過去編:ダニエルは霧の湖畔で 中編
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待ち受けていた先輩たちにひとしきり歓迎された後、寮監のバロウッズ先生が簡単に挨拶をした。バロウッズ先生はすらりとした男性で、サラサラの糸みたいな銀色の髪が足首近くまであった。東洋風に見える不思議なローブを着ていて、ずっとニコニコとしている。
先生はいろいろな注意事項――しばらくは一人で校内を歩かないこと、不思議なものには触らないこと、においに気を付けること、など――を並べてから、新入生たちの部屋の割り振りを決め始めた。
「――あれ。これだと、一人飛び出てしまうね。そっか、去年も今年も人が多かったから。うーん……特例で、三人部屋にすればいいか。ええと、」
と先生は一年生たちをぐるりと見て、
「君と、君と君」
ダニエルとさっきの金髪の少年、それから紺色の長い髪の少年を指した。
「君たち三人で一部屋ね。男子寮の最上階、五階だ。一部屋しかないからすぐに分かると思うよ。家具は全部二人分しかないけど、ちょっとだけ我慢してね。あとで一式持っていくから、荷物は広げないで待っていてほしい。良いかな?」
金髪の少年が機敏に返事をした。
それから三人はそれぞれの荷物を抱えて、階段を登りだした。
ダニエルは前を歩く二人のことをじっと見ていた。胸がドキドキしていて、何度も階段に突っかかりそうになった。
(ルームメイト……)
まさかそうなるとは思わなかった。仲良くなれるだろうか。その前にさっきのことを聞いてもいいだろうか。もう一人の子はどんな子なんだろう。髪の毛がすごく長いから、魔法使いの家系だろうか。どうして月下寮を選んだんだろうか。
いろんな疑問が尽きぬ湧き水のように溢れ出てきて、ダニエルは頬を緩めた。
三階ぐらいまで上がったところで、金髪の子が立ち止まった。肩で息をしている。
ダニエルは声を掛けた。
「大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫……先に行ってていいよ」
顔を真っ赤にして、ちょっとツラそうだ。体が丈夫じゃないのかもしれない。
「荷物持つの、手伝うよ」
「あ、いや、大丈夫! 大丈夫だから」
「そう?」
「何やってんの」
先に行っていた三人目が降りてきた。彼は小さなボストンバック一つだけで、それも中身はスカスカなようだった。
スーツケースを下ろして立ち止まっている金髪の少年を見て、彼は察したらしい。
「ああ」
と一つ頷くと、勝手に金髪の少年のスーツケースを奪うように持ち上げた。そして、「重たっ。持てなくなるほど詰め込んでくんなよ」と言いながらさっさと階段を登り始めてしまう。
金髪の子は慌てて追いすがった。
「あっ、あの!」
「なに」
「自分のだから……自分で……持つ」
「一階上がるごとにへたりこまれてたら迷惑」
「あ、う……ごめん……でも……」
「でも、なに」
「……他人に持たせるのは、やっぱり、違うと思うから……」
「……じゃあこっち持って」
紺色の少年は自分のボストンバックを乱暴に放り投げた。金髪の少年が「わ、わ」と慌てた声を上げながら、どうにかそれを抱える。
「これでいいだろ」
「……ありがとう」
お礼の言葉に、鼻を鳴らしただけで答えて、紺色の髪の子はずんずん登っていった。その後を金髪の子が追いかけていく。
(仲良くなれそう……?)
ダニエルは首を傾げながら、二人の後を追った。
部屋は広くて、三つ目のベッドやデスクも充分入りそうだった。三人はとりあえず部屋の隅に荷物をまとめておいて、ベッドの上に座った。
「ルームメイトってずっと変わらないんだよな」
「うん、そうだよー」
紺色の子の質問に頷いて、ダニエルは二人に笑いかけた。
「僕、ダニエル・ドゥルイットって言うんだ。よろしくね」
手を軽く握って差し出すと、二人はちょっときょとんとした。それから、
「ああ、“魔法使いの握手”って言うんだっけ?」
と金髪の子が言って、同じように軽く握った拳をダニエルの甲に合わせた。
「二回ぐらいコンコンってやるんだよ」
「そうなんだ。詳しいんだね。――ドゥルイットって、日輪寮の監督生さんと同じ名字だったけど、もしかしてご家族?」
「うん。姉さんだよ。うち、家族全員魔法使いなんだ」
「へぇ、そりゃすげぇ」
紺色の子がわずかに目を丸くして、ぎこちない仕草で魔法使いの握手をした。
「俺はヴィンセント・ボイル。ヴィンスでいいよ」
「よろしく、ヴィンス。僕もダニーでいいよー」
「よろしく」
最後に金髪の子が、「俺はアーネスト……」まで言って、ちょっと口ごもった。しかしすぐに、「アーネスト・キャベンディッシュ。よろしく」と言った。
キャベンディッシュ、という名字の響きに、ダニエルは何か聞き覚えを感じたが、どこで聞いたものかはまったく思い出せなかった。
「よろしく、アーネスト」
「よろしく。……アーネストなら、アーニーか?」
とヴィンスが言った瞬間、アーネストがびくりと肩を跳ね上げた。
「あ、あの、ごめんっ……悪いけど、それは……アーニーとは、呼ばないでほしい……ごめん……その、あんまり好きじゃないんだ、愛称で呼ばれるの……」
そう言う彼はやけに怯えているように目を泳がせていた。それでいながら、声音は真に迫るものがあって、絶対に呼ばれたくないのだという気持ちが伝わってきた。ヴィンスはちょっと呆気に取られたようにしていたが、すぐに「あ、そう。別にいいけど」と頷いた。
それを最後にふと会話が途切れたから、ダニエルは勢いこんで尋ねた。
「ねぇねぇ、アーネストってさ、魔法使いになりたくなかったの?」
「えっ……?」
アーネストは分かりやすく動揺した。けれど、ダニエルはそういうことにまったく気が付かなかった。
「さっきさ、ほら、ホールで。なりたくてなったわけじゃない、って言いながら扉に入ったじゃん? あれが僕気になってさぁ。なりたくなかったのかなぁって」
「え、と……その……な、なりたくない、っていうか……なっちゃいけなかった、っていうか……――」
アーネストは腹の痛みをこらえるような顔で黙り込んだ。真っ青な綺麗な瞳が今にも泣き出しそうに歪んでいる。
(あっ、もしかして、聞いちゃマズいことだったかな?)
ダニエルははたとその可能性に思い至って、慌てて取り繕おうとした。けれど、「あ、う、あの……」といった意味のない呻き声しか出てこなかった。
「でもあれ、良い質問だったよな」
ひょいとヴィンスが切り込んできて、二人は顔を上げた。
「アーネストの質問。シェリはどうして三賢人になったのか。あれの答え聞いて、俺も月下寮に決めたから」
「……そう、だったんだ」
「うん。まぁ、あの監督生の答えを聞いて、っていうより、途中で茶々入れた他二人が気に入らなかったからなんだけど。――あ、悪ぃ、お前の姉貴だっけ?」
「あはは、いいよ別に。姉さんはいっつもあんな感じだから」
ヴィンスが話を変えてくれたことにダニエルはホッとした。
「兄弟がいるっていうのも大変そうだな」
「ヴィンスは一人っ子なの?」
「一人っ子……そうだな、一人っ子だよ」
と、彼は嘲笑うようにニヤリとした。
「兄弟どころか家族もいない、本物の一人っ子だ」
「え……?」
コンコン、とノックの音が響いて、三人は口をつぐんだ。
アーネストが返事をして扉を開けると、バロウッズ先生が入ってきて、魔法で部屋を三人用のレイアウトに変更した。アーネストとヴィンセントはその様子を目を真ん丸にして見ていた。
「さて、この後は待ちに待った夕食だ。君たちの歓迎パーティでもあるからね。クローゼットの中にローブがある。それを着てから来るように。じゃあね」
と先生は変わらずニコニコしたまま、部屋を出ていった。
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先輩たちに囲まれて、寮から食堂まで行進するように歩いた。真新しい黒いローブは、ダニエルたちの体にぴったりと合って、初めて着たという感じがしなかった。新入生たちの新鮮な興奮に当てられたように、廊下という廊下から楽しげな話し声が聞こえてきていた。
「そういえば、姉さんが言ってたなぁ。このローブ、着る人に合わせて成長するんだって」
「へぇ。それは便利でいいな」
ヴィンスが興味津々な様子で、袖口に付いている銀色の飾りを目の前にかざした。短いチェーンの先にぶら下がった、太めで穴が上に傾いたフープ。月下寮は銀、日輪寮は金、明星寮は右袖が白で左袖が黒になっている。
「君がドゥルイットの弟くん?」
三つに分かれていた廊下が一本に合流した。三つの寮の生徒たちで溢れ返り、しゃべり声がいっそう大きく天井に反響するようになった中、監督生のロバートがダニエルに声を掛けてきた。
ダニエルは足を止めないように気を付けながら、ロバートを見上げた。
「はい。そうです。ダニエル・ドゥルイットです」
「ようこそ月下寮へ。よろしく」
「よろしくお願いします」
「ルームメイトとは仲良くなれたかな?」
「えっと……なれた?」
答えあぐねてヴィンスとアーネストの方を見る。と、ヴィンスは肩をすくめて「一時間程度で仲良くなれてたら苦労しないよな」と吐き捨てて、アーネストは微笑んで「きっと、これから仲良くなれると思います」と優等生の回答をした。
ロバートは人の好い笑みを浮かべた。
「そうか。それはよかった。ああ、君はさっき質問してくれた子だね? 良い質問をありがとう。名前は?」
そう聞かれて、アーネストは表情をこわばらせた。彼が唾を飲み込んだのが、隣にいて分かった。
「……アーネスト・キャベンディッシュです」
アーネストはそんなに大きな声では言わなかった。けれど、聞きつけた周りの人々が突然ざわめいて、その呟きはあっと言う間に伝播していった。
――キャベンディッシュ――貴族院議員の――噂は本当だったんだ――反魔法使い主義の――何しに来たんだ?――スパイじゃない?――
周りが一気にアーネストに注目したことに、ダニエルは驚いた。ヴィンセントも理解が及んでいないようで、眉をひそめて周りを見ている。注目の中心で、アーネストはじっと足元を見ていた。
ロバートはちょっと目を大きくしていたが、すぐに人の好い笑顔に戻った。
「そうか。君がそうだったんだ。噂には聞いていたよ。――イメージとはずいぶん違ったけれど。議員みたいなおっかない奴が来るんじゃないかって言われてたからね」
アーネストは恥じ入るようにうつむいていた。
議員、という言葉を聞いて、ダニエルはようやく思い出した。キャベンディッシュ貴族院議員。反魔法使い主義の筆頭と言われ、魔法使いの特権を奪おうとしている政治家だ。姉や父が何か言っていたような気がする。ダニエルはあまり理解していなかったけれど。
(それで、“なっちゃいけなかった”……?)
納得すると同時に、新しい疑問が出てきた。
(それならどうして、魔法放棄の宣誓をしなかったんだろう?)
なりたくないならならない、という道もあるのだ。『今後一切魔力を使わず、万一使ったならどのような刑罰も甘受します』という誓約書にサインをすれば、魔法使いにはならないで済むのに。
ロバートは目を柔らかく細めて、優しい声を出した。
「君が月下寮を選んだのは本当に良い判断だったと思う。ここは実力が物を言う自由の寮だ。堂々としているといい。僕も出来るだけ力になるよ」
「……ありがとう、ございます」
「改めて、ようこそ月下寮へ」
と、ロバートは手を差し出した。アーネストはおずおずとそれに応じて、魔法使いの握手をした。
ロバートが行ってしまってからも、周りの目は容赦なくアーネストに集まっていた。
アーネストはまた腹痛に襲われているような苦しげな顔をして、胃の辺りを押さえていた。それがあんまり苦しそうに見えたから、ダニエルは思わず彼の背中をさするようにしていた。
彼はびっくりしたように顔を上げた。
「大丈夫?」
「……ああ、うん……平気。ありがとう……」
「なぁ、俺その辺のこと全然知らないんだけど」
とヴィンスが突然わざとらしく大きな声で言った。
「お前、何か悪いことしたの?」
「……父が、議員で……魔法使いの特権を廃止しろって言ってて……」
「俺はお前の親父じゃなくてお前のことを聞いてんだけど」
弱々しく答えたアーネストに、ヴィンスはふくれっ面を突きつけた。
「何もしてないなら堂々としてろよ、情けねぇ」
「……ごめん」
「……」
謝ってうつむいたアーネストに、ヴィンスはいっそうムッとした顔になった。
そして、
「いたっ!」
唐突にアーネストの頭を叩いた。
あまり痛そうではなかったけれど、アーネストは衝撃にびっくりしたようで、頭を押さえて目を白黒させている。
ヴィンスは鼻で笑った。
「ふんっ。貴族院議員の息子ってことはお坊ちゃまだろ? 初めて叩かれた気分はどーよ」
「えっ……はぁ?」
「先に言っとくけど、俺は礼儀とかマナーとかそういうもんなんてまったく知らない貧民だから。言いたいことは言うし、ムカついたら殴る。悔しかったら殴り返してみろよ、バーカ。根性なし」
「っ……」
アーネストはぐっと奥歯を噛んで、そっぽを向いた。
「……何も知らないくせに」
「え? なんてぇ? 聞こえなかった。もう一回言ってくれるぅ?」
「何も知らないくせに、って言ったんだよ! 耳が悪いんじゃないのか?! 学校へ来る前に病院へ行け!」
怒鳴り慣れていないアーネストの声は不自然にひっくり返っていた。
けれどヴィンスは平然とそれを受け取って、つまらなそうに肩をすくめた。
「なんだ、言い返せんじゃん。最初っからそうやって言えよな、馬鹿」
「君は語尾に馬鹿ってつけないとまともな会話も出来ないのか? 馬鹿はそっちだろう」
「はぁ?」
ヴィンスが剣呑に顔を歪めて、もう一度アーネストの頭を叩いた。
「痛っ! この……っ!」
「おー、お坊ちゃん、喧嘩の仕方知ってるぅ?」
「馬鹿にするな!」
次の瞬間、二人は取っ組み合って廊下に転がった。
「え、え、え、ちょ……ふ、二人とも、やめなよぉ!」
ダニエルは突如として始まった喧嘩に混乱しながら、それでも止めなければならないということだけは理解した。半分泣きながら二人の間に割って入ろうと跳びかかった、まさにその瞬間、
「何をしているのですか!」
ミル先生に捕まり、三人まとめて夕飯抜きとなった。
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