第17話「二朱島上空大追跡 開幕まで」
群青の空がオレンジ色に輝く水平線に近づくにつれ、濃度を薄めていた。沈む太陽の上に陣取ったように、山脈のような形をした大きな雲が浮かんでいる…天気のいい日に海岸近くに行けば、たやすく見られるような景色なのだろうが、この時…バスを降りた後の僕には、それがやたら幻想的で、不気味で、この上ないほど美しく見えた。おそらく不安を感じると同時に、それに反動するような期待感…新しい人生が切り開かれるような解放感を伴っていたのかもしれない。…少々躁鬱の気があるのかも。
きっと小恋ちゃんは、僕の滞在の延長を認めてくれる。それどころか、喜んでくれるのではないだろうか。そうなれば、その後で綾里さんに説明して、改めて午前中の非礼を詫びよう、きっと許してくれる。明日はまた皆で一緒に島を色々と回って、町長やサドルにも改めて挨拶をして…そうだ、またカンペンにも会えるかもしれない。彼女と小恋ちゃんの仲を取り持ってあげられないだろうか。そうなれば、きっと二人に喜んでもらえる。隣にいる雲妻の事は…敵対するような気持ちはないようだし、さしあたっては保留としておくしかない。後々よく話し合おう…もしかしたらうまく事が運んで、フィクサー(…かなにか知らないが)の企みを防ぐ事ができるかもしれない。僕がそれに貢献して、町長や島の住民に感謝されて………確かな根拠もないくせに、そんなマネジメントができる実力もないくせに、よくもそんなふうに都合よく考えられたものだ。まったくバカな奴だ…。
しかし浮かれるほど期待している時ほど、それは思い通りにいかないものだ…。僕が都合よく想定した新天地ライフの序章は、予期していなかった角度から、予期していなかったキャラクターにあえなく阻まれる事になった。
ホテルのフロントカウンターに老人の姿はなかったが、これは想定済みだった。たとえ留守だったとしても、小部屋の電話は勝手に使ってもいいとの事だったし、小恋ちゃんの名刺が財布の中にある(確か事務所の電話と携帯電話番号が書かれてあった。どちらかは繋がるだろう)。しかし、じっくりとシミュレーションを経て電話をかける余裕が、(一応老人がいるかいないか確かめるために)カウンターの呼び鈴を鳴らす前に失われてしまった。
小部屋のドアが勢いよく開いて、出てきたのは綾里さんだった。昼間と同じ格好で(オーバーサイズ気味の白いシャツとジーンズ、スニーカー、野球帽は被っておらず、ロングの黒髪を下ろしていた)、ひどく焦っている表情だった。まさか…。
「ああ、簾藤さん、雲妻さん!」
「どうしました?」つられて、僕も深刻な口調になった。
「珠が、また勝手にいなくなってしまって」
「また!?」…あのガキ。
「すみません! ほんとに、ほんとにすみません。どうして私はこんな……バカで…」
今にも泣き出しそうだ…別に綾里さんを責めたわけじゃないのに。
「どうか落ち着いてください」雲妻が綾里さんを(多分僕も)落ち着かせるために、わざと大人しい、優しい口調で言った。
「いなくなってからどれくらい経ちましたか?」
「それがわからなくて。ああ… あの、お昼寝していたんです。添い寝していて、わたしは起きてなくちゃならなかったんですけれど…つい一緒に眠ってしまって。でも、わたしが眠っていたのは10分か、長くても15分くらいのはずです」
「どちらかにお電話されたのですか?」
そうか…だから小部屋から出てきたんだ。
「番号が書かれてあった町役場と消防団の方にお電話したんですが…誰も出てくれなくて。小恋さんにもお電話したんですが…」
「繋がらなかったのですか?」
「ええ、一応留守番電話に伝言を残したのですが…」
「休んでいらっしゃるのかもしれませんね。…では、また我々で探しましょう。綾里さんはホテルで待機して、以降も各所へ電話をかけ続けてください」
「い、いえ!」綾里さんが強く言った。
「今度はわたしが探しに行きます。迷惑ばかりかけておいて、待っているだけなんてできません。どうかお二人がホテルに残って…」
「いや、3人で探しましょう」と、僕が言った。綾里さんにとって珠ちゃんはすべてなんだ。残しておくのは却って酷だろう。
「小恋さんが留守電に気づいてくれたなら、また各所に連絡してくれるでしょう。あと念のため、フロントに書き置きを残しておきます」
僕はカウンターテーブルの上にあったペンスタンドからペンを抜いた。メモ帳もちゃんと置いてあった。
「わかりました。皆でしばらく周辺を探してみて、もしも見つからないようなら後でひとりがホテルに戻ってまた各所に電話をかける、という事でいいでしょう」
それがベストと思われる。それに…僕には心当たりがあった。
ホテルを出て、早歩きしながら「どう手分けしましょうか?」と雲妻が問うたので、僕は素直に考えを述べた。変な理屈だが、言おうかどうか迷っている余裕はない。
「前回珠ちゃんは海岸にいました。また同じところに行ったんじゃないかと思うんですが」
「可能性は低くないと思いますが…」
「たぶん、なんか珠ちゃんはメェメェ様を探しているような…いや、なんと言ったらいいかな、えっと、導かれているような感じがしませんか?」
おかしな事を言っている自覚はあった。
「わたしにはわかりませんが、その根拠は?」
「いえ、前に海岸で見つけた時に、珠ちゃんはメェメェ様のところにまっすぐ向かっていたように見えたので…それに突堤の時も、雲妻さんを追っかけていたように見えて、実はメェメェ様が目的だったんじゃないのかな、と」
「なるほど…なんとも奇妙な話ですが、この島においては納得できます」
「まだ2回しか見てませんが、どちらも海の近くに居ましたので」
僕は海中でもう1回(しかも3人に)会っているけれどね。
話しながら、僕たちは駐車場を横断して、海岸に向かっていた。
「しかし、立入禁止区域ですよね」
雲妻は一応言ったが、綾里さん(母親)には通用しない。幼い子供の命を守るためならば、たいていの事は許されるべき…許されなければならない、と考えていただろう。
「やむをえませんね」
雲妻も覚悟を決めたようだ、もちろん僕も。 大丈夫、クゥクゥなら多少怒っても、きっと許してくれる。彼らはいい人たちだ。
すでに早歩きではない。長~中距離の速度を超えて、なおも上がっていった。この時のトップは綾里さんだった。
島に来た日の夜と同じように(今回は3人並んでだが)堤防の上に立って、海岸を見渡した。あの時よりもまだ空は明るいが、代わりに照明塔が点いていない。まだ点灯する時間じゃないのか、それともあの時はカンペンが漁をするためだったのか。
「…いませんね」
「前は、あの辺にメェメェが居たんです」と、僕はその方向を指さしたが、赤く染まった砂浜しかなかった。
「マエマエ様がいないとなると、珠ちゃんもこちらには来ていない、という事になるでしょうか」
僕は左…前回珠ちゃんとメェメェ様を見つけた時の逆方向、つまり海岸の南側を向いた。砂浜はあと100メートル足らずで終わっていて、その向こうは石や岩が多い磯浜に変わっている。内陸は草木で覆われているが、おそらく容易に入って行ける場所じゃないだろう。波打ち際を歩いていけば、昼間の…あの岬が見える所に出るんじゃないだろうか…。
「僕はあっちを探してみます」
「なにか、思いあたる節があるんですか?」
勘のいい奴だ。
「根拠と呼べるほどのものはないんですが、そんな気がするんです」
「危なそうですよ」
「だから余計に確かめてみないと…」
さっと影が動いた。僕と雲妻の間に立っていた綾里さんが、いきなり堤防から飛び降りたのだ。
ええ!?
いくら傾斜になっているといっても、かなりの急角度だし、高さは5メートル以上もあった。しかし綾里さんは一気に堤防を駆け降りると、砂浜の上に降り立つ直前でジャンプして、前回り受け身を取った。そして転がった勢いをそのまま利用して跳ね上がるように立ちあがり、砂煙をあげて南に走って行った。
ウッソー? と僕は声を出さずに口の形だけで言った。
たぶん雲妻は、ホントー? と言っていたと思う。
キロメの力のなせる業かも知れないが、確証がなかったので、僕らは彼女の真似をする事に躊躇した。しかし階段を使うには、逆方向へ30メートルほど行かなければならない。結果、僕らは堤防に尻をつけて、滑り台をすべる様にして降りるという、かなりかっこ悪い方法を選択した。まあ10秒かからなかったし、良しとするしかない。
砂浜を超えて、石が詰まった地面をものともせず踏みしめて、時に大きな岩を飛び越えた。僕と雲妻もまた、キロメの効能継続を改めて確信した。それでも僕たちのずっと前を疾走し続ける綾里さんに何度か呼びかけたが、彼女は少しの間も足を止めなかった。珠ちゃんが先にいる保証なんてないのに…。もしくは母親として、我が子の気配を感じていたのかも知れない。キロメは体力だけじゃなく、様々な感覚の機能もまた…第六感と呼ばれるものも含めて、活発化させていたと思う。
陽の光がほとんどなくなってしまった。こっちには照明塔はなく、月と星の光だけではさすがに心もとない。やはり助けを呼びに戻る方がいいだろうか…そう思った時に、綾里さんが「たま!」と大声を発した。
足元はもはや岩場になっていた。巨大な岩が乱雑に並び、手を使わなければ越えることができないところもあった。満潮時に海に沈む場所なのだろうか、ところどころに苔が生えていて滑りやすい所があり、岩と岩の隙間も多い。あまりに危険で、とても子供が行ける場所じゃなかった。
しかし珠ちゃんは居た。大きな岩壁を熟練のロッククライマーのように力強く登る幼児の後ろ姿は、周囲の暗さも相まって、かなり気味悪く見えた。珠ちゃんは上まで登り切ると、ふり返って母親を見下ろした。
我が子の(我が子じゃなくても)信じられない姿を見て、思わず立ち止まっていた綾里さんに、僕たちはようやく追いついた。
「た…たま! どこへ行くの、早く戻って! いいえ、そこで止まって!」
珠ちゃんは片手を上げて、「だいじょぶ!」とはりきって言った。
「動いちゃダメ! 止まりなさい!」
綾里さんが怒った。今朝の僕に対してのものなんて目じゃないほどの、激しい怒りだった。彼女はもう一度名前を叫んだが、珠ちゃんは何ら悪びれる様子もなく、また背を向けて、岩の向こう側に姿を隠してしまった。
綾里さんがいきなり…ベルトを緩めて、ジーンズのボタンを外した。見事にくびれた細い腰とへそがちらりと見えて、僕は焦った。それは大きめの白いシャツの裾を中に入れるため、とすぐに理解したのだが、勢いよく、かつ強引に裾をしまいこんだので、その際にファスナーも半分ほど開いてしまい、一瞬黒い下着まで見えた。その後で、僕はようやく視線を逸らせた。彼女を挟んで奥に立っていた雲妻は、僕よりも先に逆方向に顔を向けていた。…なぜかホールドアップまでしていた。
ベルトを締めなおした綾里さんは岩の上を華麗に渡った。僕と雲妻ももう怯んでいる場合じゃない、同じようにして岩の上を進んだ。途中で僕は一度足を滑らせてしまい、岩の上に右膝と両手をついた。
「大丈夫ですか?」と尋ねた雲妻に先に行くよう言って、僕は膝をさすって確かめた。強く打ちつけてしまったが、大したケガじゃない。立ち上がって2人を追いかけたが、その後幾分か足取りが慎重になったせいで、かなり遅れてしまった。
綾里さんは珠ちゃんが登った大きな岩壁の手前で踏み切ると、ほとんど岩壁の背丈まで高くジャンプした(3メートルほどあったけれど…)。てっぺんに両手をかけてつかまると、岩肌に足をつけると同時に膝を曲げて、その衝撃をスムーズに吸収していた。その後は両腕と岩を蹴った力で一気に体を持ち上げて、頂上まで登り切った。まるでワイヤーアクションを見ているみたいだった。雲妻は珠ちゃんと同じ様に岩壁をよじ登ったが、手足の長さが数倍なので、あっという間に登り切った。2人とも実に鮮やかだった……僕が一番どんくさいじゃないか。
膝が少し痛むが、このまま置いて行かれては立つ瀬がない。40秒ほど遅れて岩に取り付き、力を振り絞った。両腕はたやすく自重を持ち上げてくれた。
登った後、岩場は緩やかに下り坂になっていて、15メートルほど進むと崖になっていた。端まで行って下をのぞき込むと、3メートルほど下にまた磯浜が見えた。海面から突き出た岩礁がいくつもあって、その間を縫って勢いをつけた波が浸食している浜を、綾里さんと、少し遅れて雲妻が進んでいた。綾里さんの20メートルほど先に珠ちゃんがいた。そして珠ちゃんの傍には大きな円柱が…3本立っていた。高さは3メートルはない…2メートル強くらいか? 磯に下部を埋めていたのだ。
僕は急いで崖を下りた。しかしあまりにも暗くて危険で、慎重にならざるを得なかった。いくら身体能力が増していると言っても、落ちたらただでは済まない。30秒ほどかけて浜に着地した時、綾里さんは珠ちゃんを捕まえようとしていた。
…様子が変だ。珠ちゃんが「違う!」と言った。…なにが違うんだ?
「珠! いい加減にしなさい!」と、綾里さんが大声でしかっている。珠ちゃんが3本の円柱の間をちょこまかと走って、母親の手から身を躱していた。
円柱じゃない…あれはメェメェだ。海の中であった奴らだ。丸い石が詰まった水際を全力で走った。珠ちゃんと綾里さんを海に引きずり込んだりしないでくれよ…。
雲妻が綾里さんたちに追いついた。2人になれば捕まえられるだろう、と少し安心した時、突風が吹いて、煽られた海の水が僕の右半身を濡らした。僕は強烈な寒気を感じたが、それは海水のせいではなかった。
メェメェの1人が、頭(?)を上に開いた。そしてほとんど横倒しに近いほどに体を斜めに傾けて、その断面を珠ちゃんに向けた。まさか…
珠ちゃんは戸惑っていたが、綾里さんのタックルを躱したはずみで、その中に頭から入ってしまった。というか、吸い込まれたように見えた。メェメェは傾きを直そうとしたが、その前に珠ちゃんを追った綾里さんもまた、頭から飛び込んでしまった。そして2人を中に入れたまま頭を閉じたメェメェはまっすぐ立って、それから浮き上がった。その間…20秒なかったと思う。
僕がたどり着いた時、メェメェは5メートル以上高く上がってしまっていた。僕は呼びかける事もできず(おろしてあげてください!と、お願いするべきだったろうか…)、茫然と見上げる事しかできなかった。そして…おそらく時速10~20キロくらいの速度で、島の上空へと移動していった。小さくなって、やがて視力の範囲を超えていってしまった。
え……、え……、え……と、どうすればいい?
頭の中が真っ白だった僕に、さらに追い打ちがかかった。きれいな夜空に輝く多数の星の光が、その不穏な影の動きを、かすかに伝えてくれた。振り返ると、もう1人のメェメェが同じように頭を上に開き、傾けていて、そしてそれに乗り込もうと、すでに片足を高くあげて開口部にのせている雲妻の姿があった。暗くてよく見えなかったが…きっと恍惚とした表情をしていただろう。
「簾藤さん、わたしは…」
「雲妻さん、何をしているんですか…」
僕は疲れきった時のように、感情の起伏なく言った。
「わたしは…」
「降りてください。はやく…小恋ちゃんに連絡しないと」
「わたしは、 わたしのオタク魂は今……恐怖を克服しました!」
雲妻はメェメェの中に入った。そして綾里さん達を乗せたメェメェと同様に空に浮かび上がって、同方向に飛び去ってしまった。僕もまた同様に、ただ見送ってしまった。
え……、え……、え……と、どうすればいい?
僕は1分間ほど何もできず、ただ辺りを見渡した。もう日が暮れてしまってシルエットしか見えないが、午前中に海から見た岬があった。…もうずいぶん昔の事の様に思える。小恋ちゃんに電話をかけて、ぜひ島に残ってください、と言ってもらって、綾里さんに今朝の事を謝罪すると、彼女もまた僕に謝って仲直りして、それから…夕食は何を食べさせてもらえるのかな~、なんて夢想していたのは、さて、いつの事だったろう。
真上を向くと、満天の星がきれいだった。上弦と満月のちょうど間の形をした月もきれいだった。そしてその夜空を鏡のようにその体に映していた…あと1人のメェメェ様が、視界にフレームインしてきて、僕を見下ろした。顔がどこにあるのかは知らないが…。
下半身が砂利に埋まっていない…つまり宙に浮いていた。僕が自失している間に、メェメェ様は僕の前に移動したのだ。映り込んでいた星々がゆっくり消えて、自身がうっすらと発光するかのように、白いボディカラーが浮かび上がった。そしてその表面に、星の光とは違う赤や緑、青、紫、オレンジといった細かな光の線がたくさん…やがて数百~数千本も走った。
寒気が増していた…短時間で真冬まで季節が移り変わったかのようだった。僕は両手を交差させて、左右の二の腕をさすった。
メェメェ様の上部が、僕にお辞儀するように前に折れた。機械音や金属音はなかった。開口部から蒸気が噴き出すなんてこともなかった。ただあっさりと、郵便受けを開くように開いたのだ。そして傾いた。折れた上部の先が地面から40センチほど上の位置で止まった。10歩ほど前に進み、足を高くあげればその上に乗る事ができる。
…もうこうなったら仕方がない。だってそうじゃないか、ここでひとりホテルに逃げ帰ってどうする? 小恋ちゃんに電話するのか? ‶もうしばらく島に残してください” って。小恋ちゃんはこう言うだろう。「そんな事より珠ちゃんは見つかったんですか?」 ほら、‟そんな事“ 扱いに大幅ランクダウンだ。そして僕は「ええ、見つかったんですけれど、綾里さんと一緒にメェメェ様の中に入って、どこかへ飛んで行っちゃいました。ついでに雲妻さんも」と答える。……もう島はてんやわんやだ。大事件だ。そして僕はきっとホテルで待機を命じられる。下手すりゃ拘束されるかもしれない。もしくはさっさと帰れ!と島を追い出されるかもしれない。…最悪だ。脇役どころか、端役どころか、とんだ能無しの迷惑キャラじゃないか。きっと全キャラ中で人気最下位じゃないか。 ああ嫌だ! 絶対嫌だ! こうなったら毒を食らわば皿まで! 別に悪い事をしているつもりはないけれど…。 とにかく、3人を追うしかない!
……そうでしょう? 違う?
次回 第18話「二朱島上空大追跡」