三つのチョコ【1】
「今日はバレンタインデーって分かってます?」
俺の方を見て、笹川が眉をひそめた。
俺の右手にはビニール袋がある。中から出てきたのは煎餅の詰め合わせだ。笹川の言いたいことは分かるが、俺はついさっき笹川に言われるまで今日が二月十四日のバレンタインデーだということをすっかり忘れていたのだ。
「……しかし、チョコは女性から男性に渡すものではないのか?」
「古いんですよ、弾正は」
笹川はわざとらしくため息を吐いた。
砂橋はまだ事務所には来ていないらしい。呼び出しておいて来ていないとは。
時間は午前十時。
探偵事務所セレストには、すでに出勤していて何やらノートパソコンに向かって真剣な表情でキーボードに親の仇のように指を叩きつけている笹川がいたのだ。
彼は事務所の扉が開いた音でこちらに気づいたが、俺に気づいた瞬間に彼は台所に現れたゴキブリを見るかのような表情になった。
そんなに俺のことが嫌いか。
いや、そんな表情をされるのももう慣れてしまったが。
ソファーに座って砂橋を待つこと数分。キーボードを叩く音だけが室内に響く。
「ところで、砂橋はいつ来るんだ?」
「砂橋さんに呼ばれたんですか?」
「ああ。用があるから来いって言われてな」
昨夜、砂橋から「明日の朝、事務所に来て」とメールが来ていた。
探偵事務所セレストが営業時間になるのは午前十時からだ。何時に来いとは言われていなかったため、早めに来ることにしたのだ。
まさか、砂橋よりも先に笹川が探偵事務所にいるとは思わなかった。
「今日は何か仕事があるのか?」
「俺はありますけど、砂橋さんはいつも通りのはずですよ?」
ということは暇なのか。
この探偵事務所セレストは一般的な広告での宣伝では一切していない。知っている者からの紹介された人物からの依頼しか請け負っていないのだ。あとは、砂橋や探偵事務所に所属している人間の気分で依頼を請け負うこととなる。
俺は探偵事務所に所属しているわけではないから詳しい事情は分からないが、この探偵事務所には他にも働いている人間がいるらしい。
よくここに呼び出される俺でもその職員は見たことがないが。
むしろ、俺の方が砂橋に付き合わされているので給料をもらえないものかと考えたこともある。
「ていうか、煎餅ってなんですか。そのチョイスは。砂橋さんは甘いものが好きでしょう?」
「いや、砂橋はなんでも美味しいものが好きなのであって甘いもの限定で好きなわけではないな」
「なんですか、その、自分の方が砂橋さんを知ってるみたいな言い方!だから、俺はお前が気に入らないんですよ!」
ここまで分かりやすく嫌われていると嫌な気持ちもしない。いっそ、清々しい。やめろと言う選択肢さえも頭に浮かび上がってこない。
「笹川は今なんの仕事をしているんだ?」
「仕事じゃないですけど、ちょっとメールが届いたんですよ」
「メール?」
笹川がパソコンをちらりと一瞥してから、椅子を引いて、パソコンの前からどいた。彼のパソコンを覗き込んで見るとそこにはメールの画面があった。
差出人のメールアドレスはよくパソコンのメールで使われるようななんの変哲もないアドレス。小文字のアルファベットと数字を組み合わせただけのもの。
メールの件名には「Valentine」とのみ書かれており、本文はたった三文ほどしかない。
「件名からして店とかからの営業メールかと思ったら違ってて」
笹川がため息をつく。
「……これは、どういうことだ」
「ポエムですかね。なんの謎解きかは分かりませんが、これだけでは全く答えが出てこないんですよ。むしろ、問題がないというか……」
本文にはこう書かれていた。
『あなたは、13。
あなたの傍にいつもいる人も、13。
あなたがいつも行くお店は、23。』
俺にはなんのことかさっぱり分からない。砂橋だったらなんのことか分かるだろうか。
いや、この情報だけで分かるものもないだろう。
 




