剣酒
土蔵から出されると俊輔は、離れにある茶室のようなところに通された。
既にそこには酒の用意が成されており、虎磁と共に俊輔は座につく。
二人を部屋が部屋に入ると、お銀はひとり立ち去った。
その形の良い尻に、俊輔の眼が釘付けになった。
「良い女だろう」
じっ――と、穴の開いたような怖い眼で虎磁が言った。
虎磁に促され、俊輔が席に着くと、向かいに腰を降ろした虎磁が酒を勧めた。
盃を受けると、今度は俊輔が虎磁に注ぐ。
軽くさかずきを持ち上げると、ふたりは無言で口に運んだ。
そのまま無言で、膳に並べられた料理を口に運ぶ。
「京は大変な事になっているのでしょうな」
盃を膳の前で持ったまま、虎磁がぽつりと言った。
「私は京には殆ど行っていないので、なんとも詳しい事は分かりませんが、鏑堤さんの想像以上に悲惨な状況のようですよ」
ダシの良く染みた芋を口に運びながら、視線を上げると、虎磁と眼が合った――気がした。
そうではない。
虎磁の眼は、俊輔を見ず、その向こうにある虚ろを見ているようだった。
「長州の方々が昨夏に都落ちされたと聞き及び、心配していたのですが」
「今の京は薩摩と会津を中心とした佐幕派に牛耳られていますね。我々長州が都落ちしたことにより尊攘派は足場を失い、正直がたがたです」
その話に虎磁が静かに頷く。
「私たちはまだましです。厳しく監視され表立っては動くことは出来ませんが、京にある藩邸は機能していますし、そこを逃げ込んでしまえばどうとでもなる。それよりも、志高く各地から集まった浪士たち悲惨ですよ。長州の後ろ盾も無く、されど帰るべき場所も無い。あの夏の一件で調子に乗る壬生狼たちが、生意気にも調子に乗って幅を利かせているものですから、次々に狩り取られています」
尊皇攘夷の急先鋒として活動していた長州は、そのあまりに突出したが故に、攘夷思想の強かった孝明天皇であるが、ついに逆鱗に触れることとなる。その結果、薩摩、会津を中心とした公武合体派により一掃され、都落ちすることとなった。
それに代わり京の都では会津中将松平容保が率いる「京都守護職」を中心に、厳しい攘夷派浪士狩りが行われていた。
ここで言葉を切ると、俊輔は酒で咽喉を湿らせた。
ちら――と、虎磁を盗み見るように視線を上げる。
相も変わらず、視線の定まらぬような虚ろな顔でそこにいる。
なるほど――と、本当のところ耳に入っているのかどうか疑わしいが、俊輔の言葉をまるで菩薩像のような表情で聞いている。
「桂や久坂、吉田が京に残り、なんとか生命線を繋いでいる状況ですが、正直なところ現状、困窮を極めていると言っても良いかもしれません」
「そのような状況で、御国許の方は大丈夫なのですか」
「そう、それが問題なのです」
思い直したように、俊輔が顔を上げた。
「そう仰いますと、ついに動きますか?」
ほんの一瞬、微かに虎磁の口角が上がった気がした。
「いや、ちょっとお持ちください。我々としては孝明帝の誤解を解き、なんとしてもお怒りを鎮めていただかねばなりません」
「では如何致せと?我らとしてはいつでも事を起こせるように、武器弾薬の準備に余念はございません」
「それが問題なのです」
「はて?」
「今ひとたび事を起こせば、攘夷派に対しての風当たりは強くなり、孝明帝の怒りに油を注ぐ形になります」
何とも口惜しそうに、俊輔が俯く。
「ですが、そもそも我ら百鬼天狗党は、それを本来の目的として作られたはず」
淡々と返す虎磁の瞳は、そんな俊輔を見ていない。
「京において、長州を中心とした尊皇攘夷の志士たちが事を起こす際、江戸の幕府の動きを混乱させるため同時に決起すべし――その為の資金や、下地を作ってくれたのはあなた方、長州藩だ」
じっ――と、俊輔の様子を窺うように、虎磁が見つめる。
「私は江戸での、高杉さんの言葉に感銘しお力になりたいと、この百鬼天狗党――いや、鬼兵隊を作ったのですよ。いわば我々は関東におけるあなた方の代弁者だ」
攘夷あるべし――そう呟くと、中身の残る盃を壁に放った。
割れた杯から酒の雫が跳ねると、俊輔の頬に当たった。
「それは今も本心でしょうか」
「なに?」
「幕府の権威を失墜させるために、関八州――特に、江戸より近くて遠きこの上州並びに秩父、果ては甲州にいたる各地で盗みや火付けなどの騒ぎを起こし、混乱を生み出す。たかが野盗ですら鎮圧できぬ今の幕府体制の無能ぶりを、広く市井の人々に広めんと暗躍する――」
俊輔が頬に跳んだ酒を拭う。
「それにより得られた資金を使い、密かに武器や弾薬を備える。然る後、我ら長州の、京での決起に合わせ、幕府に揺さぶりをかける。そうでしたよね、鏑堤さん」
「いかにも」
「やり過ぎなんですよ」
ぽつり――と、俊輔が呟く。
虎磁の眉が、ひくりと動いた。
「必要以上に殺め犯し、人々に無駄に恐怖を植え付けて、これでどうして尊皇攘夷の志士と公言できます?これではただの盗賊。志無き鬼畜の所業」
俊輔の辛辣な言葉にも、虎磁は静かにそこにいる。
「先ほど、決起に向けて準備をしていると仰いましたよね。それは女を買い酒を呑み、贅に溺れるということなのですか」
俊輔の視線が、虎磁を真っ直ぐに見つめる。
「あなた方は道を誤った」
「ほう――」
虎磁の顔に薄い笑みが浮かんだ。
「あなたの言う通り、我らは道を謝った……だとしたら何だと言うのです?」
虎磁の内部に、なにか怖いものが凝っていく。
冷たくどす黒いなにかが、俊輔の足元から這い上がっていく。
「どうもこうもありません」
と、膝を叩いた。
「そもそも我ら長州とあなた方、百鬼天狗党とは最初からなんの関係も無い。高杉晋作と鏑堤さんとは何の面識も無い。ですから、あなた方が何をしようと、それは我らの感知することでは無い――そういう事です」
くすり――と、俊輔が笑った。
「蜥蜴の尾を切る――そういう事ですか」
「我らにとって最早、江戸と言うところは、害悪である幕府が存在する以上の意味はないのです」
俊輔が虎磁の眼を見つめる。
このような人間が存在するのか――感情の見えない真っ白な虚ろな穴のような眼だった。
じっとりと掌にかいた汗を握り締める。
「外が騒がしいですね」
虎磁が視線を外し、障子の向こうを見つめる。
確かに、何やら人の動きが騒がしいようだ。
「では私たちは何の関係も無いと言う事になりますね」
虎磁が話を戻した。
「そうなりますね」
俊輔が答えた瞬間、虎磁の中に凝っていたものが圧力を増した。
「ならば、あなたは客人でもなんでもない――ということになりますね」
虎磁から溢れたそれが、帯電したように俊輔の皮膚を震わせる。
「そうなりますかね……」
逃げ出したいほど恐ろしかった。
飢えた虎の前に放り出された様な気がした。
ほんの僅か――薄紙一枚分ほど僅かに、虎磁の尻が浮いた。
「ひとつ伺っても宜しいですか」
「なんでしょう」
「この寺に元々いた住職はどうされたのですか?」
「あぁ、そんなことですか。あの方でしたら御仏のより近くに御使えして喜んでいると思いますよ」
「あぁ、成程ね。それは坊さん冥利に尽きるというやつですね」
震えを押し殺し、俊輔が己の手首の肉を摘まんだ。指先に細く固いものの感触を確かめる。
仕込み針――腕の肉の下に四寸ばかりの針を隠している。
「伊藤さんと仰いましたよね。どうです、貴方も御仏の御側に仕えてみると言うのは?宜しければ和尚と同じようにご案内致しますよ」
くい――と、虎磁の口が吊り上った。
「――え、遠慮させてもらいますよ」
俊輔も尻を浮かせる。
虎磁との間に張り詰めるものが、耐え切れないほど圧を増している。
思わず顔を背けたくなるが、その瞬間に俊輔の命は無いだろう。
「――もうひとつ。あなたはこの天狗党をもって何をしようと言うのです」
乾いた咽喉から絞り出す。
「質問はひとつだったのでは――」
「そうでしたっけ?」
手首を摘まむ指先に力がこもる。
「まぁ、良いでしょう。もとより、我らが目指すは自由――」
「自由?」
「己が欲望のままに喰らい、殺し犯す」
虎磁が視線を外し、天井を仰ぎ見る。
「好きな時に喰らい、好きな時に殺し好きな時に犯す。誰もが好き勝手に振る舞い、のたれ死ぬ――素晴らしい世になると思いませんか」
狂ってる――この男は狂っている。
「そのような事が出来ると本気で御想いですか?」
「さて――」
虎磁が首を傾げる。
「もうよいでしょう。あなたの首を持って、高杉との決別の証としましょう」
張り詰めていたものが限界まで高まり――
来る――俊輔の手に力がこもる。
――一瞬で、消失した。
「えっ?」
寄りかかっていた壁が突然消えたかのように、俊輔の身も気構えもが崩れた。
次の瞬間――虎磁が眼前にいた。
座ったままの姿勢から、一瞬で音も無く跳んだのだ。
中指を突き出した虎磁の両の手が、俊輔の耳朶に向かい伸びてくる。
俊輔は己の死を覚った。
だが、その時だった。
まるで落雷にでもあったような轟音が、空気を震わせた。
「少しだけ寿命が延びたな」
虎磁の指先が、俊輔の耳朶を弾く。
「何事だ!」
俊輔をその場に残し、虎磁は部屋を出て行く。
だが俊輔は、己の手首を握りしめたまま、動くことが出来なかった。