episode.7
騒がしかった狼達が狩りに出ると、家の中は瞬く間に静まり返り、ディサはガウラと二人きりの夜を過ごす。
ランプに灯る火が、しっとりとした夜の闇をオレンジ色の膜で照らしだす。ディサが王都で過ごしていたときの電灯の明かりとは違う、この心許ないような淡い光に慣れるのに、そう時間は掛からなかった。静かな森の夜に溶け込む光は、心に安らぎを与えてくれる。
「ほら、今日買ってきたミルクだ」
ローテーブル脇に置かれた肘掛け椅子に座っていたディサは、ガウラから差し出された無地のカップを受け取った。
「ありがとうございます」
ガウラが自分のカップを手にソファに腰掛ける姿を確認して、ディサは受け取ったカップの中を覗き込む。浮かぶ湯気がほんのり甘い香りを漂わせて、ディサの鼻腔を擽る。熱を帯びたカップに手を添えると、冷えていた指先が温まっていくようで、気持ちがよかった。何度か息を吹きかけて、ゆっくりと一口味わう。
「甘い……」
「はちみつを入れてある」
「はちみつ……すごく、美味しいです」
「そりゃよかったな」
表情ひとつ変えずにそう言ってカップを口元へ運ぶガウラを見て、ディサも再びミルクを飲み込む。ほっとするような優しい味が、全身に染み渡る。
ディサが王都で過ごしていたときは、肉や野菜のバランスが取れたきちんとした食事を用意してもらえていたというのに、この温かなミルクに勝る味を思い出せない。
両手で包み込んだカップを不思議な気持ちで見つめていたディサは、「なあ」というガウラからの低い呼びかけで顔をあげた。
「はい」
「ひとつ気になってたんだが……訊いてもいいか?」
改まったガウラの言葉に、ディサは小さく首を傾げて頷いた。
「もちろんです」
「祝福者ってのは……許可がなきゃ外出もできないほど窮屈なものなのか? お前がこそこそ逃げるように王都から出てきた意味が、俺には分からないんだが。母親に会いに行くくらい、別になんの問題もないだろ」
手にしていたカップをテーブルに置いて、ガウラは訝しむような視線をディサに向けた。恐らく出逢った当初にディサが口にした「逃げてきた」という言葉に、ずっと疑問を抱いていたのだろう。ガウラの静かな口調の中に探るような響きが含まれていることに気付いて、ディサは曖昧な笑みを浮かべた。
祝福者が身近に存在しない限り、その生活について詳しく知ることは難しい。ガウラにとっても同じようで、ディサは考える素振りで視線を彷徨わせたあと、静かに目を伏せた。
「そうですね……祝福者は決して縛られた存在ではありません。私達は王宮内にそれぞれ部屋を与えられ、能力について学び、十二、三歳頃には寄宿学校に入って他の子ども達と同じように生活します。警護もついていたりしますが、基本的には自由です。もちろん、祝福の力は国の為にあるというのが大前提なので、将来の職種は限られてきますが……」
そこまで言ってディサは一度押し黙ると、手の中に収まるカップを見つめて、言葉を選ぶようにぽつりぽつりと続けた。
「ただ……私は少し違います……。私は王族の方の前で、力を制御できずに全身から毒草を生やしてしまいました。それが直接危害を与えたというわけではありませんが……注意すべき人物になってしまったのは、仕方ありません」
“──気味が悪い。あれが祝福と言えるのか? 呪いの間違いではないのか”
嫌悪と侮蔑の入り混じった年若い王族の吐き捨てるような言葉が、ディサの頭に今でもはっきりと残っている。思えばあの日から、自分の力を“呪い”だと信じ込むようになったのかもしれない。
「十五歳の時に学校を辞めることになり、教育は自室で受けていました。国からの警護は監視に変わり……その頃ぐらいには、自分の意思で部屋から出ることもほとんどなくなりました」
か細い声で事実だけを静かに述べたディサは、懇願するような瞳をガウラに向けた。
「誰にも何も告げず、逃げるように部屋を出ました。母に会えたら……また戻るつもりです。でも、母に会うまでは……戻れません。誰かが私のことを探しているかも分かりませんが、見つかる可能性は避けたいんです」
ディサの話を黙って聞いていたガウラは眉間に深い皺を刻むと、ディサが言わんとしていることを察したように深い溜め息を吐き出した。
「……で、森を通ってラグルスに行きたいってことか。まだ諦めてなかったのか?」
ソファの背もたれに体を深く預けたガウラの呆れ声に、ディサはカップを持っている手に力を込める。
「ご迷惑はお掛けしません。もし、無事に森を抜けられなくても、それは私の責任です」
「だから──見逃してほしいって?」
すべてを見透かすようなガウラの灰色の瞳が鋭く光って見え、ディサはぐっと言葉を飲み込んだ。助けてもらったうえに見逃せなどと、どうして口に出せると思っていたのだろうか。森を管理するガウラに仕事を放棄させるようなことを、これ以上言えるわけもない。
「すみません……」
自分の考えの甘さに項垂れたディサは、すっかり湯気が消え失せたミルクを見るともなく見た。自分の発言自体が、すでにガウラに迷惑を掛けてしまっている。
「おい……俺に泣き落としは通用しないぞ」
ディサが泣いているとでも思ったのか、ガウラは嫌そうに顔を歪めて呟く。泣くことで折れてくれる相手ならば、ディサは今すぐ涙を零していたかもしれない。
「そんなこと、しませんよ……」
「……そうしてくれ。だいたいお前は、母親に会うのが目的のくせに、なんで死んでも構わないようなことを言う? 死に急いでいるように見えて、俺には理解できない」
僅かに苛立ちを含んだガウラの言葉に、ディサは緩慢な動作で伏せていた瞼をあげた。
ディサが自分自身で意識していないところで、生きることへの執着を無くしているということに、ガウラはいつから気付いていたのだろうか。
自分でも気付かなかった核心をつかれたような気分になり、ディサはほんの少しだけ、泣きたい気持ちになった。