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妖精に愛された少女の行方は誰も知らない  作者: 宵月碧
春:季節はずれのオンシジューム
3/27

episode.2


 重い瞼をゆっくりと上げたディサは、ぼんやりとした意識の中で小さく息を吐き出した。

 眠りから覚めたばかりのまどろみに身を委ね、瞼を再び閉じては静かな呼吸を繰り返す。


 生きている。


 喜ぶべきか悲しむべきか分からないその事実に、ディサは不思議な気持ちでもう一度目を開いた。

 レースのカーテンから漏れる淡い光が、室内を柔らかく満たしている。明るい色合いの板張り天井を見つめ、ディサはやっと覚醒し始めた頭で自分が見知らぬベッドに寝ていることに気が付いた。


「ここは……」


 ふかふかの毛布に包まれたまま掠れた声で呟くと、ディサの左手の指先に生温かい濡れた感触が伝わり、呆けた意識で徐に顔だけを手の方に向ける。

 ベッドの脇で伏せている眼光鋭い白い毛並みの狼と目が合い、さっと一瞬にしてディサの顔から血の気が引いた。


「きゃあっ……!」


 まだ上手く出ない声で短い悲鳴をあげたディサは、毛布を手繰り寄せて体をベッドの隅に縮こまらせた。

 なぜ、狼が室内にいるのか。

 襲われた瞬間の恐怖が甦り、狼がのっそりと伏せていた体を起こして座る姿を、ディサは毛布を掴む手を小刻みに震わせながら見つめた。

 すぐに襲われるかと身構えていたが、狼は落ち着いた様子で澄んだ青色の瞳をディサに向けている。


「なんで……」


 息を吐くようなディサの戸惑う声には反応しなかったが、狼は不意に耳をぴくりと動かし背後の木製ドアへと顔を向けた。僅かに左右に揺れた太い尻尾が、箒のように二、三回と床の埃を掃き、ディサの視線も狼につられてドアへと向く。

 鉄製のドアノブが動いて軋んだ音をあげながらドアが開くと、狼は嬉しそうに立ち上がった。


「なんだ、起きてたのか」


 低い声と共に姿を見せたのは、長身でがっしりとした体付きの男だった。

 二十代後半くらいの男は少し癖のある漆黒の髪を無造作にかき上げ、精悍な顔立ちと相まって、目の端にかかる垂れた前髪が仄かな色気を醸し出している。


 男の深い灰色の瞳がじろりと睨むようにベッドで縮こまるディサに送られると、ディサは堪らず体を震わせ、毛布で口元を隠した。


「体の調子はどうだ? お前、二日間ずっと眠っていたんだぞ」


 男は怯えるディサの様子を気にも留めずに、近くにあった木製のスツールをベッド脇に引き寄せて座ると、すり寄ってきた狼の頭を撫でた。


「アッシュがお前に怪我をさせたことを反省して、ずっと傍に付いていた。こいつはもう襲ったりしないから、怖がらなくていい」


 その言葉にディサは目を丸くし、視線を男から恐る恐る狼へと移す。アッシュとは、どうやらこの白い狼を指しているらしい。穏やかな顔をしてまるで犬のように頭を撫でられているところを見ると、男のことをとても信頼しているようだった。


 ディサの脚に容赦なく噛み付いたのがこの狼なのだと分かると、脹脛の傷が疼いて引っ込めていた脚を更に体にくっつける。


「あ、の……ここは……? あなたが助けてくださったのですか……?」


 ベッドの隅で身を硬くしたままディサが控えめに尋ねると、男は狼を撫でながら「ああ」と頷いた。


「ここは森の中にある俺の家だ。お前、なぜこの森にいた? ここがどういう場所だか知らないのか?」


 責めるような男の鋭い視線と口調に、ディサはますます体を強張らせた。低い声も眉間に寄った皺も、ディサを威圧するには充分すぎた。


「ご、ごめんなさい……」


「謝れとは言っていない。ここが『妖精の森』で、人間の立ち入りが禁止されているところだと、知らなかったわけじゃないだろ? この国の人間ならば、誰もが知っていることだ」


「それ、は……」


 ディサは震える唇を動かしなんとか答えようとするが、言葉が(つか)えて出てこない。これ以上男を怒らせないためにも、早く説明しなければと思えば思うほどに、呼吸が乱れて苦しくなる。


「おい──」


 様子がおかしいディサを怪訝な顔で見つめていた男が口を開くと、おとなしく隣に座っていた狼が、突然ぐいっと大きな体を男の前に割り込ませた。


「アッシュ」


 ベッドと男の間に入り込んだ狼はくうんと短く鼻を鳴らし、垂らした尻尾をゆらりと数回振る。


「……俺は別に、怒っていない」


 しかめ面で男は狼に向かって言うと、ばつが悪そうに後頭部を掻いた。ベッドの隅で怯えるディサを一瞥し、浅く息を吐き出す。


「悪い……怖がらせるつもりはなかった」


 相変わらずの無愛想な顔と口調で謝罪した男は、ディサの言葉を待たずに続けた。


「俺はガウラという。こいつはアッシュだ。まだ若いから興奮しやすいところがあるが、情の深い奴だ」


 そう言ってガウラと名乗った男が狼の背を軽く叩く姿に、ディサは尻尾を揺らす狼と男を交互に見る。

 彼らが自分を安心させようとしていることに気が付くと、ディサの気持ちは幾らか落ち着きを取り戻した。このふたりは、危害を加える気などないのだ。


「私は……ディサ。ディサ・オーキッドといいます。助けてくださり、ありがとうございました」


 毛布を握り締めたまま、ディサはガウラと目を合わせる。


「その……私、王都から逃げてきたんです……。誰も立ち入らない森なら、見付からないかと思って……」


 躊躇いがちにそこまで言い、ごめんなさいと小さく呟く。伸ばしっぱなしの栗色の髪が俯いたディサの顔にかかり、表情を暗くする。


「逃げてきたってのはなんだ? お前は罪人なのか?」


「ち、違いますっ……私はっ……私は……」


 首を横に振って慌てて否定したディサは、言葉を詰まらせて口を噤む。ガウラの何もかも見透かすような灰色の瞳に見据えられ、ディサの心臓の鼓動は速まった。波打つような緊張が、心を不安定に揺り動かす。


 自分のことを話せば、気味が悪いとすぐさま追い出されるかもしれない。


「私は……」


 ディサはそっと目を伏せると、右手の袖を捲った。剥き出しとなった白い細腕にはいくつかの傷跡が刻まれ、まだ治りかけの真新しい切り傷が痛々しく肌を赤く染めていた。


 黙ったまま眉を寄せてディサの言葉を待つガウラへと、手のひらを見せるように腕を伸ばす。


「私は……呪われているんです……」


 震え声と共に、ディサの右腕からするすると葉の付いた緑の蔓が生えだし、意思をもつ生き物のように腕に巻き付きながら淡い紫の花を咲かせていく。

 手のひらから指先まで蔓が絡み付くと、美しく開いた花がディサの腕を覆いつくして、ぴたりとその成長を止めた。



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