緋色の部屋【9】
「それで?依頼人の女性はもうすぐ来るのかな?」
「うん。十時に待ち合わせだから来るはずだよ」
湯浅先生が「ちょっと飲み物を買わせて」と有料駐車場前の自動販売機に移動するのを砂橋と一緒についていく。
「湯浅先生は火事の報道は見た?」
「見たよ」
湯浅先生は微糖の缶コーヒーの下のスイッチを迷わずに押した。がこんと缶コーヒーが取り出し口に落ちる。
「2LDKの一室での火事。報道ではストーブからの引火かって言われていたけど、実際にそうなのかい?」
「さぁ?でも、依頼人はストーブでこんな時季に火災だなんておかしいって言っていたよ」
湯浅先生はかがんで取り出し口から缶コーヒーを取り出すと、かがんだまま、缶コーヒーを開けて、飲み始めた。
「んー……、まだなんとも言えないけど、ありえないことではないよ。そもそもおかしいっていうこと自体、ないと思うからね」
「おかしいということ自体がない?」
俺が思わず鸚鵡返しにすると、湯浅先生はかがんだまま俺の顔を見上げた。
「たとえば、知ってるかい?ホテルの客の中には、客であるという免罪符で自分がなんでもしていい神様気分になっちゃう人もいるんだ」
今何故ここでホテルの客の話になるのか。
全く分からないが、最後まで話を聞けば、湯浅先生が言いたいことも分かるのだろうか。
「ホテルの中には歯ブラシやタオルとか、持ち帰ってもいいものがいくつかあるだろう。でも、たまにホテルにあるものならなんでも持って帰っていいと思ってしまう輩がいる。過去には部屋に設置していたテレビを客が持ち帰ろうとした事があったらしい」
俺の周りではそんなことをする人間はいないが、世の中にはいるのだろうか。テレビを持ち帰っていいわけがないだろう。
「果たして僕にもどうしてホテルのテレビを持ち帰るのか、その人間の考えは分かったものではないけど、世の中にはその「分からない」ってことをする人は大勢いるんだよ」
湯浅先生は立ち上がって、俺と砂橋を右手と左手でそれぞれ指さした。右手には缶コーヒーを持ったままだった。
「僕と砂橋くんと弾正くん。僕ら三人ともそのことをおかしいと思うこともあるし、僕と弾正くんだけがおかしいと思うこともあるかもしれない。そして、この中では僕だけがおかしいと思うこともまたあるかもしれない」
この話は、もともと、ストーブによる引火が火災の引き金となったことをおかしいと言っていたという発言から出たものだった。
砂橋と湯浅先生は、ストーブによる引火がおかしいと俺と同じように思っているのだろうか。
もうストーブをしまっている俺にとってはストーブによる引火の事故だとは信じることがあまりできそうにない。
「だから、もし、夏にストーブをつけることがおかしいから、亡くなった彼もストーブをつけなかったに違いないと思うのは早計だと言いたいんだ」
湯浅先生の言いたいことは分かった。
彼は俺が頷くと満足したように何度も頷いて、空になった缶コーヒーを自動販売機の横にあるゴミ箱に突っ込んだ。
今は違うようだが、彼が高校の先生だというのはなんとなく分かった気がする。先ほどの生徒に言い聞かせるようなセリフは全て高校教師をやっていた時の名残だろう。
砂橋は、この先生から化学について習っていたのかもしれない。
俺が高校の時はどうだったか。
あまり、教師と必要以上に話すことはなかった気がする。授業と面談の時以外で、個人的な話をした覚えはない。
砂橋はどうだったのだろう。
高校時代、湯浅先生に個人的な話をしていたのだろうか。
「お待たせして申し訳ないです」
「大丈夫ですよ、高瀬さん。僕らも今ついたばかりですから」
高瀬は路地の向こうから走ってくると、俺達の前で立ち止まった。昨日と同じく高い赤のヒールでは短い距離だとしても走りにくかっただろう。
彼女は少しの間、胸に手を当てて呼吸を落ち着かせると、すぐににこりと笑った。
「結人の住んでいた場所はこの通りを進んですぐなんです。案内しますね。えっと、そちらの方は昨日、探偵事務所にいましたよね?」
彼女は俺の方を見た。
そういえば、彼女とは一度も言葉を交わしていない。
お互いに昨日探偵事務所にいたという認識しかない。
「弾正です。今日はよろしくお願いします」
「僕は、湯浅恭平です。よろしくお願いします」
俺の自己紹介の流れに乗るように湯浅先生は高瀬に手を差し出した。彼女は目を丸くしたが、すぐに軽く湯浅先生の手を握った。湯浅先生は軽く上下に手を振るとすぐに手を離した。
「皆さん、今日はよろしくお願いします。それじゃあ、案内しますね」
今日は、火事の原因の調査だ。
その現場に行く道中に依頼人の前で世間話をする程の余裕は持てず、俺達三人は黙って、件の家へと向かうこととなった。
2LDKの部屋が一階ごとに二部屋ある二階建ての建物がそこにはあった。
高瀬はそのアパートのホールに建ち、ホールから見て右側の扉に鍵を差し込んだ。鍵は扉の上と真ん中の高さに二つあり、彼女は持っている鍵二つを使い、扉を開けた。