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妖精に愛された少女の行方は誰も知らない  作者: 宵月碧
春:季節はずれのオンシジューム
2/27

episode.1


 激しい獣の息遣いが、木々の合間を縫うようにして森に響き渡る。

 日暮れにはまだ少し時間があるというのに、立ち並ぶ木々によって陽の光が遮られた薄暗い土の道を、裸足の少女が長い髪を靡かせ必死に駆けていく。

 道の両脇に鬱蒼と茂る草花を踏み鳴らす複数の足音が、もの凄い速さで少女に迫って来ていた。


「はぁっ、はぁ……っ」


 呼吸を荒げて疲労により思うように動かなくなった足を懸命に動かす少女の体力は、そろそろ限界を迎えようとしている。


 走る少女の視界の片隅に白い影が見えたかと思うと、強い獣の臭いが鼻をついた。

 瞬間、木々の間から飛び出して来た一匹の狼が、低い唸り声を発して少女の右脚に鋭い牙を突き立てる。


「あぁ゛……っ!」


 苦痛の声をあげて少女は地面に倒れ込むと、すぐさま背後に顔を向けた。数匹の狼が少女を取り囲み、今にも再び飛びかかろうと牙を剥き出しにしている。


「お願いっ……来ないでっ……」


 噛み付かれた右脚から真っ赤な血が溢れ、か細く震えた声が狼の唸りに虚しくかき消えた。

 痛みと恐怖に顔を歪めた少女の瞳に、勢いよく襲い来る狼の姿が滲んで映る。


「──……っ!」


 死を、覚悟した。

 ささやかであり壮大な、自由という儚い夢は、こんなにも簡単に潰えるのだと。


 血に飢えた狼によって、喉元を食らいつかれて呆気なく死にゆくのだと。


 少女が身を硬くして涙に濡れた瞳をぎゅっと閉じたその時、一陣の風が突然吹き抜け、「キャン!」という甲高い鳴き声が森に木霊した。


 頭を抱えるようにして身構えていた少女は、新たな痛みも衝撃も感じないまま何が起こったのか分からず、恐る恐る目を開いた。背後に感じるただならぬ気配に、思わず体ごと振り返る。


 ひゅっ──と、息を呑んだ。


 更なる恐怖が、少女を凍り付かせた。

 少女の見開いた瞳の先に、艶めく真っ黒な毛に覆われた体長三メートルは超えるであろう大きな狼が、薄暗い森に溶け込むようにじっと少女を見つめて佇んでいた。


 少女を襲った狼は自分より倍の大きさもある黒い巨体に跳ね飛ばされ、脚の間に尻尾を巻き付けながら鼻を鳴らしている。

 残りの狼も戦意を失った様子で、黒い狼を窺うように少女から距離を取って後退った。


 声にならない声が、少女の喉で掠れて消える。

 助かった、わけではない。


 覆われた黒い毛から覗く深い灰色の双眸が、恐怖から不規則な呼吸を繰り返す少女を見据えている。

 微動だにせず少女のすぐ目の前に立ちはだかる黒い狼は、殺意も狩猟本能も宿さない瞳で、ちっぽけな存在の生死を握っていた。


 この黒い巨体が牙を剥けば、少女の命はあっという間に途絶えてしまう。


 ──もう本当に、すべて終わりだ。


 震える手で無意識に地面の土を握り締め、少女は諦めの言葉を浮かべた。


 愚かにも生きたいと、思うことすら間違いだった。


 許されるはずも、ないのに。


 少女は背筋をつたい落ちる冷たい汗をなぞるように、長い睫毛を伏せた。

 見上げていた黒い狼から視線を外し、握り締めていた拳から力を抜く。


 どうかひと思いに、苦しみが長引かないよう、喉を噛みちぎって殺してほしい。


 獣に懇願したところで無意味だと分かっていても、今となっては少女の願いはもう、痛みと苦しみをこれ以上感じることのない最期だった。


「お願い……」


 消え入るような少女の声は、ただの吐息となって風が攫う。


 そうして自分の命が尽きる瞬間を静かに待っていた少女の伏せた目に、黒い狼の足が動き出すのが映ると、はっとして少女は顔をあげた。


 黒い狼が、少女への興味など最初からなかったかのように背を向けて歩き出していた。その大きな体に倣って、他の狼も後に続いていく。


 予想外な出来事に狼達の去っていく後ろ姿を呆然と眺めていた少女は、安堵からふっと全身の力が抜け落ち、汚れることも気にせず地面に体を横たえた。


 もう立ち上がることも、声をあげることもできなかった。衰弱した体は流した汗により体温が徐々に下がり、狼に噛まれた脚の痛みも薄れていく。


 緑に染まった森の木々が、柔らかい春の風を受けてそよぐ。葉の隙間から僅かに漏れる沈み始めた陽の光は、土に塗れた白い服を纏う少女の体をちらちらと照らす。

 地面に倒れている少女の頬を風が優しく撫でると、少女は嬉しそうに小さく笑みを浮かべた。


「気持ちいい……」


 久しぶりの穏やかな時間に、少女の心は満たされていく。


 儚くも短い、望んでいた自由だった。


 少女は遠ざかる意識に抗うことなく、そっと瞼を閉じる。


 『呪いを授かった少女』として十七年を生きてきたディサ・オーキッドは、この瞬間、やっとその(しがらみ)から解放された。



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