切反応がない…ただの円柱のままだが。
「汚れ仕事…つまり罪人を暴力で以て処罰する役目を負ってくださっていました。その…先代の乗り手の方と共に」
先代? そうか、カンペンの前にもいたんだ。…赤紫との戦いで亡くなったのだろうか。
「では、人を殺せる力を備えているわけですね」
「しかし、変異体との戦いでは適う事はできませんでした。 10年前に彼女たち…カンペン、オロ、ザッサ、クルミンの他、十数名を連れてこのニアに転移された時、その消耗は尋常なものではありませんでした。回復に丸一年かかったくらいです」
あんなに強いのに…。
「あの頃より、ずっと強くなっていらっしゃいます!」
カンペンが威勢よく言った。胸を反らせて叩くと、強くし過ぎたのか、少しむせた。
「マエマエ様もわたしも、必ず使命を全うしてみせます!」
「どこからそんな自信を持ってきてんだか…」と、オロが嫌味を言った。
「光るほど鳴らぬー、って言葉の意味、知ってますか!」
「何よそれ!」
「忘れました!」
「何よそれ!」
「やれやれー!」
「いい加減になさい。簾藤さんの緊張感が持続しないじゃないですか」
いやその…
「御覧の通り、なにかと不安なのです。地獄のような光景を見たとはいえ、基本的には長い間、のほほんと平和に生きてきた若者たちです。長期間の戦闘訓練の上、マエマエ様のご加護があるのでそう簡単に敗れるとは思いませんが、なにせ相手はマエマエ様を倒すほどの力と、おそらく殺す事をためらってしまう同胞の…軍隊です。おそらくこのままでは無事に済まないでしょう」
‶無事に済む“ なんて発想すること自体、サドルもかなりずれている、おめでたいような気がする。これまでに得た情報から勝手な予測をすると、おそらく…皆殺しにされてしまうだろう。
「ですから、あなたの力が必要なのです。彼らを率いて戦ってほしいのです!」
「…それは、昨晩にもお聞きしましたが」
サドルとは別の、この場にはいないが、おそらく代表者の1人(昨晩泊まったクゥクゥ達の共同住居の責任者と思われる)である男性メェメェから、その願いを聞かされた。しかしその時は僕を含めて皆が疲れ切っていたから、返答なしで終わったのだ。
「僕は…何もやっていません。百人以上の異世界人(あえてクゥクゥとは言えなかった)を殺したと言われても、その自覚はありません。殺すつもりなんてなかった」
本当にそうか? ‶ぶっ殺せ!“ そう言っていなかったか?
「れ、簾藤さんは私たちの問題になんら関係ありません。彼はただの観光客です」
カンペンが少し震えた声で援護してくれたが…
「そんな事はわかっている上でお願いしているのです! 10年もかかってようやく得た力を、そう簡単に失う訳には行かないでしょう!」
「そ、それは、 確かに…そうなんですが。でも…」
「べつに無理して戦わなくてもいいじゃん、ほっときなさいよ」と挟んだかまってちゃん…ニーナさんが、また皆の厳しい視線の集中砲火を受けた。さすがに今の発言には、僕も驚いた反応を向けてしまった。彼女は「ごめんなさい!」と言ってニアに縋った。「お~、こわ…」と呟くのが聞こえた。
カンペンが悲しげな表情をしていた。…17歳か。オロもザッサもクルミンも、きっと年下だろう。たとえ僕より若くなくても、彼らのような善良な人たちが無残に殺されてしまうのを、たとえ自分の世界の事じゃなくても、見逃してしまっていいのだろうか。でも、普段は自分の世界の事でも、他国の戦争なんか異世界同然と考えているし…。ヘタに知り合ってしまったからだ。彼らの人柄に触れてしまったから、こんなに悩むのだ。
僕が引き金を引くことで勝てるなら…いや、そううまく行くのだろうか。でも、たとえ相手が相当強いメェメェだとしても、2人、いや雲妻と綾里さんのメェメェを足して4人も戦闘可能なメェメェがいるならば、勝てるんじゃないだろうか…。 いや待て、そんなの、なんの保証もない。大体、雲妻や綾里さんが賛同してくれる理由がない…。いや? たぶん雲妻なら、喜んで異世界に行ってくれそうだな。
「少し、マエマエ様と話ができるか試してみていいですか?」
「ええ、ぜひ」とサドルがめずらしく、少しうわずった声を出した。きっと昨晩からどれほど願っても、簾藤メェメェは反応を示さなかったのだろう。
僕は彼に近づき、そっと右手で触れた。
「…簾藤です。お話できますか?」
返事がない。
「やはり、僕しか乗る事を許されないのでしょうか? クゥクゥの人達ではいけないのでしょうか?」
僕は手をつけたまま彼の周囲をまわってみた。言葉を声に出さず、頭で念じるようにして問いかけてみた。
僕には無理だと思います。あの時は興奮していたし、よくわかっていませんでした。自覚してしまった後では、たとえ異世界人とはいっても、そう簡単に殺すなんてできそうにありません。どうか他をあたってもらえませんか?
それでも返答はなかった。…ダメだ、とも言ってくれないのでは、悩みが続くだけだ。しかも悩み続ける時間はそうないだろう。
手に赤い砂が付いた。真っ赤に染まった手の平を見て、戦場に戻ることの暗示かと思ってしまった。僕はその暗示を拭うために、メェメェの汚れを取りたい衝動に駆られた。両手を使って、彼の体から土を払い落としていった。しかし、一部分が取れない。…赤土じゃない。これは…
真ん中より下の部分、腰の位置と言っていいのだろうか。 ほんの小さな、大きめの筆で ひとつ ‶ノ” と、はらいぼうを描いたような…部分があった。インクやペンキで書かれたものじゃない。それは明らかに一部が、変色しているのだ…赤紫色に。
「誰にも言うな」
ようやくひと言だけ喋ってくれた。僕にしか聞こえていなかった。
次回
第24話「小恋襲来 Part 1」
は
7月15日掲載予定です