探偵のオペラ【19】
十二月まで捲り終えて、次のページを捲ると罫線だけが入ったフリースペースが現れる。そこにはびっしりと箇条書きで文が書きこまれていた。
いったい、何を手帳のフリースペースに書き込むことがあるんだろうと目を凝らす。
「ふぅ坊はあの年でわさびとからしが苦手」
「ムーンはふみふみのことが好きだけど告白せずにネットストーカー中」
「キツネは役者の癖に劇中以外は人と目が合わせられない」
「ラブリー、まじでラブリーだった」
「サンはアイドルオタク」
日にちのところで書かれていた名前と同じものがいくつか出てきた。いったい何をそんなに書くことがあるのだろうと思って眺めていたが、読むほど訳が分からなくなってきた。いったい匠という人間は何を熱心に書いているのか。
「他人について気づいたことでも書いてるんじゃない?弱みっぽいことばっかり書いてるけど」
「……わさびとからしが苦手ということが、弱み?」
「どんな弱みでもいいんじゃない?自分が面白いと思えたら」
砂橋はそう言うとぱたんと手帳を閉じた。
床に広げられた匠の荷物を出した時と同じように鞄の中へとしまっていく。
煙草、水筒、メイク落とし。ふと、財布を鞄に戻そうとした砂橋の手が隣、二つ折りの財布を開いて、カード類が収まっている場所から押し込められている十枚ほどのカードを抜き取った。
なんのカードを探しているのかと思ったら、砂橋の手は匠の運転免許証を見つけたところで止まった。
運転免許証の写真には明るい茶髪の男が笑っていた。
劇中でのルノーは常に背を丸めてアンネに媚びへつらっている中年男だったし、顔には皺のようなものもあったはずだが、この写真とは全く違う。きっとメイクで顔を作っていたのだろう。だから、鞄の中にメイク落としがあったのだ。
「演技ってすごいねぇ」
「興味が出てきたか?」
「全然」
「……」
砂橋に一蹴され、私はもう口を開かないことを決めた。
カードを全て元の位置へと戻すと砂橋はお札の場所をがばりと開いた。何も言わないが、他の人間が見ていたらお金を盗もうとしているのかと疑うところだろう。俺だってもしかしたらそうかもと思ってしまうのだから。
結局砂橋はお札を見て、小銭を確認した後に「ふーん」とつまらなそうに財布を閉じて、鞄の中に放った。手帳は元に戻さないまま鞄のチャックが閉められる。
「あ、皆さん、ここにいたんですね……」
部屋の入口を見ると愛梨が扉の隙間から顔を出してきた。
「どうかされましたか?」
熊岸の言葉に愛梨が気まずそうに目を逸らす。
「その……いつまでも衣装のままだとちょっと……明日も着るはずなので汚したくなくて……着替えたいんです」
愛梨のその言葉に史也が思い出したように慌てる。
「そうだそうだ。衣装は早めに脱いだ方がいい。女性陣はドレスだし、先にここで着替えてるといいよ。刑事さん、それでいいですか?」
「確かにドレスでいるよりも着替えてもらった方がありがたいですね。我々は舞台の方に戻らせていただきましょう」
「ありがとうございます」
愛梨がお礼を言いながらキャストの控室に入ると、入れ替わるようにして、俺たちは外に出てきた。
「……砂橋。あとで返すんだぞ」
熊岸警部が振り返らないままそう言うと砂橋は「は~い」と間延びした声で答えた。なんのことだと砂橋の手元を見るとそこには匠の手帳が残っていた。まさか持ってくるとは思わなかった。
本当にこの現場に来たのが熊岸警部でよかったと思う。しかし、熊岸警部がいいとしてもあの猫谷という刑事がいい顔をしないだろう。できれば大きな動きはしないでくれと俺は祈ることしかできなかった。