シーズン1 第一幕ー決死の賭け事①ー
謎が多い、取りこぼしかもしれない。そう思わせるのは、悪手かもしれません。何より読者が付いてこれない。そういった状況にはしたくない。先に話しますが、主人公の名前はありません。
第一章探索
――一幕 決死の賭け事――
街の入り口には誰もおらず、簡単に入ることができた。声はかなり遠くの方から微かに聞こえており、耳を澄まさなければ風の音と同じである。その声の方角を目指し、灰色の壁に覆われた薄暗い道を適当に歩いた。凹凸が目立つ石畳は、その場所が廃れていることを暗示させている。どことなく腐敗臭がする他、時折湿った土の臭いが混ざり合い、鼻の毛が騒ぎ立っているのを感じた。この臭さと、太陽を遮るほどの密集高層住宅のせいで、見渡す限り陰気な雰囲気が漂っている。住宅は一階、二階、三階と階段が伸びており、それぞれの階に洗濯物が外干しされていた。ハンガーは重そうに服をぶら下げている。無造作に建てられた住宅街を、少しの隙間から差し込む光を頼りに進む。自身から伸びる影が前に伸びているかを確認することで進行方向が分かる。とにかく人に出会い、この場所の情報を得なければ何も始まらない。
ごちゃごちゃしていた住宅地はいつの間にか法則性を帯びて立ち並ぶようになっており、合わせて住居も二階建てになっていた。また、壁面は色とりどりに変化して、白黒のテレビがフルカラーになった時のような感動を体感出来た。鼻を衝く臭いも既に消えており、人の住む場所であることを理解した。建物の頭が低くなったことで辺りを見渡せば紅の空も視認出来る。根気強く歩いてきた何よりの成果は人の声が大きくなっているということだった。普段は雑音の一種にしか聞こえない人間の音声も、見失った携帯に電話を掛けて着信音が耳に届いたときのような、瓦礫に埋もれた少女の声が鼓膜を震わせた場面のような、胸の奥にオアシスが広がる音だった。森の奥からここまで来るのに約半日が経過していた。非日常な景観を幾つも通り過ぎてようやく当たり前の光景を目にしようとしている。日常が待っているということを、人の声が近づくほど実感できた。さらに、声の主は一人や二人ではなく大勢いるということに、尚希望を抱けた。今度はみんなに温かく出迎えられる、そんな生活が出来るのではないかという期待で胸が一杯になる。走馬灯を見ているわけでもなく、地獄に落ちたわけでもなく、幽霊になってしまったわけでもない。きっとここは天国なのだ。あの世の皆が自分を迎えてくれるのだろう。
「よし。待っていてくれみんな」
自然と表情が明るくなったことに気づき、久しぶりに声帯を震わせた。希望に向かって足を速めるといつの間にか駆け足になっていた。歩道は真っ直ぐ続いているが、整備されていない細い路地を通る方が近道だということに気が付いた。進行方向を九十度変え、路地へと入っていく。足場が悪く、躓きながらも、足を動かす速度は変わらない。
「あ、もうすぐ来るわよ」
「もうそこの曲がり角まで来てるみたいだ」
はっきりと話し声が聞こえ、内容的に自分を歓迎してくれているのだと悟った。足の回転が速くなり、表情も緩くなる。
気を抜いた。段差に気付かずに足を引っかけ横転しそうになるのを、四肢を使ってバランスを保とうとする。躓いた右足を置き去りに大股で左足が前に出て、刹那に右足を左足よりも前に出す。自然に走る動作に移り変わり、最高速度が出たところで路地を抜けた。眼前には自分を捕らえる大量の目玉があった。間違いなく人間の姿だった。彼らは歓迎している様子は無く、驚きと焦りと怒りを剥き出しにしていた。道路に沿って並んでいる人々は自分に向かって何かジェスチャーを送っていた。目の前に立つ者が左を指さしている。慣性が体に働いたまま視線を左に送る。大きな動物の毛が一本一本くっきり見えたところで反射的に目を瞑った。
「おい!子供が飛び出したぞ!」
図太い声と、地面を硬いもので叩いたような音が無数に聞こえる。その音の正体は馬だということをすぐに理解した。気を失わず、正気を保っていることに驚くべきところだが、自分の体が吹き飛ばされることもなく、傷つくこともなかったことのほうが重要だった。馬に撥ねられたと思ったあの瞬間は瞼を閉じていたが、不自然に気が付き、その後は目を見開いていた。僕が感じた不自然は、後続に続く五頭の馬がこの体をすり抜けていったことだった。
「どうなってんだ」
個人の感想を述べたつもりだが、この場にいる全員が同じ感想を持っているという顔をしていた。馬は暫く行ったところで停止し、上下水色の軍服と思われる格好の大男がこちらに歩み寄る。口が見えなくなるほどの髭を生やし、人を何人か殺めていそうな目つきに怯んでしまう。その男を筆頭に後ろから同じ格好をした五人が続く。大男以外は比較的若く見え、体格も一般人とは変わりなかった。
「貴様何者だ」
先ほど聞いた声だった。見かけ通りの図太い声である。先ほどよりも一層強い振動が辺りに響く。語りかけるような喋り方にも関わらず、ずっしりとした重い緊張が張り巡らされていた。縄張りに入り込んできた汚物を探る獣のように、ただその物をじっと睨み、ゆっくりと近づき出方を見ている。対してこちらは、とにかく住処を目指して迷い込んだ小さな虫同然である。
「何をしていた。返事をしろ」
男が近づく歩数分、こちらは身を引く。失ったはずの鼓動が、活動再開に喜びのダンスを踊っている。それに釣られるように思考回路は鈍っていき、ダンスに夢中になる。久しぶりに感じた混乱状態に興奮すら湧いてくる。とにかく疑問を投げかけたい。しかし、間違った言葉を発してしまえば腰に下げているピストルで殺される。そんな雰囲気だ。
「僕はその……迷い込んでしまったんだ。決してパレードの邪魔をしようとしたわけじゃない」
二人を残して止まっていた時間が動き出し、大男だけにピントが合っていたレンズはようやく周りの景色を映し始める。大衆の前での発表会がこんな雰囲気だったと思い出す。しかし、大男は発表会をぶち壊さんと暴挙に出た。
「死刑だ」
拳銃を構えながら宣告した。天国だと思っていた場所は、死して尚、死を与えられる地獄であった。極楽浄土を仏教信者だったか、キリスト信者だったか忘れたが、極楽浄土天国召されよが生前の口癖だった僕は、死後の楽園を諦めきれなかった。
「どういうことだ!なんなんだこれ!」
大男は若い五人に合図を出し、こちらに走らせた。訳も分からず叫ぶことしかできない虫など興味もないと言うように、背を向けたまま馬に乗る。この状況の全てが理解不能な僕に、彼らは慈悲も容赦も持ち合わせてはいないようだ。
「こちらが聞きたいよ。何をしていたんだい?」
若い男が僕に話しかけてくる。
「…あ、歩いていた」
野球場に一人で放り出され、バスケットシューズに卓球台、サッカーゴールがあって何をしに来たと言われるようなものだ。その物の意味を理解していたって目的や状況が分からなければ何をしてみようもない。ただ考えて、歩いていたと答えるのが筋だ。
「走っていたように見えたけど…」
若造に馬鹿にされたことも加わり腹が立ってきた。
「死刑ってのはどういうことだ!ここはどこで、自分は何で、今日は何日で今は何時なのか…!誰か
説明してくれ!地獄なのか!?僕は天国に行けなかったのか!?」
口ではそういいつつも、知れば知るほど混沌が広がっていく気がしていた。ただ、死を宣告されて叫ばずにはいられない。冤罪で無抵抗に死ぬ奴など聞いたことがない。
「大人しくしていれば苦しむことは無い。まだ小さいのに気の毒だ」
「何言ってんだ。黙って言われたことをするんだ」
若い男たちは自分を見下ろしながら表情一つ変えずに話している。これから人を殺すというのに、それが当たり前のような空気だ。
「いい見世物になったな」
「気絶させよう」
男たちはうなじを殴ろうとするが、先ほどと同じように男の拳は摩擦を起こすことなく、まるで霊体に触れようとするが如くすり抜けていった。人の感触は一切しない。体の中を物体が通過したと考えるとぞっとした。同じように男たちの顔は恐怖の色を帯びて、小さな悲鳴を上げて後退りする。
「おい!速くそのガキを連れていけ!」
馬に乗って待っていた大男は痺れを切らして叫んだ。
「しかし」
「つべこべ言うな!後ろの部隊に報告しろ!」
「直ちに!」
五人のうちの一人が、馬と共に来た道を引き返していく。残り四人の青ざめた顔を見た大男は、乗ったばかりの馬から降りてピストルを抜き警戒しながら近づいてくる。恐ろしい形相でこちらを凝視し、瞬き一つもせずに頭に銃を突きつけた。
「なるほど。こめかみに銃口を当てているはずだが全く感触がない」
「いかがいたしましょうか」
危険はないと判断したのか、それとも武器が意味をなさないと考えたのか、大男は撃つ構えをやめて小さく唸った。しばらく考え込んだ後に四人に耳打ちする。
「とにかくこいつはパレードを邪魔した。どんな階級の者であってもそんな愚行は許されない。直ちに射殺するべきだが…こんな奇妙なことは初めてだ。とにかく王からの指示を待つ。いいか、妖怪や魔物であれば意思を持たない。一階の兵隊なら臆せず威厳を保て」
物騒な言葉が次々と飛び出すことに震え上がる。
「なぁ全く話が理解できない。本当に自分がなんでこんな場所にいるのかわからないんだ。何か迷惑をかけたのなら謝るよ」
「お前は黙っていろ」
何とか自分を説明しようとするも、大男はまるで話を聞こうとしない。とりあえず、もう少しすれば王と呼ばれる人物からの指示があるはずだ。話の分かる人物ならば助かる可能性もあると自らに言い聞かせ、この状況を呑み込んでもらうための演説を考える。そこでふと、幾つもある疑問の中から、答えによっては現状を打開できる案を思いついた。
「一つ質問をしてもいいか」
「だめだ」
大男は間髪入れずに話を遮断するが、こちらも相手の意思を無視して勝手に話すことにした。
「妖怪や魔物と言っていたが、それは伝統的な戒めや祟りのような伝承ではなくごく当たり前に存在しているのか?」
質問の直後、大男と兵隊たちは素っ頓狂な顔をした。大男のしかめ面が再び眼前に近づき、草木に覆われた化け物の巣のような口元に不快感に襲われる。巣穴が開くと飛沫を飛ばしながら侮辱が放出された。
「お前は知能のない魔物だな」
腸が煮えくり返るような質問だったのか、足元に唾を吐きつけ馬の方へと戻っていった。
「隊長を馬鹿にするなんてすごい度胸だな」
見張りの兵隊の一人が小声で呟いた。
「純粋な疑問だ」
「面白いやつだな。馬って本当にいるのかと聞いているようなもんだ」
そして彼は周囲に構える仲間たちに向かって他にパレードを邪魔するような人間はいないか辺りを警戒するように指示を出し、その旨を自分からの指示だと隊長に伝えるように命令を下す。彼と二人きりになると、寄せていた眉間の皺をゆっくり緩め、物珍しそうな顔をしながら訪ねてきた。
「恰好を見るからに君の家庭は裕福そうに見えるが、両親はどうしてこの場に出てこない。君くらいの身分なら死刑は免れそうだが」
話が見えてこない。この場所は身分によって刑を軽くできるということなのだろうか。陰謀論でそんな話は幾つもあったが、窮地に立たされるとその選択肢はいつの七夕の空よりも輝いて見える。しかし、両親は当の昔に死んだ。両親がこの場に居合わせたとしても、僕は彼らを頼らない。他人に敷かれたレールをただ歩くのは飯食って使い殺されるだけの家畜と同じであると、そう思いながら人生を歩んだ。自分の賢さを信じ荒野を切り開くと誓ったのだ。
「いいか。僕の両親は君たちを試している。僕は両親にあることを頼まれて一人で外へ出ることになったが運悪く魔物に出くわし、呪いをかけられた」
そこまで言って、どんな反応をするか様子を見るために話を止める。彼は静かに直立したまま何も言わない。心なしか銃を構える姿勢が硬くなり殺気を帯びたように感じた。
「あんたの身分は」
探りを入れるため、質問を投げかける。知らないことを知っている風に装うためには、知っている中の知らないことを見出して質問するのが定石だ。
「三級貴族だ」
聞きなれない言葉が追加されたことにより一瞬怯むが、どうにか頭を回転させ、先ほど思いついたシナリオに信憑性を付けるよう肉付けをしていく。
「三級貴族ね。それでは王族に遣えるにはまだ程遠いな。まあ僕は自分よりも下の身分の者には興味なんてないけど、自分の仕事を邪魔されるのは困る」
「話が見えてこない」
「これは王に近しいものにしか伝えられていない。僕の両親はとある仕事を受けて出払った。急を要する事態で手が回らない分は僕に任された。それで、その仕事の最中に魔物に呪いをかけられた」
「それなら上に報告すればいいだけのはずだ」
「王様直々の依頼で呪いにかけられたなんて言えばどうなると思う」
「簡単には殺されないはずだが、最悪下級に転落するだろうな」
疑いの心があるのは当然だろうが、僕のホラ話に無きにしも非ずというような顔をする。経験則だが、話の理解できる奴は少しの可能性も考慮するのだ。
「それは避けなければならない。それに僕は、呪いを見たり、ましてや呪われるなんてことは初めてのことだ。今のところ体に異常はないが、周囲を巻き込むものかもしれない。この場に飛び出したのは、話が分かって誰か頼れる人間を手っ取り早く探すためだ。一か八かの賭けだったが、何もやらないという選択は、追われる身でありながら、転落注意の看板に従って歩くようなものだ」
全く呪われてなんかいないし、王様の依頼云々も大嘘だが、命を懸けた決死の行為であるということは事実だ。直面している危機はその事実と空想の世界で共通している。嘘を吐くときは事実を絡めて話すと本当のように聞こえる上、嘘の世界が崩壊しにくいということは、約八十年の経験から理解していた。いつものように綿密な計画を立てて何度も反復するという工程が省かれてしまったが、自分の頭を信じて演じ切るしか道は無い。
「では階級を示す家紋を見せてくれないか」
「言っただろう。これは極秘だ。僕に話しかけてきたあんたの態度は、他の奴らとは違うものを感じた。あの隊長では話にならん。協力してくれ」
思い描いたシナリオは提出した。何か僕の知らない言葉が出てくれば、先ほどのように上手く対応することは不可能だろう。一度書き終えた推理小説に設定を追加するように命じられればその物語の細部から、癌に蝕まれるように陥落していく。後の質問は極秘だと貫くしかない。
一息つこうと周囲を見渡すと、僕を見物していた人たちの顔つきが変化していた。ひそひそと話し合っていた見物人たちは黙り込み、辺りは静寂に包まれる。冷えた空気が漂い始めたのを大男も気付いたようだ。こちらを振り返るや否や全身を引き延ばし、気をつけの姿勢をとる。
「全員敬礼!」
大柄の熊が一本の棒になってから間髪入れずに大声で指示を出した。先の威圧はどこへ吹き飛んだのか、今では怯える子羊に見える。百獣の王をモチーフにしたかのような髭も縮んでしまっていた。隣の男は、先ほどまで会話をしていた雰囲気と変わらない。周りの人々は皆恐怖を訴えていたがこの男は肝が据わっているようだ。自分の背後にいるのはきっと王と呼ばれる人物だろう。
「小僧。私に顔を見せてみろ」
跪いたままゆっくりと首を動かす。
「全身を前に向けろと言っているのだ」
大男に怒鳴られていた時とは打って変わって、静かな重圧が全身に響き渡る。まるで死刑執行前の囚人だ。歴史で習った処刑人たちの気分を少しだけ理解出来た気がした。王の顔を見たら、自分も大男のように惨めな姿を晒してしまうのだろうか。親に怯えていた頃のように、震えて、悔しさと憎らしさを噛み殺しながら、言いなりになってしまうのだろうか。
ふと、病院の天井を思い出した。自分の人生のような何もない無機質な天井を。
そして、ぷつりと何かが切れる音がして、次の瞬間には隣の男が所持していた銃を引き抜き、持ち主の頭に突き付けていた。
「初めまして。王様」
前に立つこの男が、人々の恐怖の元凶であることは間違いなかった。隊長と呼ばれていた大男ほど強靭な肉体はしていないように見える。白髪のオールバックをうなじの辺りまで垂れ下がらせ、高い鼻と鋭い眼光が加わることで、王としての貫禄を放っていた。さらに、他よりも二回りほど大きいサイズの馬に乗馬しているためか、その存在感は圧倒的だった。服装もダサい軍服ではなく、黒のローブに紅のマントを羽織っていた。漆黒のズボンは膝から下はぶかぶかとしており、踝からはブーツの中にしまい込んでいる。自分に死を宣告する男の姿は、嫌でも目に焼き付いた。
再び辺りがざわつき始める中、隣の男と王様は静かだった。僕を含めた三人だけは、次の行動にどう対処するか思考を巡らせている。周りを取り残して僕たちだけの時間が刻まれていく。王の眼差しも、三人の緊張も、凍てつく空気もそれら全てに質量があるかのようだった。
「好きなように撃てばいい」
密閉状態だった三人の空間を解放したのは王の一言だった。激しい緊張に呼吸を忘れてしまっていたのか、短く何度も息を切り酸素を取り込もうとする。幸い過呼吸にはならなかったが、いざ撃てと言われて怯んでしまった。
「やれ!」
次に叫んだのは隣の男だった。どこからか、折りたたまれているキャスケットを取り出して深く被る。軍服を着た男たちは咄嗟に銃を構えようとするが、それよりも早く王に銃を向けた者がいた。瞬き一つ終える前に火薬が爆発する音が無数に聞こえたと思うと僕の体は動かなくなっていた。撃たれたような痛みもなく、恐怖で腰が抜けたわけでもない。全身が鎖で繋がれているかの如く、その場に固定され、動けと号令を出しても足は地に密着したままだ。倒れこもうと、体重を前に移動させることさえ許されない。パレードの観客達は声を荒げながら、その場から逃げようと、邪魔だ邪魔だと押し合っている。銃を向けたままの僕の体は一向に動かない。
「ヴァン担げ!」
隣の男が、爆音と悲鳴を掻き消すほどの大声を出した。すると、混乱する人々の中から、灰色のパーカーと黒スキニー姿の人物が飛び出してきた。フードを深く被っており、顔はよく見えないが肌の色が黒い。型の良さから推測するに男だろう。男はほんの数秒で王と自分たちの間に割って入った。そして、固まった僕の体を軽々しく腕で抱え込み、再び人混みの中にダイブする。
「計画が違うぞ」
僕を抱えながら走っているというのに息切れ一つもせずに、何故か一緒に付いてきた軍服の男に文句を言っている。
「だってこの子が銃を向けてきたし」
人の波に逆らいながら、大通りから裏路地へと入っていく。
「おーい。小便垂らしてないか」
隣の男がからかっている。返す気にもなれない。一体何がどうなって何に巻き込まれたというのだ。
「おいガキ。なんか言ったらどうだ」
フードの男が額を小突きながら話しかけてくる。
「一から十まで理解不能だっての。何から質問していいのかさえ分からない」
「君さ。さては馬鹿だろ」
軍服の男は僕の顔をまじまじ見ながら不敵な笑みを浮かべていた。どうやら人を不快にするのが趣味らしい。
「さ、そこを曲がるよ」
それから暫く、走る速度を緩めずに右へ左へと蛇行しながら進む。どこへ向かっているのかは知らないが、追っ手を撒きながら走っているということは理解出来た。そして、大通りから離れれば離れるほどに湿り気が増して、鼻を刺激する異臭を感じ始める。最初に迷い込んだ場所へと近づいているのだ。
「ここに来たことがあるか」
帽子の鍔を少し上げて周囲を見渡す。見えるのは空をも遮るコンクリートばかりだったが、彼の目は何か懐かしいものでも見るようだった。きっとこの地には、彼の特別な感情が眠っているのだろう。
「さっきここを通って来た」
そう言うと彼とフードの男は顔を見合わせて不思議そうな顔をした。
「何か?」
不味いことでも言ったのかと思い、微妙な空気を遮断する。
「いや。それよりその角を曲がれば目的地だ。ヴァンはその子を放して、追っ手が来ていないか確認してくれ。もし何か異常を確認したら爆竹で合図してくれ」
「了解」
到着した場所は、辺り一面に連なるコンクリートジャングルの一角だった。上を見上げれば橙色の屋根が遠方に見える。適当な石を集めてくっつけたような壁面は冷気を放っており、とても人が満足に暮らせるような場所ではなかった。入口は辛うじて人が出入りできるくらいの大きさで、無理矢理木をはめ込んだような造りだった。内部は閑散としていて、外壁と同じ冷たい石の上に、丸太が幾つか転がっているだけだった。
「この建物に入るのは初めてみたいだな」
帽子を壁の窪みに収納した後、丸太の一つにどかんと座る。パレード会場では、人のことなど気にしている余裕がなかったから気が付かなかったが、改めて見るとこの男は昔の友達に似ていた。鼻は高く、少し垂れ下がった優しそうな目つきに黄金色の髪の毛。中学生時代の、たった三年の付き合いだったが、彼より気が合う友達はそれ以降現れなかった。
「この丸太が椅子と机の代わりだよ。酷いもんさ。日があるこの時間でも読み書きするには暗すぎる。じめじめしていて負のオーラが漂うこの区域は、挙句の果てに人肉の腐敗臭がする」
悲しそうな笑みを浮かべて、閉ざされたドアから遠くを眺めていた。この場所で生まれ育ち、努力を重ねて軍隊に入ったのだろうか。しかし、死刑執行目前だった自分を救い出し、匿ってくれている。彼の行動の矛盾やこの世界についての疑問を考え始めると、出口のない迷宮に立たされている気分になる。しかし、一番に知らなければならないのは自分自身についてだった。懐かしい顔に、思い出が蘇りそうになるのを遮断する。
「あー。まずはお礼を言わないと。ありがとう。それから色々質問がしたいんだ」
彼は、向かいにある椅子を指さし、座るよう促した。
「何が知りたい」
声色も、友人が成人まで成長したという感じだった。話し方や目線の動かし方といった細かな仕草も瓜二つである。喧嘩別れで終わってしまった為なのか、どうも居心地が悪い。
「僕とは初対面なのか」
「もちろん」
死後の亡霊でないことに少し安堵する。同時に妙な寂しさも覚えた。
「変な質問だが、僕の容姿はどう見えている」
「幼いね。十歳に達しているようにも見えないくらいだ。ぱっちりした二重だし、輪郭も整っている。鼻は高いとは言えないけどね。将来が楽しみな、いいとこのお坊ちゃん」
どことなく皮肉を言っているように聞こえた。街を回ってみて理解したが、ここは貧富の差が激しいのだろう。彼曰く、良い恰好をしているとのことだ。このことから、今着ている服はそれなりに高価なものであることに間違いない。整理すると、八十年生きた自分の体はどこかへ飛び去り、新しい小さな体とそれなりの身分を手に入れた僕は、元居た場所とは違う世界で逃亡者となった。そういうことだ。目覚めてからというもの、体は軽くなり、視界が鮮明になって、周囲のものも大きく見えることに納得がいく。
「で、他に聞きたいことは」
この世界についての全てを知りたいが、それでは質問の意図が些か伝わりにくいだろう。常識を教えてほしいと言っても、相手への敬い方や社会の渡り方などを、たかが二十年少し生きただけの人間に聞いたところで欠伸が出るだけだ。もちろん、自分の身辺についても教えてもらいたい。しかし、初対面の人間に自分の両親を問うたところで、知らないと答えられてしまうのがオチだ。何か上手に聞き出せる方法は無いだろうか。
暫く考えたが、これといった良いアイディアは思いつかなかった。唯一浮かび上がったものに渋々決定する。
「この世界の歴史を教えてくれないか」
彼は不審者を目撃したような顔をしながらこちらを凝視する。きっと彼の思考回路は乱れてしまっている。実際自分が逆の立場だったら、おかしなことを聞いてくる得体のしれないガキという印象を持つだろう。そして、質問の意図は何で、どういう育ち方をしているのかといった疑問が芽生える。答えに困るのは当然のことだ。彼が何か答えるまで待つことにした。
「俺だ。開けるぞ」
ドアの向こうから先ほど聞いた声がしたために、彼は考えることを中断してしまう。
「面白い質問だね。答えるのはまた後でいいかな」
「いいとも」
「追手がいなければ入ってくれ」
木材と石が擦れて悲鳴を上げながら扉が開く。ゆっくりと入ってきたフードの男は、両手を頭の後ろで組みながら、酷く青ざめた顔をしていた。男と共に、上下水色の軍服を着た赤い髪の女が、ピストルを構えながら入室する。
閲覧ありがとうございました。校閲が間に合えば、また明日お会いしましょう。明日からは数々の伏線が登場していきます。