アレスの懸念
新年休みも明け、日常の生活に戻る者が多い中、アレスは仕事の休みを延長してもらい、フィオナから朝から晩まで特別レッスンを受けていた。
王家主催のパーティーに、テトラス・ロワールのパートナーとして恥じない振る舞いを身に付けるためだ。
アレスが日々邸に籠ってレッスンに身を投じる中、テトラスは王宮への外出と自身の執務室に籠る時間が増えた。
彼の執務室は部屋ではなく、同じ敷地内に別棟として存在する。その中では魔法に関する研究や実験をすることが多く、周囲に魔法干渉を与えないよう外壁に特別な結界を付与している。
アレスが来てからは、彼女が寝ている間だけこの別棟に来ていたのだが、最近はまた籠る生活に逆戻りしていた。
それでも、律儀なテトは、朝晩の食事はアレスとの時間を過ごすようにし、必ず時間を見て本館に戻るようにしており、そんな主人の姿を使用人達は大変好ましく感じていた。
「フィオナの授業はどうだ?辛くはないか?アレスは私の隣にいるだけでいいのだから、無理して色々覚える必要はない。」
夕飯の席、いつものようにアレスとダイニングに来たテトは、席に着くなり心配そうにアレスに声を掛けてきた。相変わらず、どこまでも彼女に甘い。
「大丈夫だよ。こう見えて、話し方は完璧って言われてるし、あとは挨拶や礼儀の部分をもう少し練習すれば貴族令嬢っぽく見えるようになるって言ってもらえたよ。ね、すごくない?」
テトの心配を他所に、アレスは皿の上に乗った好物のブルーチーズを見つけた瞬間、手で掴んで口に放り込みながら、自信満々に答えた。
手掴みも、一口で食べることも、順番を無視していきなり好きな物から食すことも、貴族令嬢としては完全にアウトな所作である。
だが、テトには彼女の明るげな表情しか見えておらず、それなら良かったと安心したように優しく微笑んでいた。
「あ…思い出した。一つだけ懸念点があって…」
アレスは、ニンジングラッセを食べようとした手を止め、ニンジンが刺さったままのフォークを皿の上に置いた。
銀のフォークとガラスの皿が当たる高い音がした。
「どうした?何かあったのか?」
アレスの不安げな声と表情に、テトは席を立つ勢いで心配そうに尋ねてきた。軽く椅子を引いており、もう立ち上がる寸前だ。
立ち上がるのか、立ち上がらないのか、どっちつかずの中途半端な姿勢に、主人の椅子を引くべきかどうか、控えていた給仕係が一人で焦っている。
「この緑の石、パーティーの間だけ外してもらえない?」
アレスは胸元から石を取り出し、キラキラと静かに輝く表面を指で撫でながら聞いてきた。
「え…」
アレスの言葉に、テトの視界から色が消えた。ように見えたくらい、彼は絶望した。口に入れて咀嚼していた鶏ハムの味も一気にしなくなった。ゴムのような食感だけを感じ、飲み込んだ。
そして、糸が切れた人形のように、浮かせていた腰をストンと下ろした。
それを見た給仕係は、迷って一歩出していた足を後ろに引き、静かに元の姿勢に戻っていた。
アレスが、俺の色を人前で身につけたくない、と…それはつまり、俺と親しい関係にあると皆に思われることが嫌だということか…
俺の気持ちばかりを一方的に押し付け、彼女の気持ちを知ることから逃げてきたばかりに、こんなところでこんな形で拒絶を示されるとは…
俺には彼女しかいないのに、彼女しかいらないのに、こんなにも想っているのに…それなのに…
「フィオナ先生が言ってんだけど、テトラスって呼んでたら石を投げられたことがあったんだって。それからテトラス様って呼ぶようにしたって。私なんて、テト呼びじゃん?絶対レンガだよレンガ。だからと言って、そんな理由で呼び方を変えるのも癪だし、でもこの防御魔法でレンガを跳ね返したら相手即死でしょ…それはさすがに嫌だなと思ってさ…」
投げつけられたレンガが相手に跳ね返る様子を鮮明にイメージしてしまったアレスは、再度口に運ぼうとしていたニンジングラッセを皿の上に戻した。
恐怖にぶるっと震える身体を落ち着かせるために、紅茶を一口啜った。
「良かった…」
泣きそうな声でテトは呟いた。
彼の世界に色と味覚が戻ってきた。彼の世界は非常に単純な造りをしている。
「いや、全然良くないんだけど…これ解除してもらえないと、私人殺しになっちゃう…」
アレスも泣きそうな声であった。
ティーカップを片手に、まだぷるぷると身体を震わせている。
「大丈夫だ。当日は常に私がアレスの隣にいる。その防御魔法が発動する前に、私が速やかに害悪を取り払おう。」
「え…それ、私の代わりにテトが犯罪者になるってこと…?それもダメだって。」
「アレスに危害を加えようとした者の命は取らん。自らの死を懇願するようになるまで、私が懇切丁寧に話を聞いてやろう。」
レンガを投げる云々の話はアレスの妄想でしかないのにも関わらず、本気にしたテトからは殺気が溢れ出ていた。その表情は仄暗く、人を殺しそうな目をしている。
「なんだよこれ…私が相手に付け入る隙を与えないようにしないと死人が出るやつじゃん…めちゃくちゃプレッシャーなんですけど…頼むからみんな物理攻撃じゃなくて、精神攻撃にしてほしい…でもそんなことお願い出来るわけないから、こりゃ先生との授業死ぬ気で頑張らないとだな…」
アレスは、防御魔法よりも恐ろしいテトの一面を見て、味も香りもしなくなった紅茶を胃に流し込んだ。
死人を出さないために、とにかくこれからは毎日寝る前に授業の復習をしようと心に決めた。




