春先の来訪者
エイブが帰ってきた時、家の中は妙に静かだった。リビングから駆け出てきた妻のベラが、昂揚と緊張と困惑がちょうど等分に混ざったような奇妙な顔をしていた。
「お帰りなさい、あなた。ちょうどよかったわ」
「ただいま。何かあったのか?」
「ええ。帰ってきてすぐで悪いけれど、来て」
促されるままリビングに入ると、向こう側のソファに見慣れない老齢の女性が座っていた。彼女はエイブを見て立ち上がった。小柄で細身だが、真っ白い髪を几帳面に結い上げ、硬い感じのスーツを着こなした姿は、まるで熟練の老騎士のようだった。
彼女はこれまた硬質な光を宿すグレーの瞳で、じっとエイブを見た。
「はじめまして、ミスター・ウルフ」
彼女は一音一音をはっきりと響かせる喋り方を心得ていた。エイブはふと小学生の頃に一番恐れていた先生のことを思い出した。
「ソフィー・アンブローズ・ハーヴィーと申します。魔法専門学校アンブローズ・カレッジの校長を務めております」
「アンブローズ・カレッジの……」
やっぱり学校の先生だったか、という納得と、魔法学校の先生がなぜ、という当惑が同時にやってきて、エイブはちょっと立ちすくんだ。ようやくベラの表情の意味が理解できたような気がした。
「ええと、はじめまして。エイブラハム・ウルフです」
簡単に名乗ってから、ソファに座るよう促した。キッチンの方に引っ込んでいたベラが、三つ目のティーカップをエイブの前に置いて、彼の隣に座った。
校長先生はエイブがティーカップを下ろすのを待ってから、口火を切った。
「先ほど奥様にはお話しいたしましたが、改めてお伝えいたします。ミスター・ウルフ、あなたのご子息のアーチボルトくんに、魔法使いの素質が認められました」
「……ええと、失礼、なんて?」
待ってくれていなかったらティーカップを落としていたかもしれない。エイブはそれほど動揺して、妻の顔と先生の顔を交互に見た。ベラはやっぱり何とも言えない表情をしていたし、先生は眉どころか頬の皺の一本すら動かすことなくエイブを真っ直ぐに見ていた。そして聞き分けのない生徒に言い含めるような口調で繰り返した。
「落ち着いて、よくお聞きください、ミスター。――あなたのご子息、アーチボルト・ウルフくんに、魔法使いの素質が認められました」
「魔法使いだってっ?!」
ようやく理解が及んだ。魔法使い。どうやらそれになる素質が、息子のアーチボルトにあるのだと言っているらしい。
魔法使い。年間三十人程度の子どもに素質が見つかり、その子どもたちは魔法専門の学校アンブローズ・カレッジに通う。七年ののち、卒業と同時に国家認定魔法使いとなって、魔法庁やら何やらで働く――魔法使い。魔法を使う者。人智を超えた怪物や現象と渡り合い、人間の営みの一番外側の縁を、時としてそこから外れた道を歩く存在――
(それに……アーチが? 僕の息子が?)
暗がりから突然飛び出してきた犬に噛み付かれた。それによく似た驚愕と恐怖と混乱を思い出して、呼吸が早くなる。
「つきましてはミスター。アンブローズ・カレッジへの入学の――」
「ふざけるな」気が付いた時には立ち上がっていた。「そんなこと誰が許すものか!」
「あなた」ベラが肘の辺りを引っ張って囁いた。「落ち着いて。あなたならそう言うと思っていたけれど、まずはゆっくり話をしましょう。ね」
エイブは溜め息をついて、ソファに座り直した。殴られた直後のような頭痛と眩暈がした。額を押さえる。
「アンブローズ・カレッジへの入学のご案内に参りました」
校長先生は変わらぬ口調で続けた。本当に何事もなかったかのように、手の位置も皺の位置もぴくりとも動いていなかった。
その手の皺を見て、不意にエイブは、彼女はちょうど両親くらいの年齢だ、と思った。すると途端に、エイブの中の時間がぐんと巻き戻された。幼い頃の記憶。厳格で生真面目な父と、物静かで頑固な母。引っ込み思案で人見知りが強くて、吃音のあった自分。それを矯正するために演劇団へ放り込まれたのが、最初は嫌で嫌で仕方がなかった。でも親の決定には逆らえなかった。たとえそれがのちの自分の栄光に繋がるとしても、あの頃がつらかったことに変わりはない。
「アンブローズ・カレッジはご存知の通り、素質ある子どもたちの魔力を正しく成長させ、正しい魔法使いを養成するために設立された学校です。英国政府にも正式な教育機関として認可されております。また、魔法使いの育成は政府の推奨するところですので、学費はすべて国庫よりまかなわれております。魔法の指導は当然のことですが、一般的な教養科目についても上流のパブリックスクールと同等のものが学べるカリキュラムを構成しております。細かなことはこちらをご覧ください」
彼女の口調には淀むところが一切なく、同じことを何回も、何年も繰り返しているのがよく分かった。それから彼女は、足元に置いていた銀行員のような鞄に指先を滑りこませ、パンフレットをするりと抜き出した。
ローテーブルの真ん中に置かれたそれを、エイブはじっと見下ろした。時間が急速に進み、縮んでいた中身が現在の大きさに戻る。そうだ、昔と比べて、自分は随分と大きくなった。吃音はすっかり取り払われたし、親とも和解した。今の自分に恐れることなど何もない――あるとするなら、それは“家族が脅かされること”だ。
魔法使いのことはわずかながら知っていた。アンブローズ・カレッジが危険な場所であることも。一歩間違えれば死ぬような場所。一般人が行くところではない、と、まさにそこを卒業した魔法使いが言っていたのだ。エイブ自身、かつて一度だけ悪魔の猟犬に襲われたことがある。あの時の恐怖を夜道で思い出し、走って帰ることがいまだにあるくらいだ。
「駄目だ」
とエイブはようやく、だがはっきりと告げた。
昨日まで一般人だった息子が、突然一般人じゃなくなるなんて、認められるわけがなかった。信じられるわけがなかった。突然やってきた女が勝手にそう言っているだけであって、本当はきっと違うのだ。――百歩譲って彼女の言がすべて正しいとしても、だ。息子が昨日まで一般人だったのも確かだ。その子を突然魔法の世界に、いつどんな風に死んでもおかしくない場所に、連れていくなんて許せるわけがない。
「魔法使いになるなんて、絶対に許さない」
「ミスター・ウルフ、それを決めるのはあなたではありません」
校長先生は切り捨てるようにそう言った。その響きの冷淡さに脳が凍り付く。
「魔法使いになるか否かを決めるのは、素質を持つ張本人、アーチボルトくんです。あなたが許すか否かなど関係ないのです」
「関係ないわけあるものか! 私の息子だぞっ?! それを、魔法使い? そんなものに、誰が、誰が……っ!」
ついカッとなったせいか、上手く言葉が出てこなかった。魔法使いを忌避するわけではない。魔法使いの存在を否定したいわけでもない。ただそこに自分の息子が、誰が望んだわけでもないのに巻き込まれていくのが怖くて仕方なかった。なのに、それを当然のことのように言われるのが、憎たらしくて仕方がなかった。
ふと、甲高い声が扉の向こうから飛び込んできた。ベラもそれを聞きつけて、「あら、二人とも帰ってきたみたいね」と呟いた。
娘のフローレンスがのんきに「すごいわ!」とはしゃいでいるのが聞こえた。今のエイブにはそれすら癪にさわった。
なかば駆け寄るように扉まで行き、思い切り開け放つ。ベラによく似ている娘が目を輝かせてこちらを見上げた。息子はまだ理解が追い付いていないような顔で、フローレンスの腕の中からぽかんとした顔を向けていた。――そうだ、息子はまだ幼い。同年代の子たちより頭一つ飛びぬけて利発な子だが、それでも。一生涯が懸かる大きな決定を、まだ幼い意思に決めさせるなんて、そんなことできるわけがない。
エイブはその場に膝をついて、息子の両肩を掴んだ。自分と同じ真っ黒な瞳が真ん丸に広がって、こちらを凝視していた。その目からブラックホールを連想してしまって、喉の奥がぐっと詰まった。
エイブは不吉なものを振り払うように、考えうる中で最も強い言葉を絞り出した。
「アーチボルト。君は絶対に魔法使いにはなるな。魔法使いは、社会のルールから外れた危険な職業だ。魔法は、どんなルールも捻じ曲げて、真実も嘘にしてしまう、本当に危険なものだ。まともじゃないんだよ」
アーチはぱたぱたと音が聞こえそうな瞬きを何度もした。一つ瞬きをするごとに、彼の中で状況が整理されていくのが手に取るように分かった。エイブはその目の中に手を突っ込んで、脳内をぐちゃぐちゃに掻きまわしてやりたくなった。そうして何も考えられなくなればいい。何も考えず、こちらの言う通りに頷いてほしい――
だが利発なアーチはまず状況を理解することが先決だと判断したようだった。
「ね、お父さん。僕本当に素質があったの? 魔法使いになれるの?」
「話を聞いていたのか、アーチ? 魔法はまともなものじゃないんだ。そんなものに関わって、お前までまともでなくなったらどうする! そんなことになったら、まともな幸せは掴めないぞ! それに……それに――」
「あなたが、アーチボルトくんですね」
言い淀んでいるエイブの後ろに、いつの間にか校長先生が立っていた。
「こちらへいらっしゃい。あなたにも、同じ説明をしなくてはなりません。――どうあれ、全員が同じ条件で、同じ話を理解した上で、最終的な決定を下すのがフェアであると存じますが」
後半部分はエイブに向けられた言葉だった。その言い草が、正論なだけにまた気に食わなかったが、エイブはアーチから手を放した。
それから校長先生は、アーチにも理解できる易しい言葉で(口調は冷淡なままだったが)、まったく同じ説明をした。それから、魔法使いとはあくまで特殊技能の資格(たとえるなら電気工事士とか臨床心理士とか、そういうものと同じ)であり、職業の自由は保障されていると言った。アンブローズ・カレッジには大学も存在するが、一般の大学へ進学することも学力次第で可能だとも言った。
そして、
「入学を拒否なさる場合は、こちらの宣誓書にサインをしていただきます」
と、彼女は淡い金色の紙をテーブルの上に広げた。
「魔法放棄の宣誓書です。アーチボルトくんが現在持っている素質は、まだたいへん小さく、芽吹いたばかりのものです。それは、しかるべき教育のもとで育てない限り伸びていかないものですが、一方で、放置しておけば枯れるというものでもありません。魔力というものは芽生えた時点で、一生付き合っていかなくてはならないものなのです。そして、どれだけ小さな魔力であろうと、所有しているならば魔法を使うことは可能です。……先ほど、ミスター、あなたがおっしゃった通り」
グレーの目がエイブを捉えた。
「魔法とはまともなものではありません。だからこそ、正しい教育を通して、正しい使い方を覚えなくてはならないのです。それを覚えないとおっしゃるのであれば、間違っても正しくない使い方をしないよう、この先けっして魔法と関わらないことを誓っていただかなくてはなりません」
骨ばった指先が宣誓書を軽く叩いた。それから先生は紙を巻いて、元通り鞄にしまい直した。
「三日後の同じ時間にもう一度参ります。それまでに、入学申請書か、宣誓書か、どちらにサインするかをお決めください。よろしいでしょうか」
よろしくない、と言ったら何かしてくれるのだろうか。エイブがそんな風に反抗的なことを考えたのを、校長先生は瞬時に読み取ったようだった。スッと目を伏せて話を切り上げた。
「では、本日はこれで失礼致します」
「あの、先生!」
上着を片手に立ち上がった彼女を、アーチの声が引き留めた。
「はい、何か」
「あの……ええと……魔法って、どんなことができるの――です、か?」
咄嗟に丁寧な聞き方をしたアーチに、「それを学ぶのがアンブローズ・カレッジです」と素っ気なく思える答えを返しながら、ふと彼女は思い立ったように鞄へ手を入れた。「次に私が来るまでの間、この本をお貸ししましょう」
ごとり、と重たい音を立ててテーブルに置かれたその本は、大きさも厚さも明らかに鞄のサイズを超過していた。革の装丁の表紙には金色の文字で『アンブローズ・カレッジの歴史』と刻まれていた。
「ぜひ、皆様で」
そう言い置いて、彼女はふわりとローブを羽織ると出ていった。
エイブは大きく息を吐いて、ソファの背に寄りかかった。ティーカップの中にはまだ半分ほど紅茶が残っていたが、飲む気にはなれなかった。
アーチはさっそく本に手を伸ばした。抱えようとして、すぐその重さが抱えきれないものであることに気が付くと、そのまま表紙をめくった。それを横から見ていたエイブは目を疑った。本の中身が真っ白だったのだ。こんなに豪華な装丁をしておいて、何も書かれていないだなんて。
同じように後ろから覗き込んでいたフローレンスが「やだ、何これ真っ白じゃない」と言った。するとアーチは機敏に振り返った。
「えっ? 真っ白?」
「何も書いてないでしょ」
「ちゃんと書いてあるよ、ほら」
と彼は紙面を指さした。だがフローレンスは鼻で笑った。
「嘘でしょ。あたしの目には見えないわ」
「嘘じゃない! ちゃんと書いてある!」
「じゃあ読んでみなさいよ」
アーチは頬をぷくりと膨らませて、本に向き直った。小さな指先が紙面に触れ――その指先に文字が浮かび上がった。
「アンブローズ・カレッジは五世紀末、三賢人の一人、太陽のちょーじ、は、は……ハ、ウィル、の弟子、花の魔術師アンブローズによって、その前身が創設されました――」
彼が読みながら指を動かしていくと、指さされた文字だけが紙の上に現れた。指先が離れていくと文字は滲むようにして消えていった。
フローレンスが歓声を上げてアーチに飛び付き、その拍子に彼は読むのをやめた。手が離れて文字が掻き消える。そのさまを――魔法を――目の前で見せつけられて、エイブは奥歯を噛み締めた。この本を置いていった本当の意図を理解したのだ。無論、アーチの質問に答えるつもりもあっただろう。だがそれ以上に――
「すごい! 魔法の本ね!」
「魔法? 何が?」
「だってあたしたちには見えないんだもの! あたしたちに見えるのはあんたが触ってるところの文字だけよ」
「嘘、本当に?!」
「本当よ! ねぇ父さん、そうでしょう?」
――アーチは一般人ではないのだ、ということをエイブに理解させるため。そのために彼女は、この本を置いていったのだ。
(ああ、くそっ……!)
思惑通りになっているのが悔しくてたまらない。理解できてしまった。本当に、本当にアーチには魔法使いの素質があるのだ。彼が望めば、ただ一言“アンブローズ・カレッジへ行く”と言ってしまえば、この子は本当に魔法使いになれてしまうのだ。
エイブは左肩を擦った。闇の中から唸りを上げて飛び出してきた犬のような怪物。あの悪魔に噛み付かれた傷痕は消えずに残っている。噛まれた瞬間に意識が飛んだことをよく覚えている。しかもただ気絶したのとは少し違って、悪夢と悪夢の境目のざらざらした暗闇に放り込まれたような、そんな恐ろしい感覚だった。
期待と希望に目をキラキラさせてこちらを見上げているアーチを、エイブは睨むようにして見つめ返した。
「アーチ、何度も言うが、魔法使いにはなるな」
頼むから行かないでくれ、と泣き喚いてすがりつきたい気分だった。
だが、アーチは不満げに眉を顰めた。
「どうして?」
「魔法の世界は――」
危険だから。危険な場所に行ってほしくないのだ。痛い目にも苦しい目にも、出来るだけ遭ってほしくない。
「君には向いていない。君にはもっと――」
ごく普通の一般人として、平穏な日々を過ごしてほしいのだ。ただでさえ君は、良心に従って損をする性格だから。そしてそれを損と思わない、良い子だから。魔法使いの素質なんていうよく分からないもののせいで、平穏を捨てるなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
「相応しい道がある。魔法なんてまともじゃないものに関わって――」
何かおかしなことになってしまったら、どうすればいいんだ? 自分を襲ったあの犬の怪物のような、どうしようもない力にアーチが押さえつけられることを想像して、エイブは身震いした。自分は幸運にも助かったが、あれが何度も来ていたらどうだったろう? 怖い。怖いのだ。この子が自分のあずかり知らないところで、幸運も祈りも及ばないような場所で、ひっそりと食い殺されてしまうのではないかと思うと我慢ならなかった。
「損をする必要は、まったく、ない。だから駄目だ。魔法使いにはなるな。いいね」
アーチは口をへの字に結んで聞いていた。だがそれが真一文字に変わって、次の瞬間ぱかりと開いた。
「やだ」
「アーチ!」
「やだ!」
アーチはパッとソファから飛び降りて、掴もうとするエイブの手をすり抜け、部屋を出ていってしまった。荒々しく階段を登っていく音が家中に響いて、やがてバタンッと扉の閉まる音がした。
フローレンスがひょいと肩をすくめて、他人事のように言った。
「これは決まったわね」
エイブは咎めるように彼女を見遣ったが、彼女はまったくひるまなかった。
「だってそうでしょ。アーチだもん。父さんの意地っ張りと母さんの頑固を掛け合わせたあいつが、“やだ”って言ったら“やだ”なのよ。三日で変わりっこないわ」フローレンスは一ケタの掛け算を答えるように言って、ひょいとソファから離れた。「それにあたしはあいつの味方だし。だってすごいじゃない、魔法使いなんて! いいなぁ、わくわくするわ!」
「フローレンス!」
「元気づけてきまーす!」
細い背中があっと言う間に扉の向こうに消えて、パタパタと階段を駆け上がる音もすぐに聞こえなくなった。
エイブは溜め息をついて、ソファの背に顔をうずめた。
ベラがすぐ傍に来たのが気配で分かった。
「何か飲む?」
「いや……」
「はい。あなたの大好きなやつ。ホットミルクにお砂糖たっぷり、ブランデーちょっぴり」
「もう用意してたなら聞かないでくれよ……」
「ふふ、一応ね。飲むでしょう?」
「……うん。ありがとう」
エイブは顔を上げて、マグカップを受け取った。包み込むように持つと、手のひらがじんわりと温かくなる。そっと口を付けると、甘くて温かくてふわふわした優しい味が、体の中心に届いて広がった。こわばっていた手足がほぐれる。
ベラが隣に座って、エイブの肩に頬を寄せた。アーチが開いたまま置き去りにして行った、真っ白のページをその指先がなぞる。やはり文字は現れなかった。
「心配ね。すごく怖いわ。魔法の世界って、私、よく分からないけれど……楽しいことだけじゃない、どうしようもない怖さがたくさんある、ってことぐらい、想像できる……」
「……」
「怖くてたまらないわ。あなたも、そうなんでしょう?」
エイブは黙って頷いた。こうやって感情を素直に口に出せる彼女の性質が、羨ましく思うけれど、それ以上に大好きなのだ。
「一緒に怖がって、心配しましょう。素直にね。アーチはほら、良い子だから。きっと無謀なこともするでしょうけど……私たちを置いていったりはしないわ。絶対に」
「……うん」
「で、あなたはそういうことをちゃんと言葉にするの。さっきの言い方じゃ、わざと嫌われて反抗されにいったようにしか聞こえなかったわよ」
細大漏らさず真摯に語っていたと自負していたエイブは目を剥いた。
「え、嘘だろう?」
「本当よ。……昔からそうだけど、どうしてあなたって物事を悪い方向にもってくような言い方をするの? いっそ黙ってた方がいいくらいだわ」
「……そんなにひどかった?」
「ええ」
はっきりと肯定されて、エイブは少なからず落ち込んだ。肩と眉尻と唇の端とが情けなく下がると、元が端整な顔立ちの分、余計にしょぼくれて見える。両手で抱えたままのマグカップを口に運ぶ仕草など、突然の発熱で遠足に行けなかった子どものようだ。
「やだ、そんな捨て犬みたいな顔しないで。拾いたくなっちゃう」
「拾ってくれないの?」
「どうしようかしら」
「僕ほど芸達者な犬はいないよ」
「知ってる。あなたほど不器用な犬がいないのもね」
ベラはさらりとそう言って、エイブの額をちょっと撫でると立ち上がった。ティーカップを回収してキッチンに戻っていく。
「ねぇ」
「なに?」
「君は賛成なの?」
やっぱり言葉の足りないエイブの問いかけに、しかしベラはにっこりと笑って「ええ。賛成よ」と答えると、それ以上は何も言わずにさっさと行ってしまった。
リビングに一人取り残されたエイブは、真っ白のページをしばらく見下ろしていた。やがてそっと表紙を閉じると、リビングを出ていった。




