後日談:アーニーって呼ばないで 前編
†で区切ってアーチ⇒アーネスト⇒アーチ……の順に視点が変わります。
アーネストに愛称をつけるなら“アーニー”になるのが一般的だ。
特別な意味がこもっているわけでもなければ、よく似た別の単語があるわけでもない。
(それじゃあなんであんなに呼ばれるのを忌避していたんだろう)
アーチがそんなことを思い付いたのは、独り暮らしに戻ってから二日後のことだった。二週間ぶりの一人部屋はなんだか異様に広くて静かに思えた。それでなんだか変な気分になりテレビを点けたら、トーの丘を焦がした異常気象について報じていて、先日の事件のことを思い出したのだ。(トーの丘の惨状はアーチとフィルがやったものだが、すべてワイルドハントのせいということになっている。)
ヴィンセントとの喧嘩の様子からそう呼ばれたくないんだなということは分かっていた。愛称で呼ぼうという気になるとも思わなかったので、スルーしていたが。
(……エドガーに聞いてみるか)
アーネストの兄。自分をこの道へ突き落した人物。キャベンディッシュ家の長男。
最近連絡ひとつしていなかったし、今回の件についても変なところから話を聞くよりはこちらから包み隠さず話した方がいいだろう。そう思ってアーチはスマホを取った。
†
二週間ぶりの学校はなんだかとても懐かしく感じた。
(夏休みより短かったのに)
アーネストたちの話はすでに全校生徒の知るところとなっていた。ヘンウッド先生が突然解雇された手前、先生たちも事件の概要を話さないわけにはいかなかったのだ。大まかなことを知ったら、細かなことまで聞きたくなるのが人間である。スリム・ウルフの弟子がどんな生活だったのか、ということも含めて、アーネストたちは散々質問攻めにあった。
二日経ったが、まだまだ注目が集まっている。
アーネストは食堂に向かう途中、遠慮のない視線が四方八方から寄せられるのを感じながら、でも前ほど怖くないのを不思議に思っていた。
(何だろう……)
昔から、目に見えないものが怖くてたまらなかった。今でも怖い。だから不可視性魔法が嫌いなのだ。目に見えないところで何かが動くのは、とても恐ろしいことだから。
人の心がその最たるもので。
なんとなく感じ取れてしまうのが余計に怖さを倍増させた。見えないなら見えないで感じることすら出来なければ良かったのに。そうすればたぶん無視できただろう。たぶん。
今も、視線の上に乗っかったいろんな心を感じている。ほとんどは好奇心がメインだ。そこに時折敵意や嫉妬、不満のようなものが混ざっている。百パーセント敵意しか持っていないというやつはなかなかいない――
「やぁ、キャベンディッシュの坊ちゃん」
コイツ以外!
ニヤニヤしながらアーネストの進行方向を遮ったのは、ジェフリー・ネイピア――言うまでもなく、ネイピア長官の息子だ。
「お供たちにはついに見限られたのか?」
「最初からいないやつに見限られるなんて出来ないよ。彼らはお供じゃなくてお友達だから。君なら出来るだろうけどね」
ジェフリーの背後を固めているお供たちの連中をぐるりと見回す。全員が全員ジェフリーに心酔しているわけじゃない。少し集中して見れば、敵意が薄いやつがいることも分かる。――前はそんなこと見ようともしなかったけど。
「フンッ」
ジェフリーは嘲るように鼻を鳴らした。
「さすが野蛮人の弟子。二週間で学んだのは魔法じゃなくて悪口の方みたいだな」
「悪口じゃなくて事実の列挙さ」
「そんな屁理屈が通用すると思ってるのか? 野蛮すぎる。どうせ、通用しなければ殴って通せって習ったんだろ」
師匠なら言いかねない、と一瞬思ってしまって反応が遅れた。
「やっぱりな! 野蛮人の言うことなんてたいてい想像がつく。どうせ短絡的で殴ることしか考えてないんだろ? 魔法界のクズだ」
「なんだって?! 師匠を悪く言うな!」
「師匠? まだそんな風に呼んでるのか!」
「俺たちはまだあの人の弟子だ」
「ハッ、クズはクズ同士仲良しこよしってわけだ」
「馬鹿にすんな!」
反射的に怒鳴りながら掴みかかった。
「おぉっと、いいのか?」
ジェフリーは厭味な笑顔だ。
「弟子の不始末は師の責任だぞ? 僕に何かしてみろ、すぐ父上に連絡して、お前の師匠の降格を命じてもらうからな」
「っ……」
「それでもいいなら殴ってみろよー。それともお貴族様のお坊ちゃまは殴り方もご存知ない? 習ってきたんじゃないのか?」
アーネストは顔を真っ赤にして唸ると、ジェフリーから手を離した。パッと踵を返す。
ジェフリーはすぐ後をピタリと付いてきた。
「おやおやぁ? 敵前逃亡? その割には尻尾の巻き方が下手くそだなぁ」
アーネストはぐっと黙って耐えた。見てろよクソガキ。一泡吹かせてやる。
「そっちは行き止まりだぞ。自分から袋小路に行こうとしてやがる。狂ったのか?」
「師匠のニックネーム、いろいろあるだろ」
「はぁ?」
「スリム・ウルフが一番有名だよな。お前らは野蛮人って呼ぶ。でももう一つあるの、知ってるか?」
「なんだよ突然」
「アンブローズ・カレッジ史上“最高”の問題児。俺、師匠に一番似合うのはこれだと思うんだ」
言いつつ、アーネストはいきなり走り出した。そして突き当たりの石壁に
「『我は風、汝は風の通り道』!」
と叫びながら突っ込んだ。
石壁に衝突した――衝撃は無く、代わりに水に飛び込んだような感じがした。石壁の中だ。師匠から聞いた抜け道の一つ。ジェフリーたちからすれば、アーネストが壁の中に消えていったように見えただろう。
(ふんっ、ざまぁみろ)
アーネストはニヤリと笑いながら、壁の中を真っ直ぐに進んでいった。
†
エドガーはすぐに出た。
「こんにちは、ウルフです。今お時間よろしいでしょうか」
『ああ、いいよ』
知ってから聞くと、彼の声はアーネストとよく似ていると思った。アーネストより幾分か冷たくて堅苦しく、威圧感があるが。
『ちょうどこちらも話したかったんだ、アーチボルト。お前、私の弟を死なせかけたな?』
電話越しにもかかわらず、凍り付くような恐怖が背筋を走った。
アーチは唾を飲み込んで、肯定した。
「ええ。死なせかけました。私の対応が悪く、後手に回ったのが原因です」
『それだけではないだろう。一通り聞いてはいるが、すべて人伝だ。当事者から話を聞きたい。話せ』
「わかりました」
アーチより五つも年下なのに、それを感じさせない威厳と貫禄。彼の命令の前に逆らえる人間などそうそういないだろう。
どこから話したものか。アーチはこの短い二週間のことを思い返した。
†
アーネストは道に迷っていた。
(……まぁ、最悪校歌を歌えばいいから……)
壁を抜けた先は抜ける度に変わる、と師匠は言っていた。一度女子トイレの中に出てしまって肝が冷えた、とも。(幸いにして誰も使っていなかったから事なきを得たらしい。)
(女子トイレは免れたけど……ここ、どこ……?)
薄暗い廊下が延々と続いている。扉は今のところ一枚もない。どこか埃っぽくて、あまり使われていないことが窺える。こんなところが学校にあったなんて。
(なんなんだろう、ここ……けっこうヤバい場所のような気がする……)
アーネストは杖を構え、慎重に歩いていった。
(大丈夫。思い出せ。戦闘のコツは、ためらわないこと……)
俺はスリム・ウルフの弟子なんだ、と言い聞かせる。思い込め。最強の魔法使いの弟子なんだから、二番目に最強なんだと。
跳ねる心臓の音につられないよう、意識してゆっくりと進む。
突然、真横に人の影が現れた。
「っ?!」
アーネストはびくりと跳び上がって、杖を向けながら反対の壁際まで後退った。
「……なんだ、鏡か」
人影の正体は自分だった。ほうと息を吐く。
少し曇っている鏡は、かなり長らく放置されているようだった。大人の全身が映るほどの高さ。幅は二人分くらい。黒くすすけた木枠は鏡の歴史を物語っているが、それだけだ。これといった飾りもなく、特別なものとは思えない。
(通路、かな? 出られる?)
だが、よく分からないものに手を出すのは危険だ。特にこの学校内においては自殺行為に等しい。
(やめとこ。やっぱ校歌で帰ろう)
校歌を使うと、そこが空の上だろうが海の下だろうが問答無用で現実世界に放り出されてしまうから、少しだけ嫌なのだ。一度、校舎の屋根の上に放り出されたことがある。あの時は三人でいたからどうにかなったのであり、一人の今は不安の方が勝る。
とはいえ、より危険そうなものに手を出すよりは、確実に帰れるだけ幾分かマシだろう。
そう判断してアーネストは口を開いた。
――が、
「え……」
目の前で鏡の中の像が歪んだ。それに目を奪われて立ち尽くす。
自分だった虚像がぐにゃりとぼけて、縦横に伸び、
「……お父様」
父親の姿に変わった。
アーネストと同じサラサラのブロンドに、歳の分深まった青い瞳。線が細くて骨ばっていて、ちょっと殴られればすぐ骨折しそうな風体だ。なのに、しゃんと背筋を伸ばして立っているその姿は、厳しい吹雪を耐え抜く冬の木立のような威容を誇っている。
感情を映さないあの目に見下ろされると、アーネストは息が上手く出来なくなる。
それは鏡が相手でも同じ――
「……え?」
鏡の中の父は、アーネストの知らない顔をしていた。
慈愛に満ちた柔らかな微笑み。
そして彼は両腕を広げ、
『おいで、アーニー』
と呼びかけた。
その言葉に、声音に、アーネストは一瞬だけ我を忘れかけた。
だがそれも本当に一瞬のことだった。むしろ彼は悲しい気持ちと一緒に冷静さを取り戻して、鏡を睨みつけた。
普段は厳しい父の優しい声。矢も楯もたまらず飛び込みたくなるでしょう? ――そんな安っぽい目論見をする声が聞こえてきそうだった。
(残念でした。……たとえ偽物でも、お父様がそんなことするわけがないんだ)
父がアーネストを呼ぶことなどめったにない。呼ばれる時は怒られる時だ。猫なで声で“おいで”なんて……気持ち悪くて仕方がない!
『アーニー、こちらへ』
「くどい!」
一喝すると、虚像はぐにゃりと歪んで消えた。
次に現れたのは母だった。ブロンドに近い薄茶色の髪の毛を優雅にまとめ、色素の薄い瞳をたおやかに細めている。
『アーニー、こちらへいらっしゃい』
ああ、この方がまだマシだ。アーネストは皮肉げに笑いながら思った。と言っても、自分に魔法使いの素質があると分かった瞬間に彼女が起こしたヒステリーを思えば、こんな薄っぺらい笑顔など信じられたものでないが。
アーネストは段々、この鏡のことが分かってきた。
(鏡の中へ引きずり込みたいんだな。関わりの深い人を映して、誘惑して)
それなら、次は一体どんな手を使ってくるのだろう?
喧嘩を買ったような荒々しい気分で、アーネストは鏡に向き合った。
次は兄だった。アーネストをそのまま大きくして、目付きを鋭くすれば彼になる。
『アーニー、こっちへおいでよ』
兄の満面の笑みを見て、アーネストは思わず笑ってしまった。
「あっははははは! 兄様にそんな顔ができたのか?! あははははは!」
笑いながら、なんだか泣けてきた。壁に背を預けて目元を擦る。
(……ちゃんと、話さなきゃ)
逃げ続けてはだめだ、と言った時の師匠の顔をよく覚えている。心の色も。
(悲しみと寂しさと、後悔。強い後悔。……師匠は、お父さんのことが大好きだったから。俺は……俺は、どうなんだろう……)
師匠のことを考えたからだろうか。
鏡はまさにその人を映し出した。真っ赤なコートの魔法使い。噂から想像していたよりはずっと表情豊かで、笑ったりムッとしたり照れたりと忙しい人だった。けれどしっかりと“大人”だった。こういう大人へのなり方もあるのか、とアーネストは驚いたのだ。アーネストにとって“大人”とは、感情を一切見せない生き物を指す言葉だったから。――まして泣くことなんて、絶対にありえないと思っていたから。
彼の両脇にはヴィンセントとダニエルもいた。
『アーニー、何もたもたしてんだよ』
『早くおいでよぉ、アーニー』
「……それで呼ぶな、って言っただろ」
学校にいる間は家族のことを忘れていたくって、最初に頼んだのだ。絶対に愛称で呼ばないでくれ、と。二人とも快く承諾してくれて、以来本当に呼ばないようにしてくれている――ヴィンセントは怒るとわざと呼んでくるけれど。
『行きますよ、アーニー』
師匠には頼まなかったのに、たぶんヴィンセントと喧嘩した時にだろう、察してくれたようで、呼ぶことはもちろんその理由すら聞いてこなかった。
『どうしたんですか? ほら、早く』
師匠がこちらに手を差し出す。ヴィンセントとダニエルも手招きしている。
最初にこの三人が出てきていたら、飛び込んでいたかもしれない。その事実が嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない気分になった。
ただ、はっきりと言えることが一つだけある。
「虚像に用はないよ。俺はこっち側で、充分に幸せだから」
師匠に会う前なら行ってしまったかもしれない。
ヴィンセントとダニエルに会う前なら、間違いなく行っていた。
けれど今のアーネストにとって、現実は逃避するほどのものではない。
パキンッ、と小さな音を立てて鏡に亀裂が入った。幻想が消える。曇った鏡の向こうには自分が映っている。
自分はなんだか悲しげに微笑みながら、壁に寄りかかっていた。
(さて、もう少しだけ彷徨うかな……)
と思ったその時、鏡の中で壁がフッと消えた。
「っ、うぇっ?!」
いや、消えたのは鏡の中の話じゃない。現実の話だ――!
理解した時には、アーネストはぐるんとひっくり返って、闇の中を落ちていた。
†