弾正誘拐編【30】
先ほどまで耀太と薫が座っていた席に俺と砂橋は座った。赤ワインを飲んでいた紫吹は俺の方を見て軽く頭を下げた。
「いきなり、襲ってしまってすみませんでした」
「……砂橋に見つけられなかったらどうするつもりだったんですか」
「もちろん、閉園時間になったら出して差し上げるつもりでしたよ」
「じゃあ、少なくとも後一時間半は閉じ込めてたってことだね」
そう思うとぞっとしてしまう。
攫うと言っても閉じ込める必要はなかっただろうに。
「ところで砂橋さん。耀太くんの書斎での様子を聞かせてほしいんですが」
紫吹の言葉に砂橋は口の中に入っていた飴を噛み砕いた。
「紫吹さんが考えているようなことはありませんでした。彼は書斎にある仕事のファイルを開きはしましたが、それも一瞬です。ヒントを探すために、ぱらぱらとページを捲っていただけですので、仕事の資料をじっくりと読んだり、写真を撮る仕草は一切ありませんでした」
なるほど、婚約者の人間が西園寺ホテルグループの稼業が目当てで薫に近づいていないか、この男は心配していたのだ。
会長の書斎となれば、情報の宝庫。
そんな場所で利益を追及するか、もしくは薫の目的を優先させるか。それを見極めたかったのだろう。
砂橋もそれに途中から気づいていたのか。
「娘は、自分が西園寺ホテルグループの会長の一人娘だとは最近まで耀太くんに隠していたと言っていたが、もしかしたら、耀太くんはそれを調べた上で娘に近づいたかもしれないと思ったんだ」
彼はつまみとして出されているチーズを口に運び、ワインを一口口の中に流し込んだ。
「では、その心配は必要なくなったんですか」
砂橋に問われた紫吹は首を横に振った。
「分かるだろう。人を完全に信じることはできない。しかし、大切な人との時間は、大切にさせてやりたい。これからも見極めていくわけさ」
大きな責任を背負っているのだから、今まで何度も信じては裏切られたことがあるのだろう。
もしかしたら、今回の謎解きは紫吹から試されていると気づき、耀太がわざと仕事の資料を見なかった可能性もある。
「二人の出会いの話を聞いてね。笑ってしまったよ。美樹と私も、最初の出会いは、相手のリュックの口が開いていて、それが気になったからという理由で始まったんだ」
「美樹さんと紫吹さんはこのテーマパークで、あの二人は水族館でしたね」
「昔、まだ美樹が生きていた頃、家族三人で水族館に行ったことがあるんだ。その時の写真は薫が持っている。今でも持っているはずだ」
俺は最初からこの家族の話を聞いているわけではないから、詳しいことは分からない。
しかし、薫も紫吹も家族を大切にしていることだけは分かった。
家族を大切にしたいのは分かるが、他人の俺の頭を殴って気絶して、狭い場所に閉じ込めないでほしいものだ。
「まずは信じてみることにしたよ。これからたくさん話して……もちろん、耀太くんが薫を悲しませたら容赦はしないがね」
その時は耀太も俺のように後ろから頭を殴られて気絶させられてしまうのだろうか。
「弾正くんには悪いことをした。これは見舞金として受け取ってくれ」
紫吹はそう言うと懐から膨らんだ茶封筒を取り出して、俺の前に置いた。
俺は数秒迷ってから、それを手に取って自分の懐に入れた。
「よかったですね、弾正に許してもらえて」
「はっはっは。本当に寛大な人でよかったよ」
今からでも茶封筒を叩き返してやろうか。
「あ、弾正。たぶん、紫吹さんに僕らを紹介したのは羽田宏隆さんだよ」
羽田の奴、ぶん殴ってやろうか。
羽田グループの現会長の羽田宏隆。あいつなら確かに俺を殴って気絶させて攫うという計画を聞いて、大爆笑した後にオーケーを出すだろう。
「薫に聞きましたか」
「ええ。どうせ、先に紫吹さんと宏隆さんが話して、今回の計画を決めた後に、宏隆さんが二人に近づいたんでしょう」
砂橋の言葉に紫吹は「その通り」と大きく頷いた。
「君達は部下に送らせよう。場所は探偵事務所でいいかな?」
「いや、ショッピングモール近くの駐車場に俺の車を置いたままだ」
そういうと隣の砂橋は「ははっ」と声をあげて笑った。