沢蟹ヶ淵
怖めのお話です。
若干ですが残酷描写がありますので、R15にしています。
苦手な方はご注意下さい。
ある夏の日。テレビを見ていると、ある地方の淵では沢蟹がたくさん捕れるというニュースが流れていた。聞き覚えのある地名だったので調べてみると、電車で何駅か乗り継げば行けるところだと分かったので、偶にはそういう自然の豊かな所に行くのもいいかも知れない。そう思った私は次の土曜休みにその淵へと行ってみることにした。
朝早くに起きて電車に揺られること数駅、都市を離れるに従い田んぼや畑が増えてきて、遠目に山が見えるようになってきた。そして目的の駅に到着したので、電車から降りて駅のホームに立つ。改札を出ると正面にお土産屋さんらしき建物があったので、そこで淵のことを聞いてみることにしようと立ち寄ることにした。
ドアを開けるとチリンチリーンという涼やかな音が聞こえ、どこか懐かしい、田舎の駄菓子屋のような匂いが店の中から漂ってくる。店内に入ると、店の中には老婆が一人、レジのあるカウンターに座っていた。
「いらっしゃい、こんにちわ。良く来たねぇ、もしかしてあんたも沢蟹の淵に行くのかい?」
「こんにちは。ええ、実はそうなんです。良く分かりましたね?」
「なぁに、こんな田舎にあんたみたいな都会の人間が来るとしたら、最近テレビでニュースになったあそこに用事があるとしか思えないからねぇ」
人懐っこい笑みを浮かべながら話しかけてくる老婆に、こちらも愛想よく笑顔を浮かべて答える。
そうすると老婆は楽し気に笑いながら、簡単なことさね、と理由を教えてくれた。
確かに、と言っては失礼だがこんな田舎に都会の人間が来るとしたらそれしか理由がないだろうと納得をしてしまう。
「でもねぇ、あのニュースが流れてから、あっちこっちから沢蟹を捕ろうって人が来てねぇ。今ではもう沢蟹もほとんどいなくなっちまったんだよ。もし、あんたも沢蟹を捕りに来たんだったら無駄足になったねぇ」
「ああ、いえ、私は沢蟹を捕りに来た訳ではなくて、ただ涼しくて気持ちよさそうな、自然の豊かそうな場所だったから行ってみたいと思ってきたんですが。でも、そうですか。沢蟹はもう余りいないのですか。無体なことをするものですね、沢蟹が可哀想だ」
「そう言われてみれば、あんた、バケツもクーラーボックスも持ってないねぇ? まぁ、自然ならまだまだ残ってるよぉ。流石に自然は捕れないしねぇ。ふふ、沢蟹が可哀想かい。あんた、強面の割りには優しいことを言うねぇ」
強面なのは生まれつきです。小さい頃から普通にしていても怒ってる? とか顔が怖いせいで無駄に子供に泣かれたりとかしていますが、私は自然を愛する心優しい人間ですよ?
まぁ、確かに、テレビで紹介されるなどするとそうやって乱獲されてしまうということはあるけれど、ここもそうなってしまっていたか。
老婆も、歩きやすい服装はしているものの、捕った沢蟹を持って帰る入れ物を持っていないことに気付いたのか、なるほど、というように頷く。
老婆の冗談に笑いながら、確かに自然は捕れないですね、と言って店内を見回して、淵へ向かう詳しい道を教えて貰おうとする。
すると、入口の方からチリンチリーン、と鈴の音がして若い男女の二人組が店内に入ってきた。
男の方は小さなクーラーボックスを手に持っており、何をしにここに来たか丸わかりである。
「うっわ、なにここ、凄い古臭ーい!」
「ははっ、確かに古くて臭いな、ここ」
入って来るなり失礼なことを言う二人に、私は思わず閉口し、老婆もむすっとした顔をする。
すると、こちらに気付いたのか二人組が近づいてきた。
「ねぇねぇ、おばーちゃん、沢蟹が捕れる淵ってどう行ったらいいの?」
「俺達、沢蟹を捕りに来たんだけどさー、そこに行くまでの道ってネットでも分からなかったんだよなぁ。ここ、どんだけ田舎なんだよって話だよな」
どこまでも失礼な二人組に、老婆は黙って一枚の紙を取り出して渡す。ちらっと見えたそれには駅から淵へと向かう道のりが描かれていて、それを見ながら行けば迷うことはほぼなさそうな案内図だった。
「ちょ、おばーちゃん、マジ態度悪くなーい?」
「そうそう、客商売ならもっと愛想良くしないと。お客様は神様だろー?」
老婆の対応にイラついたのか、絡み始める二人組。流石にこれは見過ごせないな、と間に入ることにする。
「君たち、お年寄りに失礼だろう。それに、お客様は神様というのは、客の側から言うことじゃないと思うぞ」
「なんだよ、関係ない奴はすっこんで……ヒィッ!」
「ちょ、どうしたの……ピィッ!」
無表情で二人組を見つめれば、悲鳴をあげて慌てて店内から逃げ出していく。怒った顔を作るより、無表情の方が怖いってよく言われていたからな。とはいえ、そんなに怖いだろうかと少し泣けてくる。
「あははははっ、ざまぁないねぇ。あんた、ありがとねぇ、助かったよ」
「いえいえ、この顔がお役に立てたなら何よりです」
「あたしは格好良いと思うけどねぇ。そうだ、助けてくれたお礼に、いいことを教えてあげるよ。淵に行ったとしても、中に入ったらいけないよ」
逃げる二人組を見て大笑いをする老婆。お礼を言われるものの、大したことではないと謙遜をしておく。
そして老婆の淵に入ったらいけない、という言葉に確かに急に深くなっているところがあって危ないですからね、と言えば老婆は笑って首を振る。
「あの淵にはね、河童様が住んでいるのさ。人気の多い時には姿を見せないんだけどね、一人か二人かくらいの少ない人数で行くと、稀に河童様が出てきて淵の底に引きずり込んじまうって話だよ。あんたも一人で行くんだったら、河童様には気をつけな」
「なるほど、河童様ですか。それなら胡瓜を持って行ってお供えしたらいいですかね。河童様は胡瓜が大好物と言うのが定番ですし」
「ひゃっひゃっひゃ、確かにそうだねぇ。それなら丁度そこにあるよ?」
河童と言えば胡瓜、そういう私に老婆は楽し気に笑い、籠の上に並べられた胡瓜を指さす。取り合えず、三本ほど購入して袋に入れて貰い、先ほど二人組に渡していたのと同じ紙と一緒に老婆が渡してくれる。
「いいかい、もし河童様に出会ったらこの胡瓜をお供えするんだよ。それから、これはお守りだ。持っておいき」
そう言って老婆が私にくれたのは錆びて緑青の浮いた十円玉だった。これがお守り? と首を傾げていると老婆は深く頷いた。
どうしてこれがお守りになるのか分からないものの、真剣な表情をしている老婆を見ると返すのもはばかられる為、ありがたく受け取ってポケットに入れておくことにする。
「それじゃあ、ありがとうございました。暗くなる前には帰りたいので、今から行ってきますね。また帰りに寄りますので宜しくお願いします」
「ああ、気を付けて行っておいで。待ってるよ」
小さく一礼をして、ドアを開けて店の外に出る。少し話し過ぎただろうか、太陽が高いところまで来てしまっていた。
そして地図を頼りに道を歩き、森の中に入って坂道を登っていく。木々に日光が遮られて影になっており、夏だと言うのにとても涼しくて歩きやすい。ときどき聞こえてくる鳥の声や足元を走る名前を知らない蟲、木の幹を這うトカゲらしきものと、確かに自然は残っているなと嬉しくなる。
登り坂を歩いているとどんどん森は深くなり、道もかろうじて人が一人通れるくらいの狭さへと変わっていく。じめじめと湿気も強く感じられて、石や木の表面に苔が生えていたりと淵が近いと教えてくれる。
「あ……そう言えばあの二人組も淵に行くとか言ってたな。このまま行くと鉢合わせるんじゃないか? まぁ、出会ったらそのときはそのときだけど……」
あの態度の悪い、若い二人組。先ほどは眼力ならぬ顔力で追い払ったが、要らぬトラブルにならないといいんだけど、フラグが立っちゃったかな。
そう思いながら歩いていると、強い水の匂いがし始めていよいよ淵が近い、ということが分かって来る。
そして、木々の隙間に日光を反射してきらきらと光る水面が見えてくること、バシャーン! と大きな水音がする。
「なんだ? まさか、淵に誰か落ちたか?」
もしそうなら助けないと、そう思って苔が生えていて走りにくい砂利道を走っていくと、そこに見えたのは淵の中を泳ぐ、水着姿のあの二人組だった。
楽しそうにキャッキャウフフと泳ぎながら鬼ごっこをしていて、思わず目が点になりそうになる。
「……心配して損した。というか、幾ら水が綺麗とはいえ、いい年した人間がこんなところで泳ぐか?」
そして男が女を水の中で捕まえると、抱きしめ合って見つめ合ってそして……って、おい!?まさか、こんなところで……?
他に誰もいないと思ってるのかも知れないが、ここにいるぞ!?
「……来るんじゃなかったな。折角の神秘的な淵が台無しだよ」
げんなりとした気分になり、踵を返して立ち去ることにする。折角、綺麗な自然を楽しもうと思ったのに本当に台無しだよ。大きく溜息を零し、そう思いながら歩き出すと後ろから大きな水音が響く。
バシャーン!バシャバシャバシャ、バシャァっ!バッシャーン!
「きゃーっ!?」
同時に聞こえる大きな悲鳴に、流石に慌てて振り返ると男の方が溺れていた。いや、溺れているというより何かに引っ張られて、水中に引きずり込まれそうになっているように見える。
「なんだ? 何事だ? ちっ、流石に見捨てる訳にはいかないか……って、なんだあれ!?」
何が起こっているのか、良く分からないものの流石に見殺しにしてしまっては後味が悪すぎる。助けに行こうと駆け出すと、水面の色がおかしいことに気付く。
「なんだ? 水面が赤い?」
真っ赤、水面が真っ赤に染まっていたのだ。怪我をして出血したのだとすれば、既に致死量に達していてもおかしくないほどに真っ赤に水面全体が染まっていた。
「ごほっ、助っ、助けっ! ごほご、うっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「いやぁぁぁぁぁぁっ!?痛いっ、痛い痛い痛いいたい、イタい、イタぃぃぃぃぃっ!!」
男の絶叫に女の痛みを訴える悲鳴。まさか、本当に河童様が……!? と現実逃避気味に思っていると、真っ赤に染まった淵の水面がざわざわと蠢いていることに気付く。
「な、なんだ? 水面が蠢いて……ヒィッ!?」
蠢く水面の正体に気が付いたとき、思わず尻もちをついてしまう。最初は血かと思ったそれは、無数の真っ赤な沢蟹の群れだったのだ。
それが二人の身体にまとわりついていて……痛い! と悲鳴を上げているのは沢蟹たちがハサミを突き立てているからだろう、皮膚を裂かれ肉を抉られ、激痛に悲鳴を上げているのだ。
そして二人の身体は完全に沢蟹に覆われて見えなくなり、水面の下へと沈んでいってしまった。
「に、逃げ、逃げないと……ヒィィィィィッ!?」
ここにいては危ない、自分も沢蟹の餌食になってしまう。そう思って力の入らない脚に、活を入れて立ち上がろうとしたとき、自分がトンデモない状況に陥っていることに気付く。
わしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃ
気が付けば、地面に、木の幹に、木の枝に、木の葉に、石の上に、無数の真っ赤な沢蟹が私を取り囲むように蠢いていた。
「うっ、うわぁぁぁぁぁぁぁ!? く、食われるっ!?」
とにかく逃げなければ、そう思うものの腰が抜けてしまったのか立ち上がれない。
「あ、あぁぁぁぁぁぁ、誰か、誰か助けて! 来るな、こっちに来るなぁっ!」
まるでこちらの様子を伺うかのように沢蟹達は私を囲んでいる、まさか、怯えて恐怖に震えている私を見て楽しんでいるのだろうか。
不用意なことをすれば一斉に襲い掛かられてしまいそうで、私はパニックになりながらも乱暴に追い払うことは出来なかった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……あ? 近づいて、来ない……?」
私を取り囲んでいる沢蟹達は、私から一定距離を取りながらもそれ以上は近づいてこなくて、私が手や足を動かすとその動きに合わせるかのように距離をあけていたのだ。
まるで、私の身体から何か沢蟹達が嫌がるフェロモンでも出ているかのような動きに、もしかしてと袋から胡瓜を出して沢蟹に近づける。しかし、なんの反応も示さないことから、胡瓜を袋に戻してポケットに入れておいた錆びて緑青の浮いた十円玉を取り出す。
すると、沢蟹達はずざざざざざっと私から更に距離を取り、遠巻きにこちらの様子を窺うようになった。
「本当に、これがお守りになってる、のか? とにかく、これでどうにか逃げられる……沢蟹を踏まないように気を付けないと、怒らせたらお守りがあっても襲われかねないからな」
理由は分からないものの、沢蟹達はこの十円玉を嫌がって近づいてこないようだ。ひとまずの安全が確保されたことで落ち着いたのか、どうにか立ち上がることができた。そして万が一でも落としてはいけないので、ポケットに十円玉を戻して足元を確認しながらゆっくりと歩き出す。足を踏み出す度に沢蟹達は道を開ける為、踏んでしまう心配は少ないものの、早く早くと逸る気持ちを落ち着けて慎重に歩いてその場を離れる。
そしてある程度その場を離れていくと沢蟹達の群れの終わりに辿り着き、沢蟹を踏む心配がなくなったところでダッシュで坂道を下っていった。
どうにか日が暮れる前に山を下り、私は土産屋の老婆に話を聞こうとドアを開けて店内へと駆け込む。
チリンチリーン。
「おや、どうしたんだい、そんなに慌てて。あーあー、服が泥だらけじゃないか。淵で転びでもしたのかい?」
「お、おばあさん。淵で、二人組が、沢蟹にっ……」
「まぁ、落ち着きな。ほら、これで手を拭いて……これをお飲み」
息が整わない私に、老婆は濡れたタオルを渡してくれて、それで手と顔を拭いたところでオレンジジュースを蓋を開けて渡してくれる。
私がそれを飲んで一息つくまで、老婆はどこか楽し気な、不気味ささえ感じる笑みを浮かべていた。
「それで、二人組っていうのはあんたが追っ払ってくれたあの二人のことかい? 淵でどうしたんだ、沢蟹を捕っていて足を滑らせて淵に落ちでもしたのかい?」
「二人組というのはその二人のことなんだけど、淵で……淵で、数えきれない沢蟹に襲われて……」
「どうせ淵で不埒なことでもしたんだろう。それで淵の河童様のお怒りを買ってしまったんだろうねぇ。沢蟹は河童様の御使いだからね、数えきれない沢蟹が現れたんだったらそうなんだろうよ。ひゃっひゃっひゃ! いやいやあんたは運が良いねぇ、襲われずに済んで。お守りがきちんと効果を発揮したんだろうねぇ」
当たり前のことを話すような老婆に、私は唖然としてしまう。それではまるで、あの淵で起こることが分かっていたようではないか。そしてお守り、と言われてポケットに入れていた錆びて緑青の浮いた十円玉を取り出す。
「このお守りが、私を守ってくれた、ということですか」
「ああ、最近の若いモンは知らないかも知れないけどね、緑青って言うのは昔から魑魅魍魎から身を守る効果があるって言われてるんだよ。だからあんたは助かったのさ。まぁ、怖いことは早く忘れちまった方が良いよ。覚えていてもいいことはないからね」
「ですが、人が二人も犠牲になっているんですよ? 警察に通報した方が……」
魑魅魍魎、以前の私ならそんなまさか、と鼻で笑ってしまっていただろうが、あの体験をしてしまった今となってはそんなことは出来ない。事実、この十円玉を見せた瞬間に沢蟹達は私から距離を取って離れたのだから。
そして、あの淵で沢蟹達に襲われた二人、恐らくはもう生きてはいないだろうが警察に通報して、せめて亡骸だけでも引き上げてやるべきでは、そう言った私に老婆は楽し気に笑った。
「ひゃっひゃっひゃ、優しいことだねぇ。でもねぇ、骨も残さず食いつくされているだろうから、亡骸が上がることはないだろうよ。まぁ、誰かが淵に行ったら、落ちてる服や荷物を見て通報するさ。それに警察になんて説明をするんだい? 淵で泳いでいたカップルが沢蟹の群れに襲われて、そのまま水底に引きずり込まれたなんていったら、正気を疑われるか、関与を疑われるよ? 痛くもない腹を探られるのは嫌だろう?」
老婆の言葉に、私は口を開きかけて何も言えずに閉じてしまう。確かに沢蟹に襲われたなんて言っても信じて貰えないだろうし、寧ろ二人が溺れているのを見捨てた――実際、襲われているのを見捨てた訳だが――と言われて痛くもない腹を探られるだけになるだろう。そもそも、見知らぬ態度の悪い二人組の為に私がそこまでしなくてもいいのではないか、そう思い始めてきた。
「ま、あんたは何も見なかった。もし、警察がこの店に来ても二人組は確かに来たし、道順を書いた紙を渡したけど後の事は知らないって私は言えばいいし、あんたはこの店で二人組を見たけど私と話し込んでいて淵に行くのタイミングがずれて、淵に着いたときには二人の姿は見なかったし、荷物も目に入らなかったと言っておけばいいさ」
確かに、段々と老婆の言う通りのような気がしてきた。沢蟹に襲われたなんていうよりは余程、現実的だし警察もそう聞けば納得してくれるだろう。少しはしつこく聞かれるかも知れないが答えようがないのだから、諦めてくれるはず。色々なことがあって疲れていたのか私の頭は回転が鈍くなっており、それ以上のことを考えることが出来なくなってきていた。
「そう、ですね。起こったことを話しても信じて貰えないでしょうし、そうするしかありませんね」
「そうそう、そうするしかないよ。さ、それじゃあ今日はもう疲れただろう。早く帰ってメシを食って風呂に入って寝るといいよ」
老婆は私が説得に応じたことに満足したのか、大きく頷く。そして、私がタオルと十円玉を返すのを受け取ると、そうそう、と言うようにある瓶をもってきた。
「ところで、土産にこれはどうだい? 酒のツマミにぴったりな沢蟹の素揚げ。かりっとした食感で、病みつきになる美味さだよ? 栄養もたっぷりで体に良いよ? 何せ、餌が良いからね! ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ! ひゃーっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ!」
そう言って大きな声で楽しそうに笑う老婆の顔に、私は顔を引きつらせて遠慮する旨を伝え、慌てて土産屋を後にする。
それからどうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。はっと気が付いたときには玄関のドアを開けて部屋の中に入っていた。
何故かずっと手に持ち続けていた胡瓜の入った袋を台所のテーブルの上に置き、洗面所へ向かい手を洗ってから脱衣所で着ていた服を脱いで籠へと入れていく。
そして台所に戻り、冷たいビールを取り出してからふと思いついてマヨネーズも一緒に取り出す。胡瓜を摘まみに一杯やるのもいいだろうと、ビニール袋を開いて胡瓜を取り出しながら、ふと呟く。
「……沢蟹の素揚げ、何も知らなかったら美味しそうだって買って帰ってたかも知れないな」
今となっては、絶対に買って帰ろうとも食べようとも思えない。
老婆の言っていた良い餌、それはもしかすると……なのかも知れないのだから。
それから暫くの時が流れた。あれ以降、私がその淵に向かうことはなく、土産屋の老婆がどうなったかは分からないし、二人組の事を聞きに警察が来ることもなかった。
ただ、ふと老婆のことを思い出すと身体に震えが走ってしまう。
あのとき、大きな声で笑っていた老婆の顔は……額が横に広くて目の間隔が離れており、妙に赤ら顔で、瞳が丸く、まるで!ああ、まるで!!
さわがにをほうふつとさせるようなかおをしていたのだ。
自然は大事にしましょう。
そこに生きている動植物を乱獲するのは厳禁です。
不用意に生き物を捕獲すると、次はもしかしたら……