夕暮れサロン殺人事件【21】
診察室には常駐している医者の真島先生とその後ろに若い女性の看護師がいた。黒い髪を後頭部で結んで前髪をピンクの星のヘアピンで留めている。歳は僕と近いのだろうか。
胸には「奥野弥生」と書かれ、その上にはひらがなで「おくのやよい」と書かれている。
「はじめまして、砂橋さん。夕暮れサロンに常駐している医師の真島圭です」
真島先生の白衣の胸元にも看護師たちと同じように名前のプレートがついている。
「よろしくお願いします、先生」
「ところで君の身体の状況のことだけど……」
「すいません、あまり人には聞かれたくないので……」
僕の言葉にこくりと真島先生が頷く。彼は奥野さんに笑顔を向けた。
「奥野さん、ちょっと外してくれるかい? 診察は私一人で十分だから、樋口くんの手伝いをしてほしいな。ほら、花壇の件」
「あ、分かりました!」
奥野さんは人払いをされたのににこやかに笑って返事をして、診察室から出て行った。
花壇ということは看護師の樋口さんも中庭にいるのか。
「結城さんは皆さんの昼食の片付けをしているので隣の部屋にはいません」
真島先生は僕が気にしていることを先回りして答えてくれた。話が速いのはいいことだ。
「真島さんは毒殺事件の犯人、分かってるんですか?」
直球の質問に彼は細いフレームの眼鏡の奥の目を丸くしてから、脱力したように肩を落とした。
「羽田さんからお金をもらったけど、やっぱり足を突っ込むべきじゃなかったか……」
「今更引き返せませんよ。とりあえず、ここからは誰が聞いているか分からないから筆談でもしません? 紙は燃やすことになると思いますけど」
「それなら、パソコンに文字を打って会話をしてくれ……」
真島先生はそう言うとパソコンに向き直った。
「夕暮れサロンの居心地はどうですか?」
『毒殺事件の犯人は検討もついていない。しかし、毒殺されたことだけは死体を確認して分かってる』
「他の入居者の人達もよくしてくれているので、居心地はいいですね」
真島先生が毒殺だと判断していなければ、毒殺だと言われないだろう。そもそも、長良澪さんと井土侑大さんの死が夕暮れサロンでの事故の場合、真島先生はこの夕暮れサロンを責任を取って辞めているはずだ。
しかし、宏隆さんからの情報によると、彼はこの夕暮れサロンに八年前からいる。一番の古参らしい。
「一番仲良くしてくれそうなのは大久保さんですね。初日からお菓子をたくさんもらいました」
『長良澪さんと井土侑大さんは二人とも同じ毒で死にましたか?』
「あの人は作るのが好きですからね。たくさん食べる人が来てくれて喜んでるはずですよ」
『違う毒だ』
違う毒。同じ犯人なら、同じ手口で同じ毒を使うと思うのだが、犯人は一人ではないのだろうか。それとも、一人だと思わせないように違う毒を使ったのか。たまたま手に入った毒が違ったのか。
『怪しい人は?』
『全員怪しい。私が殺していないことは確実』
『全員同じことを言うと思いますよ』
犯人だって、関係のない人間だって同じことを言い出すだろう。
自分はやっていない。しかし、自分の無実を証明することができなければ、他人の無実も証明できない。
『先生はどうして犯人ではないと言い切れるんです?』
『金が必要だから。殺人事件なんかが起きたら収入のいいこの職場を手放すことになるだろう』
彼の目は真剣そのものだ。
まぁ、彼がどうして金を必要としているのかは、この映像を見ている市香ちゃんが調べてくれるだろう。
「あ、先生、聞きたかったことがあるんですけど、僕って今は薬いりませんよね?」
「ええ、今の状態だと薬を飲む必要はないでしょう」
『看護師たちも犯人の可能性はあると?』
『看護師たちも入居者たちも、毒を入手しようと思えば入手できる。だから、怪しくない人間なんてどこにもいない』
もし、真島先生が犯人だった場合、僕はすぐに殺されてしまうだろう。何しろ、毒殺事件の犯人を捜しに来ているんだから。薬を口にするなどもってのほかだ。
『とりあえず、長良澪さんが亡くなった時と井土侑大さんが亡くなった時の状態を教えてもらってもいいですか?』
「それならよかったです。僕、大人になった今でも粉薬とか苦手で……」
「もし、薬を出す時は粉薬は避けますね」
『すぐに覚えることができるのなら』
『大丈夫です』
暗記は僕の得意分野だ。
宏隆さんに見せてもらった資料もばっちり頭に入っている。
しかし、真島先生にも看護師たちの無実が分からないか。
確か、結城さんは六年前からここにいる古参で、一人息子がいる。樋口さんは三年前からいて、身寄りはなし。奥野さんは一年前からいて、田舎で両親が暮らしている。宏隆さんにもらった資料にはそう書かれていた。
一年以内に起こった毒殺事件に関しては全員容疑者になり得る。
入居者だって同じだ。毒殺事件が起こった時には、ほとんどの人間がこの夕暮れサロンにいた。
つまり犯人は確実に今、この夕暮れサロンの中にいるのだ。
『まず、長良澪が発見されたのは朝食の配膳が行われた午前七時。その時刻に、こちらでモニターしている脈拍も乱れたから、彼女は毒を服用してそのまま亡くなったのだろう』
即効性の毒。
彼は夕暮れサロンに常駐している医師に過ぎないから、解剖や毒の解明などはできなかったみたいだ。
『井土侑大の時は午後三時。彼が古賀さんと杉崎さんを自室に招いた時に目の前で薬を飲んで亡くなったらしい。モニターしている脈拍が乱れたのを確認してすぐに駆けつけたが、その時には心肺停止の状態だった』
死体を発見した時、長良澪には嘔吐の跡があったが、井土侑大には嘔吐した様子は見られなかったらしい。古賀さんと杉崎さんの井土さんが死ぬ直前の様子を聞いたところ、彼は倒れて、痙攣していたらしい。
長良澪さんが毒で倒れた瞬間を見ている人はいないが、二人が摂取した毒は別物だろう。
真島先生に宏隆さんがいくら支払ったのかは知らないが、お金が支払われている限り、真島先生が僕に嘘をつくはずがない。
「身体の不調とか気になることはありますか?」
「今のところないですね」
「それならよかったです。不調を感じた時は左腕にある時計の横の赤いボタンを爪で押し込んでもらえば、駆けつけるので」
僕は左手を持ち上げて、腕時計の画面の横を見た。手の平側に赤いボタンが奥まった位置に存在している。
つまり、このボタンがあるにも関わらず、毒を飲んだ人間は助からなかったというわけだ。医師がすぐに駆けつけられるとしても安全ではない。
「なるほど。使わないことを祈ります」
一番はこんなボタンを使わないことだ。
「診察していきますか?」
「遠慮しておきます」
診察室に来ている時点で周りへのカモフラージュは完了している。わざわざ診察してもらう必要もない。
「くれぐれも気を付けてくださいね」
「分かりました」
僕がもし死んでしまった場合、宏隆さんが真島先生に支払ったお金はどうなるんだろう。
前金と依頼完了時のお金があるとしたら、真島先生は僕を死なせるわけにはいかないだろう。
とりあえず、後で市香ちゃんに連絡するか。
僕は腕時計に目を落とした。
「午後五時に連絡しよっと」
僕はそう呟いて、厨房へと向かった。




