夕暮れサロン殺人事件【16】
「それじゃあ、あとはゆっくりしてくれ」
宏隆さんはそう言って、夕暮れサロンから出て行った。ひらひらと手を振って、彼を見送った後、夕暮れサロンの入口でもあるⅠ棟の廊下を歩く。
手元のパンフレットによれば、玄関から見て左手側に入居者も使える厨房と入居者は入れない厨房がある。入れない方の厨房では、入居者の朝昼晩の食事の用意がされているらしい。
右手側には診察室など、医療に関係している部屋がある。
ここで定期的に診察を受けるみたいだ。
厨房の前の西側通路を通り、H棟の一階に入る。
すぐそこの部屋のプレートには一ノ瀬千穂理という名前があった。元都知事の女性。
「あら、新しい入居者?」
ちょうどタイミングがよく、一ノ瀬千穂理の部屋の扉が開いて、ショートカットの黒髪と白髪が綺麗にストライプの柄になっている女性が顔を出してきた。
髪は宏隆さんに見せてもらった写真とは似ていないが、顔は変えていないから、彼女が部屋の主である一ノ瀬千穂理だというのはすぐに分かった。
「はい。砂橋です。よろしくお願いします」
手を差し出すと一ノ瀬さんは手を握り返してくれた。
「砂橋さん、あなた、いくつ?」
「二十四歳です」
一ノ瀬さんは目を細めた。目元の皺が深くなる。
「あら、私の孫と同じ年だわ」
「お孫さんいるんですか?」
「ええ、そうよ。あなたと同じ年の子なの。この前、仕事の調子がいいって電話で話をしたところよ」
彼女の孫の一ノ瀬隆二は、現在若いながらも議員である父の補佐をしている。彼女に関する資料を読んだ時に、家族のことも覚えた。しかし、それを僕が知っている必要はないだろう。
「そうなんですね。同じ年の人が頑張って働いていると思うと、僕がここにいるのが少し申し訳ないです……」
困ったような顔をすると「あらあら」と一ノ瀬さんは微笑んで、僕の頭に手を伸ばして、一度だけ撫でた。
「ここにいるってことはあなたにもやむを得ない事情があるんでしょう? それに仕事をしているから偉いというわけではないわ。お金がきちんともらえる仕事以外にも世の中はやらないといけないことで回っているんだから」
「そう言ってもらえるとありがたいです」
まぁ、僕は宏隆さんからお金をもらって、ここにいるんだけど。
「じゃあ、新人さんということでお茶会にあなたのことを紹介しないといけないわね」
一ノ瀬さんは僕の手を引いて、建物の中央の階段まで連れて行った。
「ああ、それならさっきもお茶会を見ましたよ。部屋の確認があったので混ざったりしなかったんですけど」
「そうなのね。あなた、お菓子は好き?」
「大好きです」
速攻で答えた僕の反応に一ノ瀬さんはおかしそうに笑った。
「それなら、大久保さんが喜ぶわね」
先ほど、僕にマドレーヌをくれた人だ。
今後も大久保さんにはお世話になることになるだろう。
「皆さん、お茶会は楽しんでるかしら?」
階段を上り切った一ノ瀬さんがテーブルに座っている女性二人に声をかける。大久保さんと神宮司さんが振り返り、僕と一ノ瀬さんを見た。
勝俣さんは、どうやらいないらしい。
「先ほど、会ったから攫ってきちゃったわ」
「攫われてきちゃいました」
お茶目なことを言い出す一ノ瀬さんに合わせて言うと、大久保さんが嬉しそうに僕を手招いた。
「それなら、お菓子をたくさん食べさせて太らせちゃいましょうね」
僕が座らせられた席の前にはマドレーヌがのせられた皿があった。神宮司さんが僕のことをじっと見ている。入居したばかりの若い新人を警戒するのは当たり前のことだろう。この夕暮れサロンには大物がたくさんいるのだ。
それを狙って入ってくるような人間がいてもおかしくはない。
今回の僕の狙いは大物への接触ではなく、毒殺事件に関する調査だ。ホスピスの利用のためではない。
神宮司さんはしばらく僕のことを見ていると、左手の腕時計を見て「診察時間だわ」と言って、大久保さんと一ノ瀬さんに見送られながら、一階へと降りて行った。
「砂橋さんのお部屋にもお邪魔しに行きたいわね」
「本とゲームしかないですよ」
他の入居者の部屋がどうなっているか気になるので、僕の方こそ、他の人達の部屋にお邪魔したいが、入居したばかりの人間がいきなり部屋に行かせてほしいと言ったら怪しいだろう。
これから長い時間を共にするはずのホスピスの仲間なのに、何を急いで他人の部屋を見たがるのか、と。




