淫謀
お銀――と、障子を閉めると同時に、潜めた声が聞こえた。
「あら――」
形の良い唇から、艶のある返事が漏れる。
「まだ宵の口にもならないのに、気が早いんじゃない」
口元に手を当て、お銀がころころと嗤った。
「恒が戻ったようだ」
部屋の隅に凝った闇の中から、掠れた声が響いた。
「仁平と杉作はどうしたんだい?」
「分からん。今、巳吉の奴が行っている」
暗がりから完治が姿を現すと、お銀の身体を抱き寄せる。
「止めな。お頭がいるんだ」
そう言って完治を突き放すが、本気で嫌がっているわけでは無い。
その証拠に、頬が仄かに上気している。
知ってか知らずか。完治は、お銀の背後に回ると背後から抱き締めた。
もう――と、溜息を一つ。
お銀はその身を擦り付けるように、完治に預けた。
「お銀よ、お前さんが気にしているのは、杉作たちじゃなくてあの男だろ」
するりと、完治の掌が、お銀の胸元に滑り込む。
あっ――
「あの男の事が気になって、疼いてしかたないのだろぅ」
白いうなじに息を吹きかけるように、完治が囁く。
「な、なにを馬鹿な事を――」
顔は背けるも、その身の重さは、更に完治に預ける。
「あの男、どこか同じ匂いがする――」
「だ、誰とさ」
「それはお前が一番分かっているんだろぅ――お頭さ。虎磁だよ」
びくり――と、お銀が身を竦ませる。
完治の舌先が、お銀のうなじを舐めあげた。
「強い男を見るとお銀、お前の女は疼いて疼いて堪らなくなるのだろぅ」
と、懐に入れた掌に力を込めた。
あっ――
「もっとも、常識で考えれば、あの状態で生きているわけがない。今頃、恒の話を聞いて巳吉の野郎が、死体の引き上げの準備をしているころだろうよ」
「あの男――一体何者だったんだろうねぇ」
「侍の臭いはしなかったな……むしろ俺らと同じような」
「まさか、隠密かい?」
お銀の眼が鋭く光る。
「有り得る話だ」
「だとしたら、一体どこの回し者だってんだよ」
「萩が我らの内情を探りに寄こしたか。それとも無くば会津か薩摩辺りの間者か……」
完治が首を傾げる。
「でもあの男、探るというよりも、皆殺しにしようとしていたみたいだった」
「情けの一片も無い、非情な手口だったな」
感心したように、完治が頷く。
「まさか――あたしたちの事を感づいて、御公儀から送られた刺客では?」
お銀と完治は、江戸の幕府の手により送り込まれた隠密だった。
江戸において、長州の高杉晋作らが組織したこの「百鬼天狗党」。
表向きは過激攘夷を隠れ蓑にした盗賊一味の態を成しているが、その本質が幕府転覆を視野に入れた武力集団であったことは一目瞭然。
とは言えど、田舎山賊紛いの集団では、さして問題にする必要も無かった。だが万が一のことを考え、監視の意味で内部に潜り込ませた隠密が、お銀と完治だった。
当初は、寒村の食い詰め者を中心とした、まさしく強盗一味だった。
しかし、長州から流れ込む潤沢な活動資金をもって武装化が進むと、天狗党は存在を無視することも出来ない力を持ち始めていた。
有りの儘を報告するか否か――お銀と完治のとったのは『いま暫し、脅威とはならぬ。だが予断は禁物』との一報だった。
結果、百鬼天狗党は継続的な要監察対象となり、お銀と完治の潜入活動は継続されている。
だが――
「それは無いな」
お銀の言葉を、完治はきっぱりと否定した。
「最初に殺られた木挽きの村――」
お銀が、柔志狼と俊輔と出会ったところである。
「東の森の中、喜市とお園が死んでいた」
喜市とお園は、定期連絡に来る隠密の仲間である。
「誰が二人を?そんな事をすれば、御公儀に怪しまれるじゃないか」
潜め声であるが、お銀の声に怒気がこもる。
「最初、俺はてっきり、お前の仕業かと思った」
「馬鹿な事を。あたしが危険な橋をどうして渡らなきゃいけないんだい」
「分かってるよ。殺ったのは男だ」
「男?」
「お園が散々に犯られていた」
「なら――」
「間違いなくあの男か、お頭に会いに来た伊藤とかって若造だな」
「どうするんだい。ヤバいじゃないか」
定時連絡に来た二人が戻らねば、御公儀の眼は否応なしにこちらに向く。
内情を偽り報告し、長州から送られる金で私腹を肥やしていた二人にとっては好ましくない状況になる。
「どうする?いっそ、今あるだけのお宝抱えてずらかるか――西へ出て京か堺にでも紛れるか。それとも長崎にでも隠れるか」
「せっかく、ここまでやってきたのにかい?天狗党を掌握するのもあと一歩じゃないか」
「あの男に随分と殺されちまったからな……潮時ともいえるんだが」
さらりと言う完治を、お銀が恨めしそうに睨みつける。
「さもなきゃ、予定よりも早いが虎磁を殺して、この百鬼天狗党をいただくか」
完治が口元を歪めた。
「薬を使うかい?」
「なんにしても慎重に事を運ばねば。杉作の馬鹿なら良かったが、巳吉は賢しいからなぁ。バレると後々面倒だ」
「こんな事なら、あの男を生かしてここまで連れて来れば良かった」
お銀が頬を膨らませる。
「虎磁とぶつけるのかい?」
「あの男の目的が分からないけど、旨くすれば共倒れの目だってあったかもしれない」
「冗談じゃない。その前に俺が殺されるところだった」
思い出してもぞっとする。あの時、杉作が来なければ、こんなかすれ声だけでは済まなかった。剣で斬られるのとは違う、己の肉体が砕かれるような感触は恐ろしかった。
「なんにせよ、お園と喜市が死んだ以上、あまり時間は無い。早急に対策を講じねば、我らの命が危ない」
「冗談じゃない。虫けらのように使われて、二束三文で生かされるなんてもうごめんだ。あたしはこの一味を足場にして、生まれ変わってやるんだから」
切れ長の瞳に、暗い焔が灯ったようだった。
「俺だって同じだぜ。二人でここを踏み台にして、クソみてぇな隠密とはおさらばするんだからな、お銀よ」
完治が掌に力を込めると、襟の上からお銀がそっと手を重ねた。
その時だった。
落雷のような轟音が空気を震わせた。




