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春に

作者: 海音

「いなくなるなら勝手にして」

 私の恋人はかわいい笑顔で毎朝そう言う。

私の生きる意味である朝のお散歩に行くのを見送るとき、毎日必ず。

 こんなことを口にしはじめたのは、前の春の日だった。それまでは私がお散歩から帰ってくるまで寝ていることがほとんどだった。

その春の日、ドアを開けようとした私の空いていた方の袖口をそっとつまんで、あなたが壊れてしまう夢をみて目が覚めた。その夢があまりにもくるしかったから、いなくなるなら勝手にしてほしい、と言った。私は驚いて顔をみることができなかった。ただ、私が恋人にあげたネックレスの小さな光とだけ目が合った。

「いってきます」


「いなくなるなら勝手にして」

 私の恋人はかわいい笑顔で毎朝そう言う。

私の生きる意味である朝のお散歩に行くのを見送るとき、毎日必ず。

 こんなことを口にしはじめたのは、前の春の日だった。それまでは私がお散歩から帰ってくるまで寝ていることがほとんどだった。

その春の日、ドアを開けようとした私の空いていた方の袖口をそっとつまんで、あなたが

壊れてしまう夢をみて目が覚めた。その夢があまりにもくるしかったから、いなくなるなら勝手にしてほしい、と言った。私は驚いて顔をみることができなかった。ただ、私が恋人にあげたネックレスの小さな光とだけ目が合った。

「いってきます」

 いってらっしゃい、とその日から恋人は、幸せを探すお散歩にいく私を見送ってくれるようになった。

 ドアの外はまだ寒くて、透明で角ばった空気が体のなかにしみ込んでいく。その空気がしみ込んで固くなったコンクリートを踏んで歩く。

――木の肌が、乾いた風と擦れる匂いがする。

土を踏んで、落ち葉を踏む。顔を上げると高い空が明るくなり始めている。私は落ち葉の上に寝転んだ。思っていたよりふかふかで音を立てる落ち葉がくすぐったい。ガラスみたいな空に、木の枝のヒビが入っているみたいだ。

――少しさみしくて、なつかしい匂いがする。

 風が吹く度に寒さを思い出す。体を起こすとマフラーにたくさんお土産がくっついていた。今日は帰ろう。

「ただいま」

 靴を脱いでいる間、優しくておいしそうな匂いが鼻に届いた。リビングのドアを開ける。

あったまった空気に包まれる。

恋人が、おかえり、お土産たくさん、と笑っている。


「あったかい」

 今日はコーンスープとパンが朝ご飯だ。

「今日もありがとう。いただきます」

 恋人にお土産についての話をしながら食べる。スープが余計に熱くてなかなか手をつけることができない。恋人はパンに赤いジャムをぬって、私は蜂蜜をかける。恋人の口数が少ない。

――緊張の匂いがする。

「どうしたの?」

 恋人は、すぐバレちゃうね、と緊張した笑顔で立ち上がり自分の部屋に入っていった。引き出しをあける音がして、引き出しをしめる音がして、部屋から出てきた恋人は手に小さな箱を持っていた。パタパタと足音が近づく。恋人は箱と口を同時にひらいた。

 結婚しよう。

 そう言われた。そんなこと、私たちにはできないのに。

 私はそれを受けとらなかった。普段ものなんて渡してこない恋人からのきれいな指輪を受けとらなかった。

 夜ご飯は仕事からの帰りがはやい私が作ることになっている。人参を切りながら、恋人はもう帰ってこないのではないかと思った。

恋人があんなことを望むなんて思っていなかった。ずっと恋をしていられると、いたいと思っているのに。恋人がそれを望むならそうした方がいいのだろうか。そうしたら、幸せをみつけられるのかな。

「あれ……?」

 私たちはそんなことできないのに、どうして。

 はじめて、恋人の考えることが、恋人のことが、

解らない。

――ドアが開く音がした。

 はや足で玄関にいくと恋人が笑って立っていた。帰ってこないと思ったでしょ、と笑っていた。

「すぐバレてしまうね」

 私たちは解りあっていた。


「いなくなるなら勝手にして」

「いってきます」

 ドアの外は寒さがやわらいでいた。桜並木を見上げて、つぼみがふくらんでいるのをみつけた。歩けばマフラーはいらなくなって、

やわらかいそれを落とさないようにしっかり抱えた。立橋りっきょうをのぼると微かに春の匂いがした。深呼吸をする。何回かに分けて少しずつ、肺の中身を入れ替える。恋人の望みに対する私の気持ちを全て伝えるべきだと、頭のなかでだけ理解している。だけど心はそれをいやがって、心と頭をつなぐ線は絡まっている。

息を吸って線を一直線にする。気持ちが間違った方向に届くことがないように。ゆっくり息を吸って、心を体の奥にしまい込む。立橋をおりて、団地のなかを歩く。恋人が子供の時に住んでいたと言っていた。私と会ったのはそこから引っ越して、転校してきたからだった。冷たい雰囲気なのにだれかの人生がある不思議さが私は気に入っていた。

――窓のあく音がする。

――魚を焼く匂いがする。

 帰ろう。

「ただいま」

 今日は私が昨日の夜つくったクリームシチューとパンだ。パンには二人とも何もぬらず、かけずに食べた。今日みつけた幸せの話を恋人とした。恋人は、春がいちばん好きな季節、と笑った。それから、今日はどこにしようか、

と聞いた。今日は月に一回の外食をする日だ。

夜ご飯を作らなくていいから楽だし、恋人はおしゃれをしてくれるから毎月楽しみにしている。

「何が食べたい?」

 恋人は、別のものを食べている時に聞かれると浮かばないね、と冗談ぽく言った。お店にくわしいわけでもないから、いつも行くイタリアンのお店にしようと約束をして、朝ご飯を食べ進めた。恋人をうしろの窓から太陽が照らしている。やわらかい茶色の髪が透けて見える。

 朝ご飯を食べ終わって、少しきれいめの服を着て仕事に出た。お散歩の時とは違って見える町を歩く。服のおかげか自然と背筋が伸びる。

「今日はあの日なんですね、月に一回の」

 少し前まで信頼していた上司がニヤッと笑う。恋人のやわらかい笑顔とは違う表情だ。

「はい。この服……、似合わないですか?」

「いや、似合っているよ。いつもそういうの着たらいいのに、--さんスタイルいいんだ

から」

本心なのかお世辞なのか、一度だけ参加したお酒の席で、私の恋愛は普通じゃない、と言われてからこの人のことを私も理解できなくなった。理解しあえない人もいる、仕方がないことだと思っている。

 仕事が終わる時が待ちどおしい。こういうときに限って、時間はとてもゆっくり進む。ゆっくり進む時間に私もゆっくり乗っかれば、相乗効果で早く感じるのではないか?と結局意味のなかった抵抗をして、その時が近づいてきていた。あと少し。あとちょっと。あともうちょっと。

「今日はもうあがっていいよ」

 上司がいつも仕事を終える時間より十分はやく声をかけてくれた。

「ありがとうございます」

 上司は優しく笑った。同僚に挨拶をして仕事場をでる。急いでも時間は早く進まないし、急がなくても約束の時間に遅れることなんてないのに急いでしまう。

 お店はアウトレットの一角に飲食店が集まっている場所のなかにあって、目当てのイタリアンの店があるブロックの通路の端で恋人を待つ。約束の時間は十九時でまだ十五分以上あった。また、ゆっくり時間が進んでいる。

――目の前のたい焼き屋さんの甘い匂い。

――人の少ないカフェのコーヒーの匂い。

――子供の笑い声。

――十九時を知らせるアナウンス。

 いつもは時間ぴったりに来るのに。

 十分経っても恋人は来ない。明るい髪の男の人が私を横目に歩いていく。あの方向はラーメン屋さんかな。

 また十分経って、さらに十分経った。

――足音がする。

 白いワンピースにいつものネックレス、おそろいの革靴をはいた恋人が何回か謝りながら歩いてきた。仕事の後輩の手伝いをしていたらしかった。

 私なら待っていてくれると思った、と納得したように笑った。

「行こっか」

 二人手をつないでお店に入った。いつもと同じトマトのパスタを頼んで、上司の話を少しした。

 恋人は上司が言ったことに少し悲しそうな顔をして、いつかと同じように普通ってなんだろうね、とつぶやいた。私はあの時なんて言ったんだっけ。

 デザートにかぼちゃのタルトを頼んで私は深呼吸をした。

「あ、あのさ、結婚のことだけど」

 彼女は持っていたコップを置いて、それはもういいよ、と少し眉をひそめて私の目を見た。

「ううん、聞いてほしい」

 私は気持ちを全て伝えた。言葉が真っすぐ彼女に向っていくのがわかって怖かった。彼女を傷つけてしまうかもしれないから、怖くて口がうまく回らなかった。

 彼女は、恋人でも理解できないことはあるよ、あなたはそれを嫌がるけれど私は嫌じゃない。だから、結婚したくないあなたの気持ちも嫌じゃないんだよ、あなたならこうして気持ちを伝えてくれるって思ってた。気持ちをきいて、私のこと大切に思ってくれてるんだなって嬉しいよ

だから、

――お皿の割れる音が頭に響く。

耳鳴りで耳が痛い。心臓が脈を打つ音がうるさい。息が吸えない。怖い。

――彼女の口が動いている。

 なに……。なんて言ってるの。わからない。

聞こえない。怖い。怖い。

――手に何か触れた。

 びっくりしたね、恋人が私の手を握っていた。

大丈夫、ここにいるよ。大丈夫。彼女の口がゆっくり動く。

帰ろうか、恋人は立ち上がり私の肩を持った。時間がとてもゆっくりに感じて、自分だけが取り残されていた。




「いなくなるなら勝手にして」

「いってきます」

 ドアを開けて息を吸い込む。

――土の立つ匂いがする。

 春がそこまで来ている。お気に入りの革靴でコンクリートを鳴らす。この時間の車たちは太陽と同じく急いでいて、目の前に立てば皆同じように壊れてしまえる。

 桜並木を見上げて、つぼみが色付いているのをみつけた。

立橋のてっぺんに立つ。

――鳥の群れが通り過ぎる。

 目で追える距離を飛びきると、私は立橋をおりる。今までは悲しくて苦しい場所だと思っていた団地を目指して歩く。この間の夕方、あの団地を通り抜けている時に色んな人が歩いていて驚いた。スーツを着た人、自転車を停める人、両手に物が詰まったエコバックを持っている人。団地の敷地に踏み入れる。不法侵入だ。

――窓のひらく音がする。

――鼻を衝く幸せの匂いがする。

 私は深呼吸をする。

 帰ろう。恋人のところに。春が来ること、教えよう。


――パンの焦げる匂いがする。

――薬缶がうるさく湯気を吐く。

「た、ただいま」

――なんだかわからない、変な空気を感じる。

 キッチンに駆け寄る。

 彼女がいない。

 ベランダを覗く。いない。

 靴が落ち着きなく音をたてる。いない。

 いない。いない。どこにも、いない。

「勝手にいなくなったんだ」

――音が、匂いが、消えた。

 今まで感じたことがない、言葉には表せない感覚が私を包んだ。ただ、自分の呼吸と心臓の音だけが頭に響いている。

「それでいいんだよ、私たちは解りあっているんだから」

 恋人が毎朝私に言ったように、いなくなるなら勝手にしてくれた方がいい。そうしないと私はきっと壊れてしまうから。

 幸せを探すお散歩に行く私を、見送ってくれる君がいない。





「もしも私がいなくなったらさ、」

彼女は朝の散歩に行くとき毎朝こういう。

「そんなこと言わないでよ」

 私は自分の袖口をそっとつまんで、

「いってっらしゃい」

 と笑った。なるべく優しい笑顔で。いってらっしゃいにはおかえりがセットなんだ、と彼女は昔言っていた。私は彼女の言葉を覚えていることが多い。

 テレビをつけてキッチンに立つと、ちょうどお天気コーナーがはじまった。今日は春らしく暖かい一日になるとキャスターが言っている。桜はそろそろ咲くだろうか。

 洗濯機をまわして待っている間に洗面台を掃除する。自分の部屋とリビングの窓を開けて、ソファーに座ってニュースをみる。流れた空気が前髪をもてあそぶ。

 十代の間で人気だったミュージシャンが壊れたと悲しそうな顔のアナウンサーが言う。街でのインタビューでは、どうして……。と女子高校生が泣き崩れる様子が流れた。この子は少なくともあと三回、この番組内で泣き崩れる様子を全国に流されてしまう。どうして、なんて言ったって本人にしかわからない。壊れてしまいたかったのだからそうするしかない。

 このコーナーが終わってパンを焼き始めると、洗濯が終わって彼女が帰ってくる。

 洗濯機が鳴って、パンを二枚トースターに並べる。三分にセットして、洗濯物を干す。しわしわなシャツを広げるときが私は好きだ。

「ただいま」

 玄関までかけ足で行く。

「おかえり」

 二人でリビングに戻って、三分経ったトースターからパンを一枚だけ取り出して、もう一枚はあと一分焼く。

「これ運んじゃうね」

 彼女が自分好みに焼かれたパンを運んでいる間に薬缶でお湯を沸かす。パンが焼けてお湯が沸いて紅茶をいれる。近くから蜂蜜の小瓶、冷蔵庫からジャムの瓶を持ってテーブルに運ぶ。コップもパンも運んで、昨日寝る前に作っておいたサラダを取り分ける。

「今日もありがとう。いただきます」

 何口か食べて彼女が口を開く。

「今日はね、桜が少し咲いていたよ。花が開

きかけのもあってすごく可愛かった。それと、きれいな黒猫がいて後を追ってみたんだけど、角を曲がったら姿が見えなくて、黒猫ってやっぱり魔女の使いなのかな」

「そうかもしれないね。犬は神様の使いって聞いたことあるよ。今日の幸せは?やっぱり

桜?」

「うん!だって君は桜が好きでしょう?」

 私は頷いた。甘酸っぱい苺のジャムを多めにぬったパンを食べた。





「夢の中で桜が咲いたってあなたが言っていたよ。もうそろそろ咲くのかな」

 彼女は苦しそうに笑った。

「今日は私も行こうか?」

 彼女は首を振った。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 私は彼女の空いた方の袖口をそっとつまんだ。いってらっしゃいにはおかえりがセット

なんだよね。




「今日は私も一緒に行くよ」

 彼女は首を振った。

「桜、みたいから、連れて行ってよ」

 私は自分の袖口をそっとつまんだ。彼女は頷いてドアを開けた。仕事に行く時とは全く違う町の空気に驚いた。

 静かでここに私がいていいのか不安になるくらいきれいな命ばかりで、こんな世界に彼女は幸せを探しているなんてそんな……。

 彼女のみている世界は私とは違うのだと、そんなことわかっていた。だけど、同じ世界に同じ季節を生きているのだと思っていた。

「上をみて」

 彼女が細い声で言った。

「桜……。」

「ここは桜並木なんだけど、ここはまだ眠っているんだ。ここより春に近い場所にいこう

か」

 彼女はまた歩き出した。地面に平たくタンポポが咲いている。あの木だ。

「ほら、この木の方が春に近い」

 彼女は少し笑ったようにみえた。

「ほんとだ。こんどお花見に来ようよ」

 彼女は返事をしないでこういった。

「もしも私がいなくなったらさ、泣いてくれ

る?」

 そんなこと考えられない。

「お花見、こようね」

 何を言っても彼女は今日壊れてしまうのだと、もう壊れているのだと彼女を見つめた桜は言っていた。

 彼女は私からの言葉を待っているかのように、私と歩幅を合わせた。言葉なんて出てこなかった。

 何も感じない。きれいだとか、風が吹くだとか、そんなことはどうだってよかった。ただ、彼女の横顔を忘れないように、思い出になんてならないように、焼き付けておきたかった。

 立橋をのぼる。彼女は、壊れたらどうなるのだろう。

 彼女は、消えてしまうのだろうか。彼女が壊れたら、私はどうなるのだろう。彼女が壊れたら、私は消えてしまうのだろうか。立橋のてっぺんで彼女は立ち止まった。

 彼女は深呼吸をした。私はその真似をした。

――春の匂いがする。

「私がいなくなったらさ」

「うん」

 彼女は言葉を飲み込んだ。何を言おうとしたのか、私にはわかった。

「もう少しだけ一緒にいてくれない?」

 彼女はその場に腰を下ろした。私はその横に座った。言葉が声にならずにこぼれ落ちる。

 手を重ねる。彼女は空をみつめていた。彼女がなぜこうなってしまったのか、私には解らなかった。涙が出そうで背中が疼く。

「今日の幸せは?」

 いつものようにきれいな目を輝かせて話してくれると思った。彼女は、はっと息をのんで立ち上がろうと手に力を込めた。

「まって」

 私は思わず声を出した。彼女の目の前に座りなおす。

「私の目をみて」

 私の目を見た彼女の目には私が映っていた。

「あなたをこうしたのは誰なの?」

「私をこうしたのは……。君もわかっていただろ。私は幸せに依存してる。

 君と会うより前は愛もなにもわからなかったんだ。周りの誰からも愛されたことなんてなかった。そこの団地によく似た団地に住んでたんだ。黙っていてごめん」

「だから幸せを探すの?」

「うん」

「そのせいでこうなったの?」

「うん」

「私が、あなたを止めればよかった。

 私が、あなたを一度でも抱きしめればよかった。

 私たちは解りあってるって、そんなのただの甘えだったんだ」

「自分を責めないで。誰のせいでもないんだ。過去は変えられない。だから」

「だから、壊れてしまうの?」

「壊したいんだ。君を愛してあげられない。

私には愛が分からないから」

「そんなの私にだって分からないよ」

 やっと、涙が流れた。

「ねぇ」

 私は彼女にキスをした。

 彼女はゆっくりと目をとじた。

「私はあなたを愛しているよ。愛がなにかなんて分からないけれど、私はあなたを愛してる。

 私はあなたといる時間が幸せだった」

 彼女は目をあけて立ち上がり、壊れてしまった。

 私はそれを座ったまま見ていた。

 どれくらいかそこで空をみていた。涙なんてでなかった。

 彼女は壊れてしまった。

 彼女が壊れてしまった世界で、私はなにをしたらいいのだろう。

 彼女が壊れてしまった世界に、幸せはあるのだろうか。

 こんなことになるんだったら、一緒に散歩なんて来るんじゃなかった。

 こんなにくるしいんだったら、彼女が壊れたことなんて知らないで探しているほうがよ

かった。彼女が幸せを探すみたいに、私も彼女を探していられたら幸せだった。

 いなくなるなら勝手にしてほしかった。




「おはよう」

 彼女の目覚ましの音で目が覚めた。

「散歩に行くの?」

「うん」

「今日は私もいっしょに行くよ」

「どうしたの?急に」

 私は彼女の空いていた方の袖口をそっとつまんだ。

「あなたが壊れてしまう夢をみたの。

 その夢があまりにもくるしかったから……」

「いなくなるなら勝手にして」





「いってきます」

 ドアの向こうの空気は蒸していた。外の季節は夏になろうとしていた。

 やっと早く進むようになった時間に私だけが取り残されていた。お気に入りの靴を鳴らして歩く。桜並木を見上げる。花はどこにもなくて、桜までが私をおいてけぼりにしていた。

 きれいかどうかなんてどうでもいい。幸せが見つかればそれでいい。

 立橋をのぼる。ここに恋人と来たことなんてないのになつかしい匂いがして落ち着く場所だ。

 深呼吸をする。

 恋人がいた春が残っていると信じて息を吸う。夏の匂いなんてしなくていい。

 たとえ、梅雨に降った雨が春を洗い流していたって、それでもどこかに、絶対に春はあるはずだから。

 息を吐きだして立橋をおりる。ポケットに手を入れてイヤホンを探す。イヤホンを耳に突っ込んで歩き出す。

 誰かが私の袖口をそっとつまんだ。

 心臓が一気にうるさくなる。

汚れた靴を見てイヤホンを外す。

「あの……、これ落としましたよ」

 私はびっくりして顔をみることができなかった。

 ただ、その他人(ひと)から渡された写真のなかの恋人とだけ目が合った。

 今日も、幸せはみつからなかった。



                おわり


1、「いなくなるなら勝手にして」の意味は何か

2、ふたりのなかでの結婚のもつ意味の違い

3、わかりあう、とはどういうことか

4、それぞれの幸せのかたちや意味は何か

5、主人公はなぜお散歩に行くのか


恋人が袖口をつまむ動作など色んな所に意味をもたせました。

解釈の正解ではなく、ふたりの生き方、幸せのかたちを、自分の中でどう思うかを考えてみていただきたいです。

この作品があなたの心の一部となりますよう。

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