第11話「設定説明しましょうか Part2」
貝殻のような縞模様の丸皿の上に、七切れの白身の刺身がのっていた。ワカメやトサカノリ、あとよく知らない海藻類が多種添えられている。僕はひとつ箸で摘まんで、まるで生きているようにひとりでにフルフルと揺れている(まあ勘違いだろうが…)その身を数秒間眺めていた。
「皆さんは昨晩食されたと聞いている。キロメだに」
やっぱり! 耐えきれず、僕は口の中に放り込んだ。 そう、これだ!この心地いい食感、ささやかでいて雅な香り、徐々に口内を支配するまろやかな甘み。島の人でも滅多に食べられないと聞いていたし、あの…異世界の少女とのいざこざからも、かなり貴重なものだと思われたから、もう二度と食する機会はないかと思っていた。もうひと切れ食べて、口の中に一片も残さないほどまで堪能した後、コップに残っていたビールを飲みほしてリセットした。ああ…もうあと五切れか。
「味はほぼ同じ、と言っていいほどまで迫ったと思っておる。こいつは養殖ものなんだ」
「養殖ができるんですか?」会食が始まってから、僕ははじめて声を発した。
…これじゃあ、ただの食い意地が張った卑しい奴じゃないか。
「わしが本土から連れてきた研究者と、クゥクゥが共同でシステムを開発した。うまいだろう、さあ、たくさん食べなさい」
町長が誇らしげに言った。珠ちゃんを見る、皺で半分埋まってしまった目が優しい。
「すごい…」僕は素直に感心した。敬服と言ってもいいかも知れない。町長の口ぶりからすると、おかわりをお願いできるかもしれない…ホントに卑しいな。
「しかしながら味以外については、天然のものに遠く及ばないんじゃ。…君たち、昨晩の食事の後、体調に異変はなかったか? こう…全身にエネルギーが満ち溢れるような、そういう感覚はなかったか?」
「ええ、ございました。今も継続していると思われます」雲妻が答え、僕も同意を示した。
「わたしも… この子も凄く元気になって」綾里さんもはじめて発言した。
やはり、皆そうだったんだ。そんな気がしていた。僕がこれほどキロメに魅せられているのも、体内でそれを感じ取っていたからだろう。
「キロメには、食すると人の生命力にまで強く作用する、得体のしれない栄養価が含まれておる。それが何かはまだ判明しておらん。戦前戦中のどれだけ貧しかった時代でも、島では餓死者が出ず、はやり病が蔓延しなかったのは、その力のおかげだったのかもしれん。この島の住民は皆元気で長生きだ。病気になる者も滅多にいない。この島で取れるもの…魚だけじゃなく、貝や海藻、野菜や山菜、穀物、果物、草を食べる牛やヤギの乳、皆本土のものより栄養価が高い…が、どれもこれも天然のキロメには遠く及ばない」
「島の宝、といったところですかな?」
「まさしくそうだ。だが、その宝の量は多くないし、生態は謎に包まれたままだ」
「それで、この養殖のものと天然ものとでは、その栄養価にどれ程の差があるのでしょうか?」
珠ちゃんの口に刺身を運んであげていた綾里さんが、ピクリと反応したように見えた。
「残念ながら、比べる事すらできん」
珠ちゃんは目の前で止まったままの刺身を、じっと見つめていた。
それを聞いてしまった後、ほとんど変わらないはずの味に、明確に差を感じてしまったのはなぜだろうか… 僕は刺身を二切れ残してしまった。
「それで、なぜ諍いが生じているのでしょうか? お話からは、意識の違いはあれども、仲良くされているように見受けられますが」
この雲妻の質問で説明の趣旨が戻り、また進行の役割も小恋ちゃんに戻った。彼女はそれを宣言するように「わたしから説明いたします」と言った。
メインディッシュとして、小さめの牛肉のヒレステーキが目前に置かれた。僕がすでにカットされているひと切れを口に運び、またビールを飲んだ。すでに酔いがまわっている。
「時代の流れがその原因です。先ほど説明申し上げました通り、二朱島は前世紀まではほとんどその存在を無視されていました。ひっそりと漁業を営む、わずかな戸数しか存在していないと思われていて、国土交通省の管理においても、ろくな確認もされずに…」
はあ…小恋ちゃんの声が遠くなってきた。彼女ががんばって説明しているのに、なぜ僕は酔ってしまって真剣に聞いていないのだろうか。僕よりもずっと若くて、まだ経験も浅いだろうに…こんなかわいらしい女の子が、なぜそんなにがんばれるのか…なぜそんな重責を負わされているのか。町長の孫娘だからって…父親や母親はどこに行るんだ? 兄弟はいないのか?
酔っている事を自覚しているのに、彼女の声が良く聞こえないのに、なぜ話を理解しているのだろうか。彼女の言葉が順序を変えて、主語、述語、修飾語、目的語がバラバラに散らばったというのに、僕の頭の中にいる何かがそれを急いでかき集め、独自の判断でそれらから取捨選択をしている。彼女の声が僕の声に変化して、よりよく要約した言葉を並べ立てている。そんなの聞きたくないのに。
ああ、ああ、なるほど…そうか、価値のない島だと思われていたんだな。ほっといてもどうせ税金なんか取れないし、ヘタに係わって、開発や整備を求められたりしたらめんどくさい、なんて国は思っていたのだろう。しかし、実は違ったんだな。島はそれなりに、自力で発展していたんだ。メェメェ様の力は、地球上のどんな科学力よりも優れたものなのだろう。食料や医療だけでなく、エネルギーについても地球人にとって未知の知識や技術、能力を持っているのだろう。重力に反するかのように、宙に浮いていたんだもの。20人の大の男たちを、ひと息で吹き飛ばせる謎のパワーがあるんだもの。その力を貸してもらって道をつくり、下水道をつくり、建物をつくり、発電所をつくり、通信設備をつくり、そして当然それらに伴って町政を整えていったのだろう。しかし何十年もの間、一度も国の機関が監督しなかったというのは無理があるぞ。ああ…なに? 政界や経済界のごくごく一部に協力者がいる? そうか、このじいさんならそういう政治をやってのけそうだ。キロメが駆け引きに使われたのか…なるほど、まるで若返るかのような精力増進の妙薬となると、この国を牛耳る老いた資産家やフィクサーなんかが、いくらでも金を積んだ事だろう。
しかし…ならば逆に、島の価値を知ったそれらに狙われることに繋がったのではないか…そうか、それもメェメェ様と異世界人の力でこれまで防ぐことができたのか。あの濃霧が外部からの侵略を防ぎ、あのペンダントが本土に渡る小恋ちゃんや町長、住民たちの身を守る…へえ、そうなんだ。キロメを狙う権力者たちも、いたずらに情報を外部に広めたりはしなかったろう。いつか独り占めにするために…。ならば問題ないじゃないか、ずっとそれを続けていけば、島は繁栄の一途だ。小恋ちゃんは、いずれお祖父さんの後をついで町長になるのかな。なりそうだな…君はエリートなんだな。僕なんかとは違う。はあ、もうわかった、十分だ、そろそろどこかへ行ってくれ。
「2000年ごろから代表者たち以外にも、島民の本土への往来がはじまり、それは年々増加していきました。地産地消が主だった島の経済は、やがて輸出入を中心とするようになってしまいました。もちろんそれが島のさらなる発展に繋がった事は否めません。しかしそれによって島民が、本土だけではなく、世界の価値観に触れる事に繋がりました」
「インターネットですか」 しばらく黙っていた雲妻が口を開いた。
そりゃあそうだ、いくら商取引のためだけに訪れていたとしても、何泊かは宿泊し、食事をしたり酒を飲んだり、歓楽街に遊びに出かけたりしたものは多くいただろう。そこでネット社会に触れずにいられるはずがない。それに子供たち…ちょうどその頃に出生したであろう小恋ちゃんの他にも、いくら少ない人口と言っても、少しはいたはずだ。彼女たちが小中までは島に分校があったとして、高校や大学に進学した時にはきっと本土…おそらく東京に住んだのだろう。そしてもちろん彼女たちの身を守るために、メェメェ様と異世界人たちの力が使われたのだろう。
…ああ、もう考えたくない、疲れた、もうホテルに帰ろうよ。僕には関係ない。
ご飯とお味噌汁、漬物か…食べれば少しは酔いが覚めるかな。気持ちが落ち着くかな。
「2020年、経済の充実とともに様々な情報を得た住民の一部が輸出の拡大を図り、キロメの乱獲を行いました」
あの…乱暴な男たちか、メェメェ様にぶっ飛ばされて海に落ちて、小恋ちゃんにゲロをぶっかけられた…はは、うける。
「それによってクゥクゥ側との軋轢が生じ、彼らは厳しい規制を求めました。しかしその後も状況は改善どころか悪化の一途を辿り、結果彼らは一方的に島を分割、占拠を宣言しました」
「当然の処置を行ったまでです」と、サドルが冷ややかに言った。
「キロメが生息する島西側近海はすべてクゥクゥ側の管理下に置かれ、私たちは彼らの監視のもと、制限された漁獲しか行えません。他にも、山林の多くの部分が彼らの領域となっております」
「一方的にそうなっとる」と、町長が対抗するように不満げに言った。
まあ…メェメェ様がいる限り、武力の差は段違いなのだろう。
「乱獲や過度な自然破壊はいずれ種々の生命の絶滅へと繋がります。あなた方はこれまでも今も、その過ちを何度も繰り返している。島への、生物への、自然への尊敬がないからそんな行いをするのです。監督せざるを得ません」
「そんな事はわかって…」
「理解しております!」 声を荒げようとした町長を、孫娘が制した。
「我々が欲望を増大させてしまい、暴走して、取り返しのつかない過ちを犯そうとしたのは確かです。それについては何度でも謝罪申し上げます。しかしこのままでは…共生関係が主従関係へと移り変わったような気配は、いつか島全体を不穏な空気で包み込んでしまい、暴発する危険性を常に孕むことになります。もうすでになっているのかも知れません」
「暴発した時は…あなた方がかつてそうだったように、マエマエ様が全知全能であり、何物にも脅かされることなど不可能な絶対の存在…つまり神であることを思い出させるまでの事です」
「そのお考えも、マエマエ様のお導きというものですか」
「ノーコメントです」
「まあ…落ち着きましょう」雲妻が余裕のある態度でコーヒーを啜った。
「大体の事は理解しました。もちろん不明な点も多く残っておりますし、これまでのお話を信用できるかどうかもまだわかりません。しかしもう食事も終わりまして、時間も遅くなりました。私はまだしばらくの間島に滞在する予定なので、後日にもお話を伺う余裕があると思うのですが、簾藤さんと幸塚さん親子は明後日の午前中までの滞在予定です。本題に入って頂いた方がよろしいかと思います。…今お話しいただいた島の状況で私たち観光客を招き入れ、しかも島の実情をここまで説明された意図をお話しください」
「はい」小恋ちゃんは最初から真剣だったが、改めて覚悟を決めたように表情を引き締めた。
「ツアーをご紹介した時の言葉に嘘はございません。島はこれからも発展を続けていかなくてはなりません。そう遠くない将来…5年から10年先と見通しておりますが、島の存在は明るみになるでしょう。本来メェメェ様の存在は徹底して隠し通すべきなのですが、そのメェメェ様自身のご意思は、私どもに推し量る事ができるものではございません。近年では、かなり頻繁に姿を現されるようになってしまいました。その理由はクゥクゥの方々にとっても不明と聞いております。そして、すでにいくつかの情報は長年の間に島外へ漏れ出てしまっていると考えております。おそらくメェメェ様の事も含まれているでしょう」
「その…政界や経済界のフィクサーといった存在にですか?」
「ええ」
「なぜそう考えます?」
「長年の間に、島から出ていったものは少なくありません。それを止める道理を持つほどに、徹底することはできませんでした」
「なるほど、その中に接触をされたもの、もともと接触を企んだものもいたかも知れませんね…甘かった、という訳ですな」
「ええ、しかしわたしは、それはやむを得ない事だと思っております。それに、どうせ時間の問題です」
「でしょうね」
「いずれ島の情報は広がり、そしてその結果、島の資源を求めて国の機関が大手を振って訪れ、調査という名目で接収を行うでしょう。島の住民は全員追い出されることになります。そしてその時は、もしかしたら日本とクゥクゥの本格的な武力衝突まで発展する恐れがあります」
「おそらくそうなるでしょう」
サドルは食事をすべて平らげていたが、お酒やコーヒーにはいっさい口をつけず、水だけを飲んでいた。
「そうですね、もしかしたら相手は日本だけじゃすまなくなる」
「それまでに島は確固たる自治を築いておかなくてはなりません。町を整備し、産業を発展させ、人口を増やし、子を産み…」
「武力も必要でしょう」雲妻が嬉しそうに挟んだ。
「…ええ、しかしその分野はメェメェ様とクゥクゥの皆さまに頼るしかありません」
メェメェ?クゥクゥ?…冗談もほどほどにしてくれ。独立国家にでもなるつもりか?
「つまり協力関係の維持は、島の存続に必須というわけですね」
「島に新しい、理性的で穏健な考えを持つ若い住民が必要です。本土からどんどん移住して頂いて、多数派を形成できるほどにしなければなりません。…早急に」
「僕たちは、テスト対象だったという事でしょうか?」僕が養殖キロメについての感想をのべて以来、はじめて口を開いた。昨晩の天然キロメの影響が続いているからだろう、酔っているのに、頭は回転している。感情が揺れている事も自覚していた。
「つまり、島に移住しないか、と誘ってくれているのでしょうか?」
「はい…」小恋ちゃんがいつもと違う僕の様子に戸惑っているようだ。いや、まだ出会ってわずかなんだよ。いつもの僕なんて、本当の僕なんて知らないでしょう?
「そうか、思い出しました。初めて話した時にもそう言ってたね。そうか、そうだったんだ。ツアーの値段にも納得がいきました。それで、お眼鏡にかなったという事でしょうか、僕たちは」
「響輝さん、少し酔われてしまったのではないでしょうか? よろしければ説明の続きは明日に延期して…」
「いえいえ、大丈夫です。ちゃんと聞いておりました。すごい話だな~ってね。…はっきり言ってついていけません。信じないわけじゃないですよ、あんなの見せられたんだから。でもね、あまりにも急すぎるし、情報量が多すぎます。これに対応できるほど僕は大した人間じゃない。設定はもっと最初の方で、ある程度説明しておくべきじゃなかったですか? ラノベだってそういうの多いじゃないですか。第1章どころか、序章でありったけ説明するんですよ。それで読者は判断するんですよ、これを読み続けるかどうか。あとはその舞台の上で主人公がのらりくらり遊んでいるだけなんだから。なぜかって、最初に安心しておきたいんですよ。途中で自分好みのストーリーじゃなかったと気づいたら、それまでかけた時間を後悔するかも知れないじゃないですか。予測できない展開なんて、望んじゃいないんですよ」
ああ、何を言ってるんだ僕は…
「私は先が読めない方が好みですが」
「そうですか、気が合いませんね」間髪入れずに言った。
めずらしい、雲妻が少し怯んだように見えた。それだけ今の僕は、彼らにとってらしくない振る舞いをしているのだろう。僕自身もそう思う。でも、なぜか止められない。
「僕は…リゾートに訪れたんです。景色はきれいだし、料理は美味しいし、文句はありません。異世界の人々やマエマエ?メェメェ? それだって、アトラクションだと思えばとても楽しいものでした。でも、領域を争っている? 武力衝突だって? とんでもない、そんなもの望んでいません。巻き込まれたくないですよ」
僕は嘲るように少し笑ってしまった。別に小恋ちゃんたちをバカにする意図はなかった。僕は、なんだか妙に感情的になってしまっている僕自身を嘲笑ったつもりだった。
「大体、そんなの本土の人が信じますかね? メェメェ様…あんなアニメのロボットみたいなのがあるだなんて。空を飛ぶだなんて、神様だなんて。たとえ写真や動画があったとしても、単にフェイクとみなされるのがオチなんじゃないですか? なんかちょっと、オーバーかな…盛ってんじゃないですか?って…はは」
すごくヤな感じになってしまっている。論破王みたいな口ぶりだ。
「いやあ~大金と健康がかかっていたら、人はなんだって信じようとしますよ~」
さらに嫌な感じで雲妻が言った。僕もそのにたにたした、人を小ばかにしているような笑顔に合わせてしまった。小恋ちゃんはどう思って僕を見ているだろう、綾里さんはどんな表情をしているだろう。怖くて、僕の視線は男衆の方向にのみロックされていた。
「すみませんが、僕は係わらないでおきます。仕事もあるし、両親だって健在ですので、とても移住なんて考えられません」
「何も今すぐに移住して欲しいと望んでいるわけではありません。検討して頂けないかと、私たちに協力して頂けないかと、お願いしている所存です」
小恋ちゃんの声が聞こえるが、僕は顔を向けようとしなかった。
「無理ですよ、僕なんかが…」
「島に移住したら仕事には困らんぞ、どこも人手不足だ。おそらく収入だってずっとあがる。もしよければ、ご両親を連れて来てくれてもいい。今なら広い家を用意してあげられるぞ」
視界に入っていた町長が言った。
「何もお役に立つことはできませんよ。僕は…30前で左遷されるような男なんですから」
なぜ言った?
「そんな、異世界とか紛争とか、僕の手に負えるようなものじゃありません。それ以前に、現実感を持てません。受け入れられない」
「別にお前さん一人に負わせるつもりなんてないが…現実感がない? 受け入れられない? そうなのか? 若いのにそんな狭量な事でどうするんだ? 異世界なんてのはともかくとしても、領土問題や紛争なんて、そこらじゅうで起きているじゃないか。日本だってずっと昔から隣国との緊張状態が続いているだろう。何を寝ぼけたことを言っとる。わしはもう年だが、お前さんたちが生きている間に、きっとそれらの問題は自分たちの人生に直接的にふりかかってくるぞ。年寄りが解決できないまま放って置いたツケを、君らが支払う羽目になるのだ。いま当事者意識をもたないでいてどうするつもりだ。主導権を握ろうとしないでどうするんじゃ?
これはチャンスなんだぞ。本土でもそうだろうが、特にこの島では若い者は貴重だ。30なんてこの島では宝物扱いされる。早いうちに町政に係われば、きっと立場も確立されるぞ。能力なんてものは、その後に時間をかければある程度どうにかなる、ようはすぐに手を挙げるもの、素早く移動できるものが重宝されるんだ。早い者勝ちなんだ。サラリーマンをやっているならわかるだろう? そういう奴らがすべてを得るんだぞ」
…それがうんざりなんだよ。自己主張の強い奴が、声が大きいだけの奴が、大した能力もないくせに有利な立ち位置をさっさと奪っていく。どこでもそうだ、都会でも田舎でも…僕には無理だ。僕は自分のできることをきちんと把握して、その範囲内で確実にこなすほうが向いているんだ。そういう人間が大多数なんだよ。そういう人間が社会を支えているんだよ。町長とは違う。小恋ちゃんとも違う。雲妻とは絶対違う。…そういう、地味な人間なんだ。ほっといてくれ。
「すみません、僕にはそこまで環境を変えてしまう勇気がありません。この話は聞かなかったことにして、明後日におとなしく本土に帰ります。もちろん、この島の事をSNSで発信したり、友人や家族に話したりするつもりはありません。どうせ信じてもらえないでしょうし…」
「…そうか」 話し疲れたかのように、町長がため息をついた。
「まあ、それが普通の反応なのかもしれん、残念だな。
小恋よ、失敗したな。まあまだこちらのお二人がいるから…いや、三人じゃったな」
「…ええ」
小恋ちゃんは、どんな表情をしているだろうか。
「ちょっとトイレをお借りしていいですか。少し飲み過ぎたみたいで…」
町長が案内するためにお手伝いさんを呼んでくれた。僕が部屋を出て行くとき、小恋ちゃんが僕の名前を呼んだ。彼女が僕の姓を口にしたのは、初めて出会った時以来の事だった。僕はつい彼女の顔を見てしまった。彼女は大人だった。
「この度は簾藤様の事情やお気持ちを顧みず、私共の一方的な都合を押しつけるお願いをしてしまい、大変申し訳ございませんでした。どうか今回の事は気になさらず、残りの時間をゆっくりお楽しみくださいますようお願いします」
そう言って、深々と頭を下げた。ああ…また謝らせてしまった。違うんだ。君が悪いんじゃない。僕のどうしようもないコンプレックスのせいだ。僕は君に同情していた。たったひとりで他社の窓口を借りて営業させられて、出発から今までずっと、早朝から夜遅くまで僕たちのアテンドをさせられて、きっとその他にも多くの仕事を抱えていただろう。その姿に、僕のこれまでのサラリーマン生活が重なっていたんだ。何度も頭を下げて謝って、それでも決して腐ることなく、努めて元気にふるまう君の姿を、眩しく、愛おしく思っていたんだ。 君のような若くて魅力的な娘に、本気で恋心を抱くほど僕は愚かじゃない。僕はきっと、君を身近な…グッズをひとつかふたつ買えば握手をしたり、会話ができるアイドルのように思っていたんだろう。でも違った。君は町長の孫娘…この島の実力者のひとりなんだ。君はエリートで、エリートらしい能力とリーダーシップを兼ね備えているのだろう。それは僕にとって眩しさを超えて、嫉妬を抱かせる存在なんだ。ずっと年下の女の子に対してこんな風に思ってしまうなんて、なんて情けないんだろう、なんて卑屈なんだろう…そう自覚している。僕は自分で思っているよりも、左遷されたことにひどいショックを受けているんだろう。そんな自分が腹立たしくて…とても辛いんだ。
僕は言葉を返せず、軽く頭を下げて部屋を出て行った。ああ…なんて嫌な気分だ。酔いつぶれて何も考えられなくなろうとしたのに、逆効果だった。感情が溢れ出ているのに、脳はきちんと回転していた。何を言っているかわかっていた。今晩の記憶は一生残るだろう。1年に2~3度思い返してしまって、その度に頭を搔きむしるはめになるのだ。キロメの高い栄養価をはげしく恨んだ。あんなもの、食べるんじゃなかった。
ああ…こんな事になるなんて思わなかった。もっと呑気でラブコメ要素多めの、だらだらした日常ファンタジーで良かったのに。…現実は甘くない。異世界も甘くない。
この後疲れきったふりをして誰とも口を聞かないままホテルに帰り、2泊目を迎えた。内容が濃すぎる…とてもわずか2日しか経っていないと思えない。1週間、いや2週間くらい経ったような気がする。…得した!とは思えない最悪の気分だった。
次回「第12話 自滅スパイラル」